11
次第に気候もよくなり、賀茂の祭の慌ただしさも過ぎて若葉の季節になった頃、薫はまた宇治を訪ねた。中君も人の子の親となって手の届かなくなった今、亡き大君への思いが再燃して、薫の心を宇治へといざなったのだ。
ただ、名目は新しい御堂の視察であった。さらには、弁の尼君の仮住まいの対の屋ができ、いよいよ山荘の寝殿が移築するために取り壊されることになったので、最後の名残を惜しむためという気持ちもあった。
宇治はやはり、何もかもが懐かしい土地だった。ここへ来れば、時間が逆行した気がする。どういった因果でこの土地とこれほどまでに深い縁ができたのかと思うが、ここには薫の青春のすべてが凝縮されているといっても過言ではなかった。
到着してすぐに薫は寺に直行し、阿舎利と御堂建立の最終打ち合わせに入った。それによって、山荘の寝殿の移築と改造は、新しい山荘の新築と同時に並行で行われることになった。
その打ち合わせがひと通り済んでから、薫はようやく弁の尼が住む山荘へと車で向かった。旧態の寝殿を見るのは、これで最後となる。今まであったものがなくなるだけで淋しいことではあるが、ここは宇治の宮と大君という亡き人の思い出が染み込んでいるところだ。それが今なくなろうとしている。
しかしその父娘がこの世に存在したという痕跡が全く消えてしまうわけではなく、み仏を祀る御堂という形に場所を移して
一度川沿いの道まで坂を下って、下流の橋の方へ向かえば、右手に山荘が見えてくる。どんな新しい光景がこれから展開することになるにせよ、この光景を見るのもこの日が見納めであった。
その時、目の前の宇治橋の上を行列がこちら側に渡って来るのが、車の前方の御簾越しに見えた。
だが薫には、その行列がなぜか気になった。どこかの上臈の女房あたりが、奈良あたりへ参詣した帰りの行列かとも思う。
もし奈良の参詣先が春日社なら摂家の縁者ということになり、かなり身分をやつしてのお忍びということになろう。もしそのようなやんごとなき人であったなら、ひと言あいさつに行かねばまずいと薫は思っていた。
薫は行列の主が誰か尋ねさせるために、従者の一人を走らせた。そして自分の車はそのまま山荘に入れた。
弁の君はすでに仮住まいの新築された対の屋に移っていて寝殿は無人であったが、わざわざ寝殿で薫のために格子も上げて待っていてくれた。
そうして弁の君と対座してひとことふたこと話をしたときに、走らせておいた従者が戻ってきた。
「申し上げます」
従者は、庭から大声で叫んだ。
「前常陸介殿の姫君の、初瀬参りの帰りとのことでございます」
「そうか」
なんだ、受領階級か……と、薫は思った。
「あの従者たちも常陸から連れてきたんでしょうな、田舎もの丸出しで、荒くれの武者たちでしたよ。言葉もよく聞き取れないほどで」
「その姫も、常陸育ちなのだろうか」
「さあ、どうでしょう。あ、これからこの山荘に来られると申しておりましたが」
「なに? ここへ? なぜだ?」
従者は首をかしげていたが、それ以上を聞いてもらちは開きそうもない。そこで、この山荘に来るというのなら弁の君が知らないはずはないと思って、薫は庭の方へひねっていた首を弁の君の方へと戻した。
「ほら、いつぞやお話しした……」
薫が聞く前に、弁の君の方が薫の疑問を察して答えてくれた。
「いつぞやの話とは?」
「前常陸介殿の姫とは、その北の方の連れ子ですよ。北の方は中将の君」
「中将の君?」
「お忘れですか? 大君様たちの母上の姪で、ほら……」
大君の母親の姪といえば、やはり同じ宇治の宮の寵愛を受けた人……。
「あっ!」
薫は突然、大声を出した。すべてを思い出したのである。今こちらへ向かっている行列の中の車の人が宇治の宮の寵愛を受けた中将の君の娘ということになると、宇治の宮のもう一人の姫――大君や中君の腹違いの妹ということになる。
「初瀬へ行かれる前も、ここに立ち寄られましたからね。宮様のお墓に詣でに」
「そうですか。しかし客があると思って遠慮されるかもしれませんね。それでは気の毒ですし、私はあとでまたゆっくり話もできますから。尼君様はその方のお車をお迎えになって、お話のお相手をして差し上げて下さい」
それから薫は従者たちに命じて自分の車を裏手に回させ、従者たちもそこに隠れているように命じた。それから薫自身も立ち上がって、
「私という客が来ていることは、悟られないようにしてくださいね」
と言って、北側の部屋へと入った。そこはかつて、姫君たちの居間だった所である。今は調度なども中君がほとんど二条邸の方に持っていってしまっていて、何もないがらんとした部屋だった。
やがて庭の方が騒がしくなって、行列が入ってきたことが察せられた。車は西側の廊に着いたようだ。薫はその方の廂に出て、御簾の中から庭を窺っていた。
「さあ、姫様。どうぞお降り下さい」
車の中に向かって呼びかける従者の声が聞こえ、まずは女房が一人、それから乳母と思われる老女が降りてきた。
「お早く」
車の中に向かって、老女は言っている。
「やはり、気が引けます」
車の中から微かな声が、老女の呼びかけに答えるようにして聞こえた。これが姫の声のようだ。やがてゆっくりと、
