外は雨も上がり、朝の光を迎えつつあるようだった。小鳥の声ばかりが狭い庭に響いているが、鶏鳴はついにぞ聞こえなかった。その代わり、東京極ひがしきょうごく大路も近いせいか、庶民の物売りが行き来する声が聞こえ、それが薫にとってはもの珍しくもあった。

「朝になってしまったね」

 少しうとうとししながら、薫は自分に身を預けている姫の髪をもう一度なでながら言った。その頭が乗っている腕がしびれるのも、薫には心地よい感覚だった。

 朝の光の中で見る姫の顔は、大殿油の淡い光の中で見るよりも一段と輝いていた。そして美しいばかりでなく、目のあたりが大君そのものであることも、薫はあらためて実感した。

 大君とはそれに近いことはあったが、このようにして一つになった後にともに朝を迎えることは一度もなかった。その大君とはなかった朝を、薫は今迎えている。

 大君は父親似、中君は母親似と、いつか中君が言っていた。そしてこの姫も父親似なら、母が違っても大君と似るのは道理である。

 そんなことを考えた次の瞬間、薫の中で閃光のごとくひらめいたことがあった。今後、この姫をどうするかということである。

 薫は立って身づくろいをし、妻戸から出た。帰るのではない。姫はまだふすまの中で、衣服も乱れた状態で伏せている。薫は女房を呼んだ。

「姫にきちんと着付けしてあげてくれ」

 それだけ命じて、自分は簀子に座って庭を見ていた。所々に昨夜の雨が水たまりを作っている。木々もまだ濡れているようで、光沢を放ちながら雫をたらしたりしていた。

 まだ日は昇ってはおらず、明けきってはいない。すでに雨は降っていなかったが、薄青い空を見ても晴れているのか曇っているのかはまだ分からなかった。

 やがて女房が出てきたので、薫はもう一度中に入った。そして茫然として座っている姫に声をかけた。

「さあ、宇治に行くのだよ」

「宇治?」

 姫は驚いた顔で、薫を見上げた。

「しばらくはそこにいるといい。あなたのことは、私が責任を持ってお世話するから。いいね」

「はい。ほかに身の置き場もない私です」

 真顔で言ってから、姫は目を伏せた。薫の素性などは、すでに前々から弁の尼や乳母から予備知識として聞いているらしい。それにしても、昨夜のことといい、急に宇治に行くことにも何の反抗も示さない点といい、よほど特殊な境遇の中で育てられたであろうことが察せられる。

「よろしいのでしょうか? 蔵人弁様のご迷惑にはならないでしょうか?」

「迷惑だったら、自分からこんなことを言いはしませんよ。あなたと私は、もう結ばれたのですよ」

 はにかんでいる姫を促し、薫は立ち上がって簀子に出て、そのまま車の後ろから乗り込んだ。

「まあ、もうお立ちで?」

 尼君が出てきて、状況に驚いている。

「姫も同意してくれましたよ。尼君もいっしょにお乗りください」

「え。でも」

「どうせですから、宇治までお送りしますよ。それに姫もあちらに行って知っている人がいないとなると、心細いでしょう」

「それは、姫様も宇治におつれするということですか?」

「ええ。そうすることに決めました」

「しかし、都に来ていながら中君様ともお会いせず、こっそり帰ったとなると……」

「あとでお詫びをしておけばいいではないですか。私とて、姫を宇治のあの山荘に住まわせることは、主である中君様には事後承諾になりますから」

 薫は尼君をせかして、車に押し込んだ。

「ほかにだれか、一生に行く女房はいるかい?」

「あ、私が……」

 出てきたのは若くはないが、そう年増でもないこぎれいな女房であった。

「侍従とお呼び下せえ」

「では侍従の君。早く乗ってくれ。乳母殿にはあとであらためて迎えをよこすから。急がないと明るくなる。その前に」

 車の前後を布で仕切り、後ろに侍従と尼君が左右に向かい合って座り、前の部分に薫と姫君が乗った。薫と姫は向かい合わせではなく、薫の座っている側に姫を抱き寄せる形で乗っていた。

 車は、川に沿って東京極大路を下がっていった。五条も過ぎたあたりで、後ろの侍従が頓狂な声をあげた。

「あれ? 行き先は、都ん中ではねえのですか?」

 その耳元で、尼君がささやいている。

「宇治ですよ」

「ええっ!」

 さらに驚きの声を上げる侍従だった。

 河原を過ぎ、法性寺のあたりで日が昇った。巨大な寺で、先日亡くなった故入道の祖父の元関白の建立になる寺である。ここまで来ると京洛も終わりで、九条より南にはずれたことになる。

 車の中でも、もうはっきりと姫の顔が見えるようになった。姫は完全に薫に身を預け、その胸に顔をうずめていた。車は山道へと入っていく。

「石が多いから揺れるけど、心配しなくていいよ」

 薫は優しく姫に語りかける。後部座席では、いつしか尼君がすすり泣きを始めていた。

「尼君。どうしました?」

 これから新しい門出となるのに、涙は不吉だと薫は思った。

「いえ。うれしゅうございまして。これが薫の君様と亡き方のお供だったら、どんなにか……」

「おやめぐだせえ」

 と、侍従の君が、本当にいやそうな声で尼君をたしなめた。

「わが姫様の、おめでてえ日なんだっぺ。老人はむぺ、すぐ泣くんだがらやんなっちゃう」

 この女房も東国訛り丸出しで、あずまかたで雇ったのだとすぐに分かる。

 だが、尼君の言葉は、薫にとっても身にしみるものだった。一人の女性を今、腕の中に抱いている。しかしそれはやはり、亡き人の形代でしかないのだろうかと薫は思う。それを尼君に指摘されたようで心が痛んだ。

 だが、それは違うと、心の中で薫ははっきりと叫んだ。そのようなことなら心が満たされるはずはないし、だいいち姫に対しても失礼である。

 山道が険しくなるにつれ、霧も立ち込めてきた。

「私はね、もう何回この道を行き来したか分からないよ。通い慣れたその道を、今はあなたとともに行く。さあ、顔を上げて景色でも見てごらん」

 薫はそう促して、姫の顔を上げさせた。頼りない様子で、またすぐに姫は顔を伏せてしまう。それにしてもこの姫の性格なら、匂宮に見つかった時にもし乳母がへばりついて守ってくれなかったら危ないことになったと、今さらながら薫は背筋が寒くなった。

 昼前には、宇治に着いた。姫君にとっても初めての場所ではないことだけが、気休めになるに違いない。だが前に薫がいた時に初瀬参りの帰途に投宿した時とは、今では建物が違っている。

 かつてはこの地に薫にとって恋しい人がおり、それを訪ねて川沿いのこの道を山荘へ向かったが、今では別の女性を伴って同じ道を歩んでいるのだから不思議なものだと薫は思った。

 山荘に着いて、車から降りた。姫は疲れたらしく、ぐったりとしている。山荘で留守居をしていた女房たちが、突然の尼君の帰着と薫の来訪に、慌てて朝餉の仕度に走りまわっていた。薫は姫をとりあえず侍従と尼君に任せて、まずは朝餉を取った。

「食事は済んだかい?」

 薫は、そう言いながら姫君の方へ行った。

「少々、気分が……」

「車に酔ったかな? ゆっくり休みなさい。私もしばらく寝るから」

 そう言ってから、薫は都へ文を書いた。


――宇治の新御堂のみ仏を拝しに来ました。しばらくは物忌となりますので、こちらに篭もります……。


 そんな内容の文を二通書き、一通は三条の母へ、もう一通は同じ三条邸の西ノ対の妻あてであった。さらに宮中への假文けぶみをも持たせて、従者を一人都へ走らせた。假文も理由は物忌である。しかし、今さら宮中に假文を出したところで、この日が無断欠勤になってしまうのは致し方なかった。

 しばらくは姫を休ませて、薫は川を見ながらつれづれと時間をつぶした。そして考えていた。

 ……姫をすぐに妻にするのも具合が悪い。そうなれば、まずあの東屋に置いておくわけにもいかない。

 だからといって姫を前常陸介の屋敷に戻し、そこへ自分が通うのは、まるで自分が前常陸介の婿になったようで絶対にいやだ。あの財の亡者の左少将の根性を見てしまった以上、世間からあれと同様な目で見られるのには耐えられない。

 だからといってほかに与える屋敷も泣く、三条邸に迎えるわけにもいかない。女房として仕えさせるのもいやである……

 いろいろ考えて、やはりこの宇治の地に置くのがいちばんだと薫は自分の決定に満足していた。ただ、道が遠くてちょくちょく会いにこられないというのが難点だが、今はほかに方法はない。

 夕方になってから、薫はまた姫のいる部屋に行った。姫は起きていた。

「このあたりはね、ちょうどお父宮様のお仏間だった所だよ。建物は変わってしまったけどね」

 そう言いながら薫は、今自分がしている行為が恋い焦がれた大君にどこかからじっと見つめられているような気がしていた。

 姫は何を語りかけても、はにかんでうなずくだけである。そのおとなしすぎる性格が物足りなくもあるが、田舎人のくせににわか風流ではしゃぎまわる人よりかはずっといいと感じた。おとなしい性格は、これからいくらでも自分の色に染められるのだ。

「琴などを、弾いてみないかい」

「いえ。そのようなことは手ほどきを受けておりませんので」

「お気の毒だね。田舎などへ行かずに、ここでお父宮様や姉上方とともに暮らしておれば、琴などは名手になっていただろうね」

 姫はそれにも応えずにうつむいて、白い扇を弄んでいた。その様子に、思いやりのないことを言ってしまったなと、薫は姫の経歴を鑑みて反省した。

 亡き宮の代わりに、これから自分が手ほどきをすればいいことなのだ。

「この琴はどうかい? あずま琴だよ。あずまとはもともと『が妻』って意味だからね、これは吾が妻の琴だ。大和琴ともいうけど」

「大和言葉にも、慣れておりませんし」

 実はただのおとなしい姫ではなかった。機知にも富んでいる姫だということを、薫は初めて知った。それは新鮮な驚きであった。

「母が」

 姫は、不意に顔を上げた。

「今頃は母が私のことを心配していないでしょうか」

「大丈夫。前から申し出ていたことだし、きっと許して下さるよ。乳母の君の方が、きちんと話して下さっているはずだ。その乳母の君も、もうすぐここに来る」

 やがて弁の尼からということで、果物の高杯などが女房たちによって運ばれてきた。その尼君も同席するよう、薫は女房に呼びに行かせた。

「何だか昔に返ったようでございます。私はまた女房に戻ったように、昔の主と同じ血を引く姫様にお仕えし、また薫の君様がお通い下さる。建物は変わっても、昔のままですよ」

 弁の尼は、また目頭を抑えていた。よく泣く人だと今さらながらに思いつつ、薫も苦笑していた。

 風景が何も変わっていない宇治の里で、今こうしてともにいる女性は昔の人ではない。ここに大君がいて中君がいたのはそう遠い昔ではなく、わずか三、四年前のことである。山荘も建て替えられた。

 これを世の無常というのかと、薫は考えた。そして姫君を見た。やはり姫は姫で、いくら似ていても大君の形代ではない。そして、それはそれでいいと思う。大君とは全く別の女性として、これから愛していけばいい。

 親同士が決めた相手である今の妻は別として、生涯で初めて自ら手に入れた女性である。恋に関してはひと一倍不器用である自分を薫はよく知っているが、この女性はいつまでも愛し続けていたいと薫は心の中で固く思っていた。


(つづく)

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