第7章 東屋
1
宇治で出会った大君の妹という姫君は筑波峰を踏み分けてでももう一度会いたいと思う人であったが、薫はまたいつもの躊躇癖が出て文も出さずにいた。
薫の意思は弁の尼君を通して、間接的に先方に伝えられただけである。すでに情熱に任せてという年ではないし、とりあえずは人任せでも本当に因縁があるならばなるようにしかならないはずだと薫は思っていた。
季節は梅雨を迎え、暑さと湿気と雨の盆地にいやでも閉じ込められることになる。そんな時に、世の中も変わった。摂政太政大臣が摂政を辞し、即日に関白宣下があった。
摂政を辞したのは誰もが関白になるためだと思っていたし、実際に帝も御年十一歳とはいえ加冠を済ませあそばしたのだから成人ということになり、摂政から関白になるのは自然の成りゆきであった。
ところが梅雨の長雨が降り続く中、太政大臣の摂政の辞任の真意はほかにあるのではないかという噂が、人々の間で広がりはじめた。
摂政から関白になった太政大臣は、賀茂の祭が終わった頃から東二条邸で病の床に伏せっていたのである。夏風邪をこじらせたくらいだと最初は誰もが思っていたが、何しろ高齢であるため事態は深刻だということも、すぐに人々の間でささやかれはじめた。
それと同じ頃、薫は私事ではあるが、ある情報に接していた。かの大君や中君の異腹の妹には、すでに結婚が決まった相手がいることが判ったと、弁の尼君が文で知らせてきたのである。
薫は自分の運命に苦笑した。大君の生き写しの異腹の妹に数奇な運命で宇治にて遭遇したのに、その時点ですでに遅かったのだ。かの姫も、中君同様に人の妻になろうとしている。
いつもこうなのだとおかしくなると同時に、それなら宇治で出会わなければよかったと運命のいたずらを恨んだ。しかも姫は宇治の宮の落胤としてではなく、その母親が現在嫁いでいる前常陸介の娘としての婿とりだという。そうなると、相手は殿上人でさえない可能性がある。
弁の尼君に聞きにわざわざ宇治くんだりまで行く必要もないと思った薫は、これを機に例の姫君のことは忘れることにした。その方が楽である。だから宇治へ行くことはしなかったし、また公務上からもそれは不可能であった。
関白太政大臣の病は一進一退で、薫も東二条邸に詰めていた。関白の息子たちも皆集まっていたが、娘となるとそうはいかない身分の人が多く、いるのは匂宮に嫁いだ六の君だけだった。
皇太后は軽々しく動けないし、それぞれの娘の婿は冷泉院、一院法皇、東宮であるから、その娘婿たちもたやすく集まれる身分ではない。
匂宮でさえすぐそばの二条邸にいるくせになかなか顔を出さず、薫はその名代として参上していた。さらに薫の妻は関白の姪で、関白は薫を娘婿同然に思ってくれていることも薫が参上した理由であった。
匂宮が顔を見せたのは、数日後の夕暮れだった。薫は名代の役目は終わったと、入れ替わりに東二条邸を出た。この日は雨は降っていなかったが空はどんよりと曇り、今にも泣き出しそうであった。
車の中で薫はふと、三条の自邸に戻る前に二条邸に行ってみる気になった。ここのところ二条邸に行ってもずっと匂宮がいて、中君にはなかなか会えなかった。今は匂宮は東二条邸にいる。だから、久々に中君の機嫌でも伺おうと思ったのだ。
二条邸の西ノ対では、廂の間まで案内された。案内されたのは西の廂だが、その北半分は外から格子が下ろされ、その部分の内側と薫のいる所とは屏風で仕切られていた。今までにはなかったことである。
身舎の御簾の中に、中君は出てきた。薫は東二条邸からそのままの足で来たので、束帯姿である。
屏風で隔てられた西廂の間の北半分が気になっていた薫は、さっそくにその疑問をぶつけてみた。
「何か、特別なことでもあるのですか? 西の廂が半分に仕切られておりますが」
「あ、いえ。それに関しては、後ほど」
そう言われてしまえば仕方がない。中君も何か言いにくそうにしていたので、薫はそれ以上追及せずに話題を変えた。
「昨夜は関白殿下のご容態がお悪いということで参上したのですが、婿君がどなたもおいでにならないので、私が代わりにおつき申し上げていたのですよ。先ほどようやく匂宮様はおいでになりましたけれど」
