暮れのうちに、権中納言右衛門督の娘の三歳の着袴の儀が行われた。

 権中納言は父の喪中ではあるが、主催が姫の外祖父となる源左大臣であったし、場所も左大臣の土御門邸でということもあって、左大臣の要望を取り入れて行われたのである。

 薫は権中納言のもう一人の妻の身内なので参列しづらかったが、正式な招待が来た以上は参列せざるを得なかった。権中納言の兄たちは、喪中のために誰も参列していなかった。

 そうして年が明けたが、淋しい正月であった。故前関白入道太政大臣の薨去からは半年がたっており、孫である帝の喪服の期間の五カ月は過ぎていたが、摂政内大臣や帝の生母である皇太后はまだ父の喪に服している。

 従って一連の正月行事は、節会せちえをはじめ一院法皇への拝覲行幸までもが一切中止となった。もっともその一院法皇自身も暮れごろより病床に伏せっていたが、いずれにせよ前関白の喪はほとんど帝王の諒暗と変わらないありさまだった。

 源左大臣は、本人は前関白の喪とは関係なかったがその娘が前関白の五男の権中納言の妻なので、その娘だけが舅の喪に三カ月服し、右大臣は自身が前関白の異母弟なので一カ月の喪に服していた。つまり左大臣の娘の喪も右大臣の喪もすでに明けていたが、両者ともまだ喪に服している摂政内大臣に遠慮して大臣大饗は行わなかった。


 この正月は、薫にとっては久々に落ち着ける日々となった。この次期を利用して宇治にとも思ったが、その月のうちに春の除目が始まった。薫は蔵人として除目のための告送などで走り回るようになって、宇治にはとても行けるような状況ではなくなった。そういった時期はの日の返上も、蔵人の宿命である。除目が終わるまでは、宇治行きはとても無理であった。

 春とはいっても、この年はいつまでも寒い日が続いた。梅の花も開き始めた頃、その花の上に雪が降り積もったりもした。心ばかりが春で実際の気候がまだ冬のままだったりすると体調を崩しやすいもので、匂宮もどうもその一人のようだった。

 除目前の忙しい時期だったが何とかある夕方に時間を作った薫は、自邸に戻る前に束帯のまま宮中からまっすぐ二条邸の西ノ対を訪れた。今度は中君に会うためではなく、風邪をこじらせて寝込んでいるという匂宮を見舞うためだった。

「もうずっと、御簾の中からお出にならないのです。母君のお渡りでも、そのようでして」

 女房は済まなそうにそう言いつつも、とりあえずは匂宮に聞いてくるということで中へ入って行った。

「どうぞお入り下さいとのことでございます」

 戻ってきた女房がそう言うということは、母にさえ会わなかった匂宮が薫には会ってくれるらしい。

 薫は身舎に入り、匂宮の寝床の御簾の中まで進んで座った。中君は几帳の後ろに入っていった。匂宮は上半身だけを起こしていた。

「お病気だとうかがいましたけど、いかがですか」

「いえ」

 目元だけ微かに笑んで、匂宮はしばらく薫を見ていた。

「どうなさいました? まあ、お若い宮様のことですから少しくらいの風邪はどうということないとは思いますが、今は風邪が流行はやりですからね」

「兄君」

 匂宮の口調は穏やかだったが、視線は薫からはずれていた。

「宇治へはいらっしゃらないのですか?」

「え?」

 薫の表情はこわばり、たちまち全身が硬直した。そして、背筋に冷たいものが走った。匂宮は何もかも知ってしまったのか……そう思ったが、とりあえずは空とぼけるしかない。

「宇治? どうして私が宇治へ?」

「宇治に新しい御堂を造らせているというではありませんか。時には公務を放り出して、二、三日も宇治に逗留なさるとも聞いてます。どうせあのお寺にお泊まりになっていらっしゃるのでしょうけれど、母も兄君のことを、『寺などに泊まりこむなんて』とため息をついていましたよ」

「ほかにも、弁の尼君のお世話もして差し上げねばなりません」

「相変わらずの聖心ひじりごころですね」

 匂宮はそこで、激しく咳き込んだ。

「お体に障っては、よろしくない。私はこれで。お大事になさいませ。長引いたりしたらこじらせてしまいますから、私のことなどよりもご自身のご養生を」

 そう言って、薫は席を立った。

 それにしても、匂宮の言葉は冷や汗ものだった。ただ、匂宮が急に宇治の話題を出したのは新しい御堂のことについてだと分かったのでひと安心だが、それでも何か釈然としないものが薫の中にあった。

