自邸に戻ってからも、薫は匂宮の出奔のことについて考えていた。

 式部卿宮の憶測は明らかに思い過ごしであるが、それよりも自分自身の口から言ったことの方が今の薫には重くのしかかる内容だった。

 匂宮はいったい、どこに行ったのか……もし今、昔のままの状態だったら、薫はその匂宮の行き先を本当に「どこかよその女人の所」と思って気にもかけなかったであろう。だが今は、匂宮は薫にとって危険な存在なのだ。

 だから、まさか……と思った。思いはじめると気になってしょうがない。それもまた思い過ごしであってくれるよう、祈るばかりだった。

 こうなると、薫はとにかく一日も早く宇治に行きたかった。思い過ごしであることを確認したい。

 むしろ、式部卿宮の憶測が当たっていてくれていた方が薫にとっては安心なのだが、それはやはり絶対にあり得ない。あり得ないだけに、そしてそれに対し薫自身の憶測の方が十分にあり得るので、ますます気になってしまう。

 しかし、一院のご葬送が終わるまでは、宇治行きはとても無理であった。今は一日も早く都の姫の新居を完成させて、姫を都に迎えるしかない。たとえ危惧が当たっていたとしても、姫を都に迎えてしまいさえすればこっちのものだと薫は思っていた。

 だから、焦っても仕方がないので、公務多端な今は努めて気をゆったりと持つことにした。姫を初めて見てからもう一年たつが、これからその数十倍の時間を姫と共に過ごすのである。

 薫は、とりあえず姫にふみをしたためた――心は宇治にありながら、身の自由がきかないので、恨みごとでも言って下さればかえってうれしい。浅い心ではないのだから――そんな内容の手紙だった。それを結び文にはせず立て文の奉書形式にして、従者に持たせて宇治へと走らせた。

 そしてもうひとつ、新邸完成に先立って薫にはしなければならないことがあった。妻への言い訳である。何のための新邸かは今はまだ妻には秘密にしているが、やがては風に乗って噂は三条邸の西ノ対にも伝わるかもしれない。そこで、先手を打っておく必要があった。

 同じ邸内に住んでいながら、薫は久しぶりに西ノ対に渡った。この日も暗くなってからの帰宅ではあったが、帰るとすぐに直衣に着替えて妻と対面した。

「殿のお渡りでございます」

 薫が来ることを伝える声が、渡廊を歩く薫にも聞こえてきた。妻は何をするでもなく、ぼんやりと座っていたところであった。

「実はね、話しておきたいことがあってね」

 座るとすぐに、薫はきり出した。妻はきょとんとした表情で聞いている。

「とんでもない話だと思うかもしれないけれど」

一度薫はそこで話を切った。そして息を吸って、思い切ってという感じでまた話し始めた。

「長年お世話をしていた女性がいるんだ。遠い田舎にこれまで打ち捨てておいたんだけど、やはり気の毒で近くに呼び寄せようと思ってね」

「そうですか。結構なことではありませんか。私も長く置いておかれたのに、殿はこうして呼び寄せて下さいましたし」

 伏目がちにしゃべる妻は、やはり大人の女だった。かえって自分の方が子供っぽく感じてしまう。

「本当はね、私は仏道に専念するつもりで、若い時分をずっと過ごしてきたんだ。いつかは世を捨てようと思っていた。でもあなたを正式な妻として迎えてからは、それも難しくなった。ただ、隠していた人をいつまでも放っておくのは、罪を作るような気になってね」

「そうだったんですか」

 やっと妻は顔を上げた。いよいよ恨みごとかなと、薫は身構えた。覚悟のことである。

「そんなに、仏道に……。存じ上げませんでしたわ。何しろ私は殿がどのようなことにお心をおとめなのかも存じておりませんでしたし」

 予想していた恨みごととは全く違う言葉だったが、薫は胸が打たれる思いだった。考えてみればこの女は、薫にとってのいちばん重要な部分を、妻と称していながら全く知らない。いや、知らせてこなかったという方が正確かもしれない。

 そして同じように、薫もこの妻のことは何も知らない。どのようなことが好きで、どのような夢を持ち、またどのような性格なのかさえもだ。

 だから、この妻を愛しているとは、お世辞ででも言えないというのが薫の正直な心だった。

 恋心を感じる以前に妻と定められた。今は夫婦としての連帯感はあっても、そこに愛があるとは思えない。そしておそらく、妻の方とて同じであろう。それに対して……と、薫はいかに自分が宇治の姫を愛しているかを、妻を前にしながらもひしひしと感じていた。

 そんな真意を覆い隠すかのように、薫は言葉を続けた。

「宮中になどもしあらぬ噂が流れたら、あれこれ尾びれがつくのは必定。そんなのがあなたの耳に入ったりしたら、私の恥だからね。何しろその女性というのは、まだ二十歳なのだから……。私はもう三十過ぎの翁だし……。でもその女性とのことは、たいしたことではないのだよ」

 薫は自分で言っていて、途中からおかしくなった。これが世間一般の妻という存在のように嫉妬でもするなら、このような言い訳も張り合いが出よう。しかし、妻の答えは、

「はあ」

 という気のない返事だけだった。


 故一院法皇の葬送も終わり、匂宮も二条邸に戻ったようだった。

 なんだか二条邸まで出かけて匂宮にどこへ行っていたのかと聞くのも、薫には恐かった。おそらく言わないだろう。薫の姉である母にも、問い詰められてもきっと言っていないに違いない。

 そして、葬送が終わったとしても、薫の宇治行きには困難な状況が続いていた。蔵人などという宮中の雑務のすべてを一身に背負い込むような役職を持っていることが、自分でも恨めしかった。

 しかも彼は、これまた雑務の山の太政官の執政官たる中弁でもある。意に反することばかりで、身動きが取れない。だからといって彼は、すべてを投げ打って恋に走る勇気はなかった。

 しばらくは、故院の法事に明け暮れる毎日だった。閏が入って春が延びても、少しものどかな気持ちにはなれない。そして宇治からの返事の文は、一向に来なかった。

 このようなことは、これまでにはないことだった。以前は早ければこちらが文を持たせた使いが、返事の文をもらって帰ってきていたし、遅くても四日後くらいには宇治からの文使いが来たものだった。

 薫は宮中から戻るなり、女房をつかまえて、

「今日は、文は?」

 と尋ねるのが日課になってしまっていた。そのたびに申し訳なさそうに、女房は首を横に振るのだった。

 薫はますます気になってきた。前に行った時の姫の態度と、それに匂宮のこともある。そして危惧の念は、ますます拡大する。姫の新邸も完成しつつあるが、その普請を任せている仲信という男の娘婿が匂宮の腹心の大内記道定という男だったことを思い出した。

 もしかして仲信に普請を任せたのは迂闊だったかもしれないと薫は思ったが、取り越し苦労だと自分に言い聞かせて、仲信の普請役はあえてそのままにしておいた。

 そして、あれこれ考えても憶測の域は出ないので、薫は思い切ってもう一度宇治に文を書いた。

 ――お返事が頂けませんが、もしや御病などではと心配しています。自ら参上してお見舞いできないのが心苦しいのですが、こちらも忙しくて目が回りそうな毎日ですので、どうかお許しください――

 そんな内容の文は、特に気の利いた自らの家司に、すぐに返事をもらって来るようくれぐれも言い含めて宇治に持たせた。

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