「まあ、そうでしたか」
他人事のように中君は言ってにこやかにしているのが、御簾越しでも見えた。中君にとって、関白の病などまさしく他人事のようだ。ましてや、自分の夫のもう一人の妻の父親であるから、いい感情は持っていないだろう。
「湿っぽい雨が続いていますね。心の中まで湿っぽくなって、また亡き人を思い出してしまいますよ」
「蔵人弁様。そうやって昔を振り返ってばかりいないで、もうそろそろあなた様ご自身の人生をお作りになったらいかがでしょうか。昔を振り返るのは、私だけでたくさんです」
「何を言われる。あなたこそ若君もお生まれになり、これからの楽しみも多いでしょうに」
薫は少々きつく言ったので、中君は少しだけ言葉を切ってから言った。
「申し訳ありません。生意気なことを」
薫は一つ咳払いをした。
「私自身の人生を作ると言っても……あなたは人型として、私に勧めた方がおりましたよねえ。そうやってほかの人を私に押し付けようとするところが亡くなった方と同じだと思うと、縁起でもないことを考えてしまいますよ」
「しッ!」
中君は薫の言葉を制して、衣擦れの音ともに御簾の内側に近づいて、小声で言った。
「来られているのですよ、その方が」
「え?」
「その屏風の向こうに。だから、声をお落としになって。まる聞こえですよ」
薫はしまったと思うのと同時になぜそれを早く言わないのかと中君を責める気持ちにもなったが、それよりも「なぜ?」という疑問の方が勝っていた。
薫も御簾の方に近づいて、ささやくような声で中君に話しかけた。
「その方は、もう結婚される方が決まっておいでというではありませんか。あなたはそのことを、ご存じではなかったのですか?」
「どうして、そのことを?」
「弁の尼君から聞いたのです」
「そうでしたか。実は私も最近になってはじめて知ったことなのですけど」
中君は、伏せていた目を上げた。御簾越しでも、こう近くに寄れば互いの顔はよく見える。
「実は、このお話にはわけがありまして。今日あの方がこちらに参られたのは、そのことも関係しているんですが」
「どういうことですか?」
再び薫の声が高くなったので、中の君はまたシッと制した。
「どういうことですか?」
もう一度同じことを、薫は小声で言い直した。中君は、周りの様子をうかがっていた。
「今日はもう、お帰りください。いつまでもいらっしゃったら先方の女房にも怪しまれますし、ひそひそ話しているのもいい感じは与えないでしょう」
「しかし、詳しいことを聞かない限りは……何しろ、そのあたりのことは疎い私ですので」
「でも、私の口からは、とても……」
中君は、自分の後ろに首をひねった。
「大輔の君」
呼ばれた女房は、すぐに出てきた。そのものに中君は何やら耳打ちし、そのまま奥に入ってしまった。大輔の君はそのまま廂に出てきて薫を招き、東の簀子に座った。ここなら西の廂までは声は届かないし、姿も見えない。寝殿の方からはまる見えだが、もう庭もだいぶ暗くなっていた。
そんな中で、大輔の君は話しはじめた。
「実は、今おいでになっておられる姫君のお相手と申しますのは、藤の左少将様でして」
そう言われても、薫には顔が思い浮かばない。薫が近衛府を去って弁官になってからすでに時久しく、しかも薫が知っている頃に藤の左少将と呼ばれる可能性があった者は今ではもう出世していて少将ではない。
「その左少将とは?」
「関白殿下とは別のお血筋のようですが、実はすでにその話は破談になっております」
「破談? では……」
薫は首を微かに動かして、西の廂の方を示した。
「あの姫君は、結婚はなさらないことになったのですか?」
「はい」
薫の心の中に、一条の光がさした。だが、話がおかしいという不審感もぬぐい去り得なかった。
「どういうことですか」
「左少将殿はあの姫君にご自分から懸想をなさっておきながら、突然にお妹君の方に鞍替えされたとか」
「妹君? あの姫のほかにももう一人妹が中君様にはおられるのですか?」
