前々から予定されていた作文さくもんが、宮中で開催された。御年十二歳の帝の主催だが、当然その背後には摂政とその妹である皇太后がいる。

 二人ともまだその父の故前関白の喪中であったし、本来ならこのような催しは自粛すべき状況であった。

 おまけに、帝の父君で昨年暮れより病の床についていた一院法皇のご病状が一進一退で、予断を許さない状況であった。

 そこで歌舞楽曲はひかえられたが、何しろ味気ない正月であっただけに殿上人や上達部にとっては久しぶりに華やいだ行事となった。詩会には摂政はじめその弟たちはもちろん、御簾の中には皇太后とその姪の中宮も参列し、式部卿宮と匂宮の親子と、さらに薫も蔵人として顔を出していた。

 本来なら桜をめでてということでそのような題が与えられるところだが、桜はまだ堅いつぼみであった。気候が狂っているわけではなく暦がずれているせいで、この二月のあとには閏二月が入って修正されることになる。

 だからこの日は桜どころではなく、激しく雪が降って風も強かった。法皇の病のこともあるので会は早々に打ち切られ、殿上人の宿直所とのいどころへと皆は集まった。匂宮も、この吹雪の中へ車を出すのも難儀とそこにいた。

 薫は簀子に出て、間違いなく積もると思われる雪をじっと見ていた。そして、この雪は宇治の里にも降っているはずだなどということを、ぼんやりと考えていた。もう、日はとっぷりと暮れていた。

「衣かたしき今宵もや」

 そんな歌が、ふと口に出たりする。

 ――われを待つらん宇治の橋姫……

 昔、古今集のこの歌を文の奥書に書いた頃とは、宇治の橋姫が違う人になってしまっている。その橋姫に切実に会いたいと薫が思っているすぐそのそばで、匂宮は横になっていた。薫には背を向けているが、もしさっき口に出た歌が匂宮にも聞こえていたりしたらと、薫はひやりとした。だが、匂宮の方からそのことについて何も言ってくるような様子はなかった。

 宿直所は殿上人でひしめき合っていたが、彼らは宿直ではなく帰れなくなってここにいるだけだから、互いに酒を酌み交わしては談笑していた。

 翌朝は、思った通りの大雪となった。そしてそのまま、宮中での公務となる。匂宮は実務がないので退出してよいのだが、何しろ雪のため車が出せない。だが、やはりそこは春の雪で、昼ごろにはもう溶け始めたので匂宮は帰った。

 いったい匂宮に対する何のわだかまりが自分にあるのだろうかと、薫は自責していた。昨日からとうとう、薫は匂宮とひと言も言葉を交わさなかった。だが匂宮の態度は、明らかに言葉が交わせるような雰囲気ではなかった。


 そしてその翌日、宮中は大騒ぎとなった。

 一院法皇がご危篤ということなのである。

 まず薫は、冷泉院にこのことをお知らせする使者として遣わされた。そしてその途中、まだ何も知らずに出仕してくる殿上人の車と行き違うたびに、相手の車を止めてことの次第を薫は伝えた。

 冷泉院に着いて報告すると、上皇もご自分の弟である法皇のいる御寺にお出ましになると言われた。薫はそのまま、その供となることになった。

 法皇のもう一人の兄の二条邸の式部卿宮、すなわち匂宮の父宮には別の使いが立てられ、今ごろはやはり報告している頃である。

 一院の御寺はかつて朱雀院の帝がおられた西山の御寺のすぐそばで、少し山の方に入った所にあった。朱雀院の御寺よりは小さいが、塔を持つ立派な寺である。冷泉院の上皇と薫が着いた頃には、宮中からここへ直行してきた上達部たちがすでに集まっていた。

 そしてその日の昼過ぎに、修法も虚しく一院法皇は崩御された。御年三十三歳で、薫と同じ年だった。

 加冠前の童形でその頃皇位にあった今の冷泉院上皇の皇太弟となり、幼年で即位し、そして譲位して仏門に入った。その御子は幼いながらも今や一天万乗の帝である。

 それにひきかえ……と、同じ年の自分はと薫はついつい比較してしまう。自分は仏門にも入らず、官職も高くはなく、また子もいない。そして二十代の若者と同じ心で、二十代の女性に恋をしている。

 思えば院のご生涯は、ずいぶん早足であったようにも思われる。院は薫にとって従兄弟いとこである。光源氏を父としても院は光源氏の弟の子であり、また真実の父親から見ても院はその姉の子である。さらには真実の母も院の従姉いとこなのである。

 その崩御の席には冷泉院上皇、式部卿宮と、一院法皇の同腹の兄たちが顔をそろえていた。思えば、匂宮の父で皇位を約束されていた式部卿宮を退ける形となって十一歳で皇位についたのが一院法皇であった。

 だがそのようなことは今では遠い昔話で、式部卿宮も匂宮も、それぞれその弟と叔父の死を悼んでいた。

 ややあって、まずは皇太后の、そして摂政とその兄弟たちの車が到着した。彼らは、崩御には間に合わなかった。

 それに、院の皇子である帝の行幸はどうも不可能な状況だということであった。一院法皇は帝の御父とはいえ、摂政の一族とは反目があった。もともと小野宮流が策謀で擁立した帝であったし、ご在位中も今の皇太后を立后させなかったことで、故前関白がそれに反抗して参内しなかったという事件すらあった。だが血でいえば、摂政は一院法皇の母方の従兄いとこなのである。

 その摂政に無理やりに皇后とされた法皇の中宮だった人は、朝早くから来ていたが、同じ一院法皇の御在位中の後宮にいた皇太后との同席を嫌ってさっさと帰っていってしまった。

 その後、上達部たちは引き上げて、摂政の東三条邸に参集した。

 皆、触穢となったから宮中に戻るわけには行かない。そこに陰陽師たちも呼ばれて議が開かれ、院の御葬送は七日後と決まった。崩御された御寺が、それまでの殯宮となる。

 薫もともに東三条邸に入っていたが、冷泉院がお帰りになるというので供をして退出し、その足で自邸の三条邸に戻った。

 そしてあたふたとした一日から解放されて、ふと気づいたことがあった。御寺には式部卿宮の姿はあったが、その子である匂宮の姿はついにぞ見かけなかったのである。


 翌日の夕方、薫は姉から二条邸に呼ばれた。姉から呼ばれた時はたいていいい話ではなく、この時も薫は嫌な予感がしていた。

 同じ二条邸でも匂宮や中君を訪ねる時は西の門から入る薫だが、姉を訪ねる時は東の門から入る。この日もやはり東の門から入ったが、案内された先は寝殿であった。

 薫と対面したのは匂宮の父の式部卿宮で、薫には従兄いとこであると同時に義兄でもある。姉も几帳の後ろにいるようだった。同母弟の一院法皇の喪中なので、当然のこと式部卿宮は喪服であった。

「実は……」

 式部卿宮の顔は曇りきっていた。姉よりも年下で、ちょうど四十歳である。

「息子の兵部卿宮が見当たらないのだが……」

「え?」

 薫の頭に、再び院の崩御の時のことが浮かんだ。

「確か、御寺にもいらっしゃらなかったことは覚えてますが」

「それが、今になっても行方不明なのだよ。何か心当たりは?」

「いえ。あのう、東三条邸では?」

「それはないのです」

 と、几帳の後ろから姉の声がした。

「西ノ対の上には確かに東三条邸へ行くと言って出かけたそうだけど、向こうに使いをやっても来ていないと……」

「ああ、そういえば」

 確かに、薫は院の崩御のあとは東三条邸に詰めていたのだから、もし匂宮がそこにいたなら、たとえ顔は合わせなくてもいるという情報だけは伝わってきたはずだ。

「いったい、どこに行かれたのでしょう。私とて見当がつきません」

「まさかと思うのだが……」

 式部卿宮は、声を落とした。

「崩御されたのが一院の法皇様ということで、反抗しているのかな?」

「と、おっしゃいますと……?」

「私がかつて兄君の冷泉院の上皇様ご在位の時の皇太弟と目されておきながら、小野宮家の横槍で立太子できなんだことは、知っておりますな」

「はあ」

「そなたのお父君で、九条家の庇護者であられた光源氏の君をおとしめるために、私を飛び越えて五宮ごのみやであった一院法皇様が立太子してやがて位に就かれた。それを、息子は根に持っているのかな? 法皇様をまるで父のかたきみたいに思って……。それで喪にも服さずに出奔したのではないかと……」

「いや、それはないでしょう」

 薫は少し笑ったが、式部卿宮の真剣な表情に慌てて笑みを消した。

「ちょうど私が立太子できなんだ時に、私をかついで反乱を起こそうとした連中がいたのだよ。それに巻き込まれてお父君はひどい目に遭われたのだが、私が心配しているのはまさか兵部卿宮も同じことを考えているのだはないかということなんだ」

「それは、絶対にあり得ません」

 薫は、そう断言した。

「私は兵部卿宮様のご性質は、幼い頃からよく存じております。あの方は政治向きのことには全く関心はおありではなく、失礼な言い方ですが、宮様がもしあの時に立太子されて皇位にお就きになり、そして自分が東宮となってさらに自分が皇位になどということを考えたら背筋が寒くなるとも言われてました。お父宮様が皇位にお就きにならないでよかったとさえ、言われていたのですから」

「そうか」

「おそらくは院の崩御のことも知らずに、ほかの女人の所にでも……」

 薫は苦笑した。その時、自分の苦笑の影にはっと気づいたことがあった。薫の苦笑はたちどころに消えた。

 式部卿宮も、まだ腑に落ちない顔をしていた。

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