顔は扇で隠されていて全く見えないが、体つきは細やかであった。そしてそのままいざって、姫は南の廂に入る。薫がいる所との間には屏風が置かれているので、薫に見られているということは全く気づかないでいる様子であった。
そのまま姫は、
考えてみれば姫がいるのは、かつて大君と中君の様子をのぞいていた部屋である。あの時は隣の仏間から、今は北の間からではあるが、同じ部屋をこうしてのぞくことになろうとはと、薫は運命の不思議さを思った。まるで時間が逆行したようだ。
姫はよほど疲れていたらしく、部屋に入ると木の床の上に、前かがみに伏せた。
「姫様は、お疲れのようだっぺ。泉川を渡るのは、ありゃまあ大変な苦労だったしな。二月の水の少ねえ時はよがったげど」
「ちっと、東国に比べだらおめ、どごがおっかねえもんですか」
女房たちの声ばかり聞こえるが、姫は身動きもせずにうずくまっている。その袖から伸びた上が上品で、受領階級の娘にしておくのはもったいない気がした。
「お湯をどうぞ」
弁の尼君が使っている童が、お湯と軽い食べ物を持っていった。栗のようだ。
「なんか下せえましたよ。ほれ、姫様」
そう言って女房が姫の肩をゆすったが、姫は少しうなっただけで起きようともしなかった。髪が床にたれて、今も顔は全く見えない。
「んじゃ、あだいらで頂ぐっぺがねえ」
女房たちは栗の皮をむいて、くちゃくちゃと音を立てていくつも立て続けに口の中に放り込んでいる。
なんという田舎めいた女房たちかと、薫は愛想が尽きる思いだった。いつもは精錬された都の女房ばかりを見ているから、よほど若くて美しい女房でないと目をとめたりはしない。ところが、今回は珍しいもの見たさの好奇心から、薫はまだのぞき続けていた。
弁の尼君が、そこに現れた。
到着は昨日の予定だったのにとか、その一日遅れた理由は何だったのかとか老いた乳母と話している。そのうちふと、弁の君はのぞいている薫の方を見た。さすがに弁の尼君で、のぞいていることに気がついたらしい。
「さ、姫様。お顔をお上げ下さい」
弁の君に言われて顔を伏せたままではさすがに失礼だと思ったのか、姫が顔を上げた。
その顔を見て薫は声を上げそうになるのをこらえるのに必死だった。姫は受領階級の娘などに成り下がってはおらず、やんごとなき宮家の
そしてそれだけでなく、聞きしにも増していくら姉妹でもこんなにも似るものかと思われるほどで、
「大君、生きておられたのか!」
と、薫は今すぐにでも部屋に入って、姫の手を取りたい衝動に駆られた。
夜になって、薫は弁の尼君を呼んだ。
「なんという巡り合わせだろう。とても偶然とは思えませんね。私が来たのが昨日でも明日でも、あのお姿を拝することはできなかったのですから」
薫の言葉には、いつしか熱が入っていた。
「前に頼んでおいたことは、あの姫の母君には伝えてくれましたか?」
「はあ、御後見のことでございましょう? それは、この間」
薫はまるでずっと気にしていたことであるかのように言ったが、実は薫自身がそのようなことを頼んだことは忘れており、その姫が実際に目の前に現れてから急に思い出したことなのであった。
「ただ、今は前常陸介殿の娘御ということになっておりますし、先方様もそのような高貴な方から後見などとはと面食らっておりました」
「それはいつ頃のことですか?」
「あれは二月ごろでしたから、二カ月ほど前でしたかねえ。母君とともに初瀬参りの途上でこちらに立ち寄られたのですよ。その折に、薫の君様のお心はお伝えしましたが」
「二月か」
ちょうど中君の出産や自分の昔の妻との復縁で薫が飛びまわっていた頃で、その頃は正直言って宇治の宮の忘れ形見の末娘のことは忘れていた。
「今回は、母君は障りがあってご同行されてはおりませんので、薫の君様がここにおいでであることは申し上げておりません」
「いくら口止めしても、従者の口に戸は立てられませんよ。それにしても深い因縁ですね。やはりこう縁が深いとなると、このまますれ違っていくのももったいない気がする。何気なく、私がいることは伝えておいて下さい。そのうち、ぜひお会いしたいと」
「はい、分かりましたが、にわかなご因縁ですこと」
弁の尼君は、そう言って笑っていた。
その夜は、薫にとって予想通りの眠れぬ夜となった。同じ屋根の下に、大君と生き写しの妹が寝ているのである。異腹であるのに、大君とは同腹の中君よりも大君によく似ている。だが微かに聞いた声は、中君の声にも似ていた。
弁の君はにわか因縁と笑ったが、これほどまでの因縁はない、絶対に偶然ではないと、薫はそこに強く運命を感じていた。
今夜は同じ屋根の下の別の部屋で休んでいるに過ぎない存在で、それ以上のことは起こり得べくもなかったが、新しい何かが始まるという予感を薫はひしひしと感じていた。
翌朝、もし自分と顔を合わせたら向こうもばつが悪かろうと思って、薫はまだ明けやらぬうちに従者をたたき起こして都へと戻っていった。弁の尼君に対しては、「また近々参ります」という意味の文を侍に言い付けての出発であった。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます