第8章 浮舟
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匂宮はまだ例の姫君のことを忘れてはいないようだと、久しぶりに薫と御簾越しで対面した中君はそう薫にほのめかした。もちろん姫を薫が宇治に連れて行ってそこへ隠したことは、中君にも報告はいっている。そのことで礼が言いたいと、匂宮の不在を見計らって中君の方から招いたのであった。
「本当に今でも、あの姫は誰なのか、どこにいるのかとうるさくて……。いったいどういうお心持ちをしているんでしょう。妻である私にそのようなことを聞くなんて」
久しぶりに会った中君は、小声でそう言いながらもあきれた様子だった。
「妹姫のことを、あの人に知られたら大変です。絶対に宇治にまで行きますよ。そういう人ですから」
そう言われたりしたら、またもや薫は身を固くしてしまう。
「私の夫には、絶対に知られたらいけません。夫婦の間で隠しごとはとも思いますが、こればかりは……。単に私があの人を恨むことになるばかりでなく、妹姫や薫の君様に対しましても申し訳ないことになりますから」
相手が薫だから言えたのであろうが、薫も全く賛成だった。だが、このような内容の話は大きな声で同意することははばかられた。どこに女房の耳があって、そこから匂宮に話が伝わらないとも限らない。匂宮の留守を狙ってやって来ては、物越しとはいえひそひそと中君と話しているということ自体が噂の種となる。だから例の姫君についての話以外は努めて女房たちにも聞こえる声で話し、内容がつまらぬ世間話であることを示していた。
しかし、それも度重なれば都合が悪い。かつて中君が宇治にいた時以上に会うことは難しくなっている。
「思えば昔は姉がいて妹の私がいるという立場で、それに慣れて姉に甘えていましたけど、今度は私が姉の立場になったわけですね。でも、それがこんなことになるなんて」
「お方様はなかなかお動きにはなれますまい。その分は、私が責任を持って……」
それだけ言ってあまり長居はせず、薫は二条邸を辞した。
中君にはああ言ったものの姫を宇治に移してから、はやひと月が過ぎていった。
せっかく手に入れた恋なのに、宇治への山道は険しい。しかし、焦ることはないと彼は思っていた。宇治に隠しておけばひと安心で、いくら匂宮が探し回っても匂宮の意識の範疇は京洛から出ることはない……と思う。所詮は宮家育ちなのだ。匂宮にとって南北は一条から九条まで、東西は東京極から西京極までが全宇宙であろうと思われる。
そのことは、薫とて宇治の宮という存在がなければ同じ状態であったであろうと予想されることによって分かる。匂宮も宇治に行ったことがあるとはいえ、たった三回だけである。木幡の山道の風景を覚えてしまった薫の比にはならない。
その頃の宮中では薫のそんな私事をよそに、ひと騒動が起こっていた。摂政内大臣の娘である登花殿女御の立后である。帝にはほかに女御はいないのだから、それは時間の問題だと誰もが思っていた。しかし、そこには大きな障壁があった。
帝の父君である一院法皇の中宮は小野宮流の故三条太政大臣の娘だが、今でも存命で、しかも中宮であり続けているのである。
中宮であるということは中宮職という役所を構えているということだが、皇子を生まずに素腹の后といわれたこの中宮は皇太后にはなれずにいる。だから、中宮のままなのだ。だがこの中宮が中宮である以上、摂政内大臣の娘はいつまでたっても中宮になれないのである。
そもそも、一院法皇の中宮が皇太后になれないわけは、摂政内大臣の妹で同じ一院法皇の女御として今の帝を生んだ東三条皇太后がいるからである。つまり、皇太后職を従えているわけで、さらに薫の実母の姉であり朱雀院の女一宮で冷泉院の上皇の中宮だった人が太皇太后なのだから、皇太后は太皇太后になれない。すなわち三后がふさがっているわけで、これでは摂政の娘の立后は無理であった。
そこで摂政内大臣は、強引な手に出た。一院法皇の中宮の中宮職は機能はそのままに名称だけ皇后職と改め、新たに別の中宮職を設けたのである。つまり、今まで皇后は中宮の別称であったのを分離させ、一院法皇の中宮を「皇后」と称し、自分の娘を「中宮」として冊立したことになる。もちろんそのような先例はないだけに、宮中では摂政が先例にないことをしでかしたと大騒ぎであった。
「これは見事としか言いようがありませんね」
ほかにだれもいない殿上の間で薫と対座していた薫の妹婿、すなわち摂政の末弟の権中納言右衛門督はそう言い放った。だが、その顔は笑っていなかった。どうも自分の兄のやり方を、手放しで賞賛しているわけではないようだ。
「兄の得意のやり方ですよ。あの亡き父上の六十賀の時の、福足君のことを思い出しました」
薫もよく覚えている。現在は権大納言である粟田殿の子――すなわち今の摂政の甥で、やんちゃを起こして暴れだした舞の童の福足君を、今の摂政が抱き寄せてともに舞った事件だ。
「あの時は、だれもがその機知に喝采を送りましたね」
「しかし、今回の行為は機知と言えるかどうか……。もっとも今度中宮から皇后になられた方には、我が姉の皇太后は昔ずいぶん煮え湯を飲まされましたからね」
確かに皇太后は当時皇太子だった今の帝の生母でありながら小野宮の流れの女御に中宮の座を奪われて、今の帝が即位されて自身が皇太后になるまでずっと女御だった。
「そのしっぺ返しでしょうかね」
「はあ」
