3
以前はよく
昼過ぎにはいつもの、それゆえに懐かしい風景の中に薫はいた。まずは寺に直行し、そこで阿舎利に会う。昔の山荘を移した新御堂には阿弥陀仏が祀られ、しかも三尊像となっていた。そこはちょうど高台になっているので宇治川が一望でき、川の中の小島や宇治の橋、そしてその下流の
また、宇治川を挟んで対岸の故前関白入道の別業も見下ろす形となり、その敷地のすべてを視野に収めることができた。
空はよく晴れていたが、風はまだ冷たかった。
寺で出された夕食もそこそこに、薫は川沿いの道へ続く坂を降った。すでに日は、西に傾きつつあった。
新しい山荘では、薫は主人の座に通された。前に来たのは去年の秋だから、思えばずいぶんご無沙汰してしまったものである。やがて弁の尼が出てきた。尼君も寄る年波には勝てないようでかなり弱っており、短く切りそろえられた髪は真っ白に近かった。それでも、上品さは失っておらず、気品高い老人であった。
「あら、姫様はまだおいでではないのですか? 何をなさっているのでしょうね」
それから首をひねって、
「乳母殿!」
と、呼び、また薫に向かって愛想笑いを作った。脇息に身を預け、薫はゆったりと笑っていた。
「尼君も、息災ですか?」
「ええ」
「それは何よりです」
薫は焦っていないということを、わざと尼君に示そうとしていた。
そのうち、乳母が出てきた。これも老人だが、あまり上品とはいえない。
「姫様は、今参ります。今日は何かぐずぐずなさっておりまして……」
「はにかんでいるのかな」
薫がそう言って笑ってからだいぶたち、ようやく姫は出てきた。姫と薫との間に、もはや御簾はいらなかった。その姫の姿を直に見て、薫の胸は急に高鳴りはじめた。
女はしばらく見ない間に、こうも変わるものかと驚いたのである。まだ童女のあどけなさを残していたはずの姫は、すでに一人前の女としての気品と色気を備えていた。薫は、しばらく言葉を忘れていた。
「お越しなさいまし」
姫は薫の前に座り、ゆったりと頭を下げた。その髪のつやも、薫の目には一段と輝いて見えた。
「いや、驚いたな」
姫はそう言う薫を、一瞬だけ上目使いに見上げた。そしてすぐに目をそむけた。
「こちらへおいで。もっとよく顔を見せておくれ」
姫は動かなかった。薫と目を合わそうともしない。
「さあ」
ほんの少しだけ前にいざり出て、姫はやっと目を上げた。薫はその時、姫の目が潤んでいるのを見た。薫は、またもや息をのんだ。以前はこんなことで涙を浮かべるような女性ではなかったはずなのにと、薫はその成長を感じた。
確実に姫は、女へと変わっている。そしてそう変わらせたのは自分なのだという優越感が、薫の中に少しだけあった。もののあわれを知り、ものごしにも都ぶりがうかがわれるようになっている。
「さあ、もっとこちらへ」
また姫は目をそらし、薫を見ようともしなかった。薫は扇を置いて、両手を袖の前に出した。尼君と乳母は遠慮して、立ち上がって席をはずした。
姫が薫の胸に激しく飛び込んできたのは、驚くほど突然だった。そしてほんの少し面食らっている薫の胸に顔をうずめ、姫は涙を流し続けていた。
「私が来なかったのが、そんなに辛かったのかい? 申し訳なかったね。こんなに何カ月も放っておいて」
姫はそれに応えるでもなく、また顔を上げるでもなく、ただ泣き続けていた。
薫は、その髪をそっとなでた。そして姫の甘い香りを味わい、細くて柔らかい肩に手を置いた。
「都であなたを迎える屋敷も、だいぶできたよ。この間見に行ったら、庭もかなり調っていてね」
それから姫の両肩を持って体を少し離し、薫は姫の顔をのぞき込むようにした。
「ここの宇治川のような激しい流れではない穏やかな水もあるし、桜も満開になればきれいだよ、きっと。あなたがその屋敷に移ってくれたら、私の屋敷からも近いので、いつでも会いたいときに会える。だからもう泣かないでおくれ。この春のうちには、必ず迎えに来るからね」
それでも姫は、薫から目をそむけていた。泣きながら、眉間にしわさえ寄せている。何かいたずらしたのを見つけられて、叱られている子供のようだ。困惑している様子にも見える。
さすがに薫は、おかしいと感じた。
「どうしたんだい? 今日は。何か私のことで、いらぬことを言った人でもいるのかい?」
少し間を置いて、涙の下から微かな声で、
「ごめんなさい」
と、姫が言うのがやっと聞こえた。
「何を謝るんだい? 謝るのはこっちなのに」
薫は姫の手を握った。同じくらいの力で、姫も握り返してきた。もう一度薫は、姫と頬を合わせた。彼女の顔の化粧の粉や口紅が自分の直衣につくのも、薫はお構いなしだった。ぬくもりが着衣の上からでも伝わってくる。
やがて女房たちが、格子を降ろしに来た。その時だけ薫は体裁のため、姫の体を離した。外はもうかなり暗くなっていた。やがて、
薫は、再び姫の体を抱き寄せた。もう、二人の間に言葉はいらない……そう思っていた。だから、淡い光の中で姫の顔を見た。二人の目と目が合う……はずであった。
だが、姫はまたもや顔をそむけた。そして、また泣き始める。薫の中の不審感がますます大きくなり、少々興ざめだった。
「いったいどうしたっていうんだ? ずいぶん涙がちだね」
ついつい薫は、問い詰めるような口調になってしまった。
「いえ、別に……」
「ずっと来なかったのを、そんなに恨んでいるのかい?」
姫の返事はなかった。
「だれが何を言ったとしても、私とあなたの仲は変わらないよ。いらない話には耳を貸さないようにね。本当にもうすぐあなたを都に迎えるから、そうすれば私の本当の心を分かってくれるだろうと思う」
姫はうつむいていた。そのあと少しだけ目を上げて、潤んだ瞳を薫に向けた。
「お願いです。もっと度々いらっしゃってください。さもないと……」
「私もそうしたいのだよ。でもね……」
あとは言い訳がましくなるので言わず、薫は黙って微笑んで見せた。やはり自分が来なかったことを恨んでいたのかと薫は少しだけ安心して、また姫の体を抱擁した。姫はその全身を薫に預け、しなだれかかってきた。
やっと見つけた自分だけの一輪の花だから、その何もかもがいとおしいと薫は思った。この瞬間が永遠に続けばいいと、薫は思っていた。
「もう、泣かないで。離しはしないから。すぐに都に迎えるからね」
ところが姫の涙は、余計に激しくなった。顔を左右に振っている。それでいて何かを言うというわけではない。
やはりおかしい……姫は何かを隠していると、薫はもう一度思った。姫の肩は、小刻みに震えている。嫌な予感が薫の中で走った。それでも薫は不審感をわざと打ち消すように、優しく姫の耳元でささやいた。
「心配しないで。何があっても私はあなたを守る。私を信じてほしい」
姫は泣きながら、ため息をついていた。
「何か心に痛むことがあるのなら、私に話してくれないか」
姫はそれでも、薫と視線を合わせようとはしなかった。薫はそんな姫を抱く手を離さなかった。そして今度は薫が姫の胸に顔をうずめ、手で胸のふくらみを包んだ。そしてもう一方の手は腰にまわり、緋袴の紐を解こうとした。
ところがその手は、姫の手によって優しくはねのけられた。薫は意外な姫の抵抗に、困惑の表情を見せた。
「ごめんなさい。今日はだめ。そういう気にはなれなくて……。今日は勘弁して下さい」
「なぜ……?」
一度は薫は訪ねたが、姫が何も答えないのでそのまま聞くのをやめた。
「分かった。今日は何もしなくてもいい。でも、私があなたを愛していることに変わりはない。いいんだよ。そのまま素直な心でいてくれたら」
そのとき、姫の唇が少しだけ動いた。違う……と言ったような気もしたが、薫にははっきりと聞き取れなかった。
「え?」
と、聞き返したが、そのまま姫の口は堅く閉ざされた。
「心に傷があるのなら、今夜はこのままお休み。何も言わなくていいよ。無理に何か言おうとしても、ありふれた言葉しか出てこないものね」
「あのう……」
静かに、上目使いに姫は薫を見上げた。
「私は、いったい誰のものですか?」
そしてまた、姫はため息をつく。薫はそのため息を許し、優しく笑んで見せた。
「誰のものでもない。あなたはあなた自身のものだ」
やはり、「違う」……もう一度姫が小声でそんなふうに言うのが、今度は薫にも聞こえたような気がした。
「何が違うんだい? 私にとってあなたは、ただ一人の人だ。誰かに似ているからではない。誰にも似てないあなたが好きだ。誰に似てなくても、あなたはあなただ。心の中にわだかまりがあるなら、今日はいいけど、いつかそのうち話してくれ。どんなに小さなことでも、一人で悩んでいないでね。自分をごまかしていても、あなたが辛いだけだよ」
薫は深く姫を包み込んだ。そして頬をすり寄せる。姫の涙が薫の顔にも流れる。薫はその涙にも口をつけ、それを吸った。
薫は、燭台の火を消した。そのまま二人は着衣のままで抱擁し、ずっと動かなかった。
翌朝早くに、薫は都に帰ることになっていた。姫よりも早く目覚めた彼は、ゆっくりと昨夜のことを反芻した。
やはり、姫の様子はおかしかったと思う。空も明るくなったようなので薫は起き上がると、姫も眼を覚ましてすぐに奥に入ってしまった。泣きはらした顔を朝の光の中で見られまいということだろうと薫は解釈していたが、やはりその態度は気になった。
薫は出立間際に、弁の尼と姫の乳母を呼んだ。
「姫に何か変わったことでもありましたか?」
「さあ」
尼君は首をかしげていた。
「母君と石山詣でを予定していらっしゃった時に、月の障りと物忌が重なってお篭もりになってしまわれたことがありまして、それから少しふさぎこみがちでしたけれど、ほかに心当たりは特に……」
そこへ乳母も口をはさんだ。
「私は自分の娘がそろそろ
「そうですか」
薫は大きく息をついた。
「とにかく、姫を頼みます」
「そりゃあ、もう」
弁の尼も乳母も二つ返事だった。薫は簀子から降りて、車に乗ろうとした。その時、人の気配を感じて振り向くと、物陰から女房が一人こちらを見ていた。女房はすぐに身を隠したが、確かに二条邸いた右近という女房と、薫がここに姫を連れてきた時に同乗してきた侍従の君という女房だったと、薫はすぐに思い出した。そして苦笑だけ残して、薫は車に乗り込んだ。
帰りの車の中でも、薫は姫の態度の変化が気になってしかたなかった。しかし、自分が姫を信じていると言った以上、信じるしかない。
薫は三十三歳で遅い青春を迎えているが、彼女も二十歳頃でこちらも青春には遅い。しかし、それでもいいから自分も二十歳になってぶつかり合おうと、薫は思った。姫ももう幼いだけのあどけない姫ではない。そのことがまた、薫の中の姫へのいとおしさを増すのであった。
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