翌日は一日中、薫は事務処理であたふたとしていた。

 なにしろ彼は政治家の下で事務に当たるいわゆる事務方官僚の弁官と、閣僚間や帝との事務のつなぎ役の蔵人を兼ねているのだ。忙殺の二文字が、その日常を支配している。

 そしてある日やっと、薫は公務の合間を見つけた。宮中に仕えるものたちにとっては、いかにして仕事の手を抜いてこういった時間を見つけるかで人生の損得が決まるといってもいい。

 閣僚も薫の同僚たちも忙殺されている割には怠け者が多く、そのしわ寄せはどうしても真面目なものの方にまわってくる。正直者が馬鹿を見るのだ。そして怠け者は要領だけはうまくやらないと将来の出世に響くので、結局は悪知恵のあるものが得をすることになる。

 薫は公務の合間を見つけたとて、怠け心からではなかった。

 用があったのだ。

 もっとも私事でだが、薫はその用のために清涼殿の殿上の間を抜け出して、紫宸殿の裏手の簀子を歩いていた。何しろ帝のお代理で、本来なら宮中にいてもらわねば困る関白が、自邸で病床に伏せっているのである。

 だから、蔵人たる身は宮中と東二条邸の間を一日に何往復もさせられることはざらで、しかも都大路では車で庶民をかき分けて進んでも、大内裏の手前で車から降りて内裏まで歩かねばならない。

 実際のところ車に乗るのは着くまで座っていられるというだけのことであって、移動速度は車も徒歩も大して変わらない。

 今日もそんな東二条邸へ行く命令が下されないうちにと、薫は左近の陣へと急いでいた。そこは陣定がないときは、左近衛府の役人の詰め所となっている。

 薫の目当ての左中将は、幸いそこにいた。薫は軒廊の方からその左中将を手招きして、二人でだれもいない宜陽殿に入った。左中将は関白の弟である右大臣の次男で、二十四歳の若者である。

 薫はこの男をよく知っており、好意を持っていた。だが、同時に例の藤左少将の上司でもある。


「そのことでございますか」

 薫が藤左少将の話を持ち出すとすぐに、中君の妹への求婚のことなどもすべて納得しているようだった。

 右小弁である薫は身分的にはこの左中将より下ということになるが、この若者は薫より若いだけに腰が低い。そのようなところが、皆から好かれる所以ゆえんでもある。

「あの少将は私よりも年は上ですが部下ですから申し上げますが、あまり好感は持てませんね」

 めったに人の悪口は言わないこの左中将がここまで言うのだから、よほどなのだろう。

 そのあと薫は左中将の口から、藤左少将の家柄とか位とかも聞いた。血筋は北家だが傍流で、位は正五位下、年は二十五だということだった。

「その男なら、陣におりますよ」

 そう言われて薫は、左近の陣で左中将を呼んだ時、ほかにも数人の人がいたのを思い出した。

 左中将が遣戸を少し開けたので、薫はあらためてその左近の陣を見てみた。宜陽殿の西側には簀子はなくいきなり土廂で、軒廊越しに左近の陣はよく見える。

 そこにいる数人の中の一人を、左中将は薫に示した。遠目でも、それがさえない男であることはすぐに分かった。顔は細く、目もつり上がっている。

 あのような男が自分の最愛の女性であった大君の生き写しの妹の婿になどならなくてよかったと、薫はつくづく思った。

 その時、遠くで声がした。それは薫に向けられたものであった。

「あ、そのような所におられたのですか」

 声の主は、宜陽殿からのぞいている薫の姿を見つけ、紫宸殿の前庭の左近の桜の前を通って走って来る若者であった。

「弁殿。困りますよ。このようなときに殿上にいて下さらねば」

 肩で息をしている若者は、二十歳の頭中将だ。関白の長男である内大臣の長男、つまり関白の嫡孫である。

「どうか、されましたか?」

「どうかではございません。早く東二条邸へいらして下さい。祖父の関白殿下が……」

「まさか……」

「いえ、まさかというわけではないのですが、とにかくお急ぎ下さい」

 いくら相手が二十歳の若者とはいえ、頭中将である以上薫の上司であり、従わざるを得ない。薫は左中将とともに走って建春門を出て、さらに陽明門をくぐり、そこからはひとつ車で東二条邸へと向かった。


 東二条邸はほとんどの上達部が集まっているらしく、人びとでごったがえしていた。

 その中へ、勅使も到着した。

 はじめ薫は何の勅使だか分からずにいたが、聞くと関白辞表に対する勅許だとのことであった。帝はまだ十一歳で関白自身がその代行者なのだから、事実上勅は常に関白から出る。つまり関白の辞表に勅許が下ったというのは自分の辞表に自分で許可を下ろしたものだからおかしな話だが、要は形式だけの勅許であろう。

 関白がその任に就いてから、まだ四日しかたっていない。そのことは、関白の病の重さを世間に知らしめて余りある。

 もっとも関白職のような重職は任じられたら形式的にまず辞表を出すのが慣わしで、三度辞表を出し、三度却下されてはじめてその任に就く。

 だが今回は、たった一回の辞表が受理されてしまったのである。辞表の却下は不可能になっている状況で、それゆえに人々は東二条邸に駆けつけてきているのだ。

 関白本人には、誰も面会ができないようだった。そして関白の長男の内大臣が寝殿の南面や廂、簀子にまでひしめく人々の前に出て、関白太政大臣が落飾入道したことを正式に告げた。

 これでもはや、噂は噂ではなくなったのである。


 今、一つの時代が変わろうとしていた。今日中にでも、次の関白が任じられよう。だがそれは、極端に早かった。内大臣がまだ南面で人々の応対をしているうちに、次の勅使が来た。しかも、次の関白を任じる勅使であると、だれともなく言いだしていた。

 もちろんさっきまで関白だった老人が、関白だったときに出させた勅使に決まっている。あるいは、次期関白がすでに手回しをしたのかもしれない。

 その次期関白だが、候補として左大臣は源家なので論外として、あとは先ほどまで関白だった太政大臣の弟の右大臣――四十九歳と、先ほどから皆の応対をしている太政大臣の長男の内大臣――三十八歳の二人しかいなかった。

 だが右大臣はその息子たちの昇進のことで、たびたび太政大臣と衝突していたから部が悪い。

 果たして宣命は「内大臣をして万機を関白せしむ」ということであった。

 人々の中でどよめきが上がったが、それはやはりという意味合いのものであった。これは実質上前関白の入道太政大臣による、病床からの自分の後継者の指名でもあった。

 新関白に指名された内大臣は「おう」と叫び、一度奥の父のもとへ行ってから、慌ただしく参内していった。

 あとの人々も、三々五々と宮中へと戻っていった。

 薫もすぐに宮中に戻らねばならない立場であったが、入道太政大臣より直々に召されてその病床に侍していた。

 おおかたの上達部は宮中に戻り、屋敷の中は人の気配も少なくなっている。そんな中で薫は前関白の形が変わった姿をも直に拝したわけだが、その同じ席には入道太政大臣の五男である権中納言右衛門督と、入道太政大臣の娘婿である匂宮もいた。

「法名は如実とし申した」

 上半身すら起こせない状態で、入道は薫を見上げていた。

「わしはそなたの父上の源氏の君の六十九というお年よりはまだ若いが、お父上にもうすぐお会いできそうでござる」

 言葉も、かなり弱々しかった。これがこの国の最高権力者だった人の末路かと思うと、哀れでもあった。頬は肉がこけ、顔もしわだらけである。

「これからは、そなたたち若者の世となりまする。老人は去るのみでござるよ」

 少し笑みを浮かべてから、その老人は激しく咳き込んだ。これ以上自分たちがいると体力の消耗になると、薫は後の二人を伴って部屋から退出した。

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