 どうも匂宮は何かを知っていて、その知っているということを隠しているような気もする。だが今は、それを確かめるすべはない。


 違う……と、帰りの車の中で薫はずっと考えていた。どこかいつもの匂宮とは違うのだ。今までのように打っても響かず、まるで別人になってしまったように、心の隔たりさえ感じられた。

 匂宮を訪ねて、こんなに早く退出したのも初めてだった。中君とのことに対する疑いは今に始まったことではないから、それが理由ではないだろう……ただ単に風邪のせいだろうか……ではやはり、例の姫君がからんでくるのか……。

 しかしあの匂宮の性格からして、もし姫が宇治にいることを突き止めたなら「見つけたぞ、見つけたぞ、兄君!」などと言って、踊りながらでもやってくるはずだ。

 それがそうでないということは、宇治に姫を隠したのが自分だというところまで察してしまったのか……だから今日は、いつもの冗談すら言わなかったのか……そうあれこれ考えているうちに、車は押小路高倉の四辻を右折した。二条邸から三条邸までは、すぐなのである。

 思い過ごしだ。あれこれ考えても始まらない……と、車が自邸の東門から入る時に薫は考えた。

 だが、匂宮は油断ならない。二条邸で姫に手を出そうとした前科がある。だから、早く宇治に行きたいと薫は思った。

 それと同時に、一人の姫を間にはさんで自分と匂宮との関係が変化し、互いの心の距離が大きく開きつつあることも感じている薫だった。


 ばたばたと大忙しだった割には、この年の春の除目ではさして大きな異動はなかった。昨年の秋は新摂政就任後初の除目で、その時に大きく動いたせいかもしれない。

 この春の動きといえば、摂政内大臣の次男の頭中将が、十八歳の若さで参議に列せられた。人々の間で「親ばか」という言葉が飛び交ったが、長男はすでに参議であり、兄弟そろって宰相中将、そして長女は十五歳で中宮なのである。

 後任の蔵人頭は中央官庁では珍しく平姓を名乗る平内蔵頭くらのかみ右大弁がなり、頭弁となった。薫にとって弁官としても蔵人としても上司となるこの男は、故前関白入道の後継者選びの際に今の摂政を推した四十九歳の老人である。

 その時に摂政の弟の粟田殿権大納言を推したことで今の摂政から三位に叙せられる代わりに官職を取られた前頭弁もやはり四十九歳だが、新頭弁と前頭弁はまさに炎の人と灰の人であった。

 さらに追い討ちをかけるように、この頃発生した大膳職役人殺害事件に関係しているという疑いで、前頭弁は三位の位すら取り上げられて無位無官となった。

 こうなると摂政はただの「親ばか」ではなく、人々はその政治に恐怖すら感じ始めていた。もっとも、この前頭弁に先見の明がなかったといってしまえばそれまでである。

 除目での移動は、ほかには三位宰相で小野宮流に属する参議の一人の四十八歳の前播磨守が、大宰大弐となって大宰府に降った。大宰府の長官であるそちは名誉職で実際に九州に行くことはなく、権帥の場合はたいてい左遷であって大宰府に行っても配所に入るだけで政務は執らないので、大弐こそが実質上は大宰府政庁の長官である。この官職は莫大な富が得られるので人気があり、この前播磨守も参議を辞職までしてその地位を手に入れた。

 だが、都を離れるに際して摂政内大臣に何の挨拶もなく、道中からそれを詫びるふみを送ってよこしたことが人々の間で話題になった。

 だが話題の中心はそういったいきさつのことではなく、その名文名筆に焦点が当てられていた。何しろこの男は、もともと能筆家として名を馳せていた人物なのである。


 そのようなこともいろいろあったがようやく二月になって除目騒動も収まり、薫も少しは自由な時間が持てるようになってきた。その薫にとって何よりも楽だったのは、これまでの上司が十五歳も年下の若者でしかも摂政の息子であったのが、ようやく自分よりずっと年上の人になったことである。

 これなら素直に従えるし、また甘えもできる。そこで薫は、久々に假日をとった。もちろん目的は、宇治に行くことである。

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