薫はあまり関心がないので、空返事だけをしていた。そこへ人が入ってきたので、薫はさらりと話題を変えた。
「ところで、我が妹は元気ですか?」
「ええ、もちろんですよ。土御門の上とも、何一つ分け隔てはしておりませんから」
その言葉は、薫が知っているこの男の真面目な性格からも十分に信頼できそうだった。この権中納言右衛門督は匂宮と同じ年齢だが、匂宮にもこの男のような誠実さがもう少しあってくれたらと思う。
「今回の登花殿中宮の立后で兄の摂政殿下は私を中宮大夫にしましたけどね、二番目の腹違いの兄がその権大夫でしょう。つまり、兄弟を何とか自分側につけようとしているんですよ。これもみな町尻の兄上が皇太后宮大夫であって姉べったりだから、それに対抗してるんでしょうね」
町尻の兄上とはすなわち粟田殿である。兄弟での争いは、この一族の特徴といってもいい。彼等の父の故前関白も長兄である故一条摂政と不仲であったし、その父で薫の名目上の父親の光源氏の朋友だった九条前右大臣も、兄の小野宮関白とは犬猿の仲だったという。さらにその前の代の関白太政大臣も、兄の本院大臣とは政敵だったと聞く。
だいたい異腹の兄弟は政敵になりやすいが、彼らの場合は同覆の兄弟でも政敵として争っている。今挙げた中で腹違いの兄弟は小野宮前関白と九条前右大臣だけで、あとは皆母親も同じ兄弟であった。
だから摂政内大臣も、その兄弟の中に一人でも自分の味方を作っておきたいようだ。そして摂政にとってその仮想政敵は、摂政から見て三番目の同腹の弟である粟田殿町尻権大納言らしい。この一族のもう一つの特徴である策士の血が、摂政の中にも流れている。
薫と権中納言の間でそんな会話がなされた数日後には、昨年変わったばかりのまた年号が変わった。
そして季節も移り、冬も深まっていく。
その頃になって薫は新しい土地を買収した。半町ではあったが高松邸の東南に角を接し、近ごろでは冷泉院上皇が移り住んでおられる鴨院にも南接している。ここで薫は、新邸の造営を始めた。もちろん宇治にいる姫を呼び寄せるためである。ただ、女を住まわせるために新邸を造営させているなどという噂が立つのは嫌で、外装はごく質素にして秘密裏に建築を進めさせ、総普請は気心が知れた家司である三条邸政所の大蔵大輔仲信という男に命じた。
そうして年の瀬もせまった頃、皇太后が職御曹司より里邸である東三条邸に下がるというので、薫がその供奉を仰せつかった。彼は皇太后職とは関係はないが、蔵人として、そして妹の高松の上が皇太后の世話になっているということもあってその役を引き受けたのである。
東三条邸はその主亡きあと摂政内大臣が伝領していたが、依然として皇太后の里邸であり、同時に登花殿中宮の里邸でもあって、中宮の兄弟である摂政の息子たちも同居しているというひしめき合った状態であった。ただ、南北二町の広大な邸宅であるということが、その状況を救っていたといえる。
高松邸の北側に隣接するその東三条邸の寝殿と西ノ対との間の渡廊で、薫は匂宮とばったり出会った。
ここには匂宮の妻である故前関白入道の娘の六の君も住んでおり、そのため匂宮はこの屋敷の婿ということになるから、匂宮がここにいてもおかしくはない。
ただ、夜でもないのにその妻の所に来ていたのは、匂宮にとって義理の姉となる皇太后へ挨拶のためということであった。
「おや、兄君。お久しゅう」
確かに久しかった。薫が二条邸へ行くのは中君との対面のためばかりなので、当然のこと匂宮の留守を狙ってという形となり、そのため匂宮と顔を合わせることはなかった。何しろ親王だから薫のように毎日宮中に出仕しているわけでもなく、宮中で会うこともめったにない。
「これは宮様。ごきげんよう」
「ま、私とは久しくても、わが屋敷とは久しくないようですね。先日も来られていたとか」
やはりばれている。女房たちの口に戸は立てられない。薫は返事に窮した。
「兄君に道ならぬお心がおありとは決して思いませんが、しかしですねえ」
「しかし……何ですか?」
薫はついついむきになった。匂宮は何かを勘ぐっている。痛くもない腹を探られるのは、愉快なことではない。
「いえ、別に」
そう言われてしまえば、後が続かない。何しろ薫は匂宮の留守宅に行ったのは事実なのだ。
匂宮は、笑みを浮かべた。中君は私の妻ですからねと、その笑みは無言で主張しているようだった。
「若君も、お健やかなご様子」
「ええ、かわいくてかわいくて仕方ありませんよ。その母親もまた、いとおしくて仕方ありませんが」
まだ匂宮は疑っているようだが、自分自身のことは棚に上げてよく言うと薫は内心思った。宇治にいる姫君の行方を詮索してそのことが頭から離れないでいるくせに、自分の妻のことは一人前に守ろうとしている。
だから、薫も少し笑った。少年だった自分の膝の上で、生まれたばかりのこの匂宮が跳ねていたのをふと思い出した。それと同時に、匂宮の心配が全く的外れであることへの自信も、その笑みにはこめられていた。
今の薫にとって、人妻である中君に横恋慕しているような余裕はない。やっと本物の恋を、愛する人を手に入れたのである。その優越感が薫にはあった。
匂宮もその人を探しているようだが、薫が宇治に隠しているなどとは夢にも知らないだろう。そしてそれは、知られてはならないことであった。
だから、匂宮に対して持っている優越感は、匂宮には口が裂けても言えない薫であった。
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