「いいえ。妹と申しますのは、姫の母君と現在の夫君との間の娘御です」
つまりあの姫にとって、父が違う妹ということになる。
「そうか……。それにしても、姉から妹への心移りとは……」
姉から妹と言ってしまってから薫は自分が後ろめたくもあったが、自分の場合は大君の死という特殊な事情があったと考えていた。
「それで姫君は、一度は婿君にと思っていた相手が妹に通うようになって、同じ屋根の下で妹と睦んでいるのが耐えられずに、母君と共に縁故をたどってこちらのお屋敷に来られたとのことでございます」
「そうでしたか」
「中君様は父宮様が娘として認めていらっしゃらなかった方を妹として扱っていいものかどうかお悩みになっておられましたが、軒の下に寄った方ですし、父宮様はどうあれご自分にとってやはり妹は妹だと」
「そう。あの人はそういうお方です。ところでこのことは、兵部卿宮様はご存じなのですか?」
「それがまだなのでございます。と、申しますより、中君様は、姫様のことを宮様には申し上げるつもりはないようです。宮様は西廂にはめったにおいでになりませんし、今は関白殿下のところにお詰めになっておられることが多く、戻られても若君に夢中でございますれば」
これで、だいたいのあらましは薫にもつかめた。相手は左少将というから、
いずれにせよ、弁の尼君から聞いた姫の結婚話はなくなったのだ。だが、少なくとも本人は傷ついているはずである。
「では、中君様からその姫君に、私が弁の尼君を通じて申し入れたことが反故にはなっていないと伝えて下さるよう、中君様に申し上げておいてください。急がなくてもいいですから、とも」
薫はそれだけ言って、二条邸を後にした。
姫君から見れば見ず知らずの人である自分が、傷ついているはずの姫君に面会を求めるということは、薫はあえてしなかった。とにかく今は、居所が分かっている。それだけで十分だった。
だが、同じ屋敷内に中君も、匂宮も、そして自分の姉もいる。だが、姫が自分にとってどのような存在なのか薫自身が分かっていなかったので、それは気にならなかった。今はただ、不遇な姫の世話をして差し上げたいという気持ちだけであったが、本当にそうなのかということには自信がなく、将来について予感めいたことが潜んでいるのも事実だった。
結婚を破断にした男の目当ては財力だったに違いない。受領の娘ならだれでもよかったのだ。
前常陸介のような受領階級は、身分は低くても財力はある。ましてやその前が陸奥守だったというのだから金蔵も同様だ。陸奥と大宰府はひとたびそこが任地となって下れば、帰洛後は巨万の富を築くことになる。そのような家の婿になるのは、五位程度の官人ならすぐにでも飛びつく話だろう。
だがそういう下賎な感情は、薫にはどうにも理解できない。
それで姫が前常陸介の実の娘ではないことを知って、縁談を破談にした。姫が宮家の血筋だということは、何の魅力も感じないのだろう。
だいいち父君の宮様がすでに亡くなっている以上、何の後見を受けられるわけではない。それにたとえ在命だとしても、宮家は血筋はやんごとなき流れでも財力が乏しい。
薫はそこまで考えて、少々不機嫌になった。
血筋よりも財力――それを思うと、昨今の若者の意識の変化に悲しいものが感じられる。
しかし残念ながら、それが今の風潮だった。だから受領の娘は、財力目当ての結婚を目論むものたちの狙いどころとなる。上達部なども相当の収入があるが、大部分は見栄と春秋の官職買いで消え、入った分だけ出ていってしまう。
そんなものが結婚だろうか……車の中で、薫はつぶやいていた。
二条邸にいる姫は、そのような金まみれの結婚の犠牲になりかけていたのだ。それを思うと、薫はいたたまれなくなった。あまりにも不憫で哀れである。そしてその感情がいつしか同情を通り越えて、いとおしさに変わっていた。
自分の手で亡き人の
だが今は何もできない自分の無力をも、薫は同時に痛感するのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます