遅かった春ではあるが、それでも確実に訪れてきた。

 閏という文字が入っていることを別とすれば、例年通り二月の中旬には桜の蕾もほころびはじめた。

 その頃薫は公務の合間をぬって、三条大路の北に面する新邸の建築の様子を見に行った。もうほとんど出来上がっていて、あとは調度を入れるだけだ。いつ宇治から姫を迎えてもいいように、すでになっていた。

 一度自邸に戻った薫は、とんぼ返りで二条邸に赴いた。姉の具合がここのところよくないので、見舞いに行くことになっていたのである。

 何しろやっと取れたの日であった。本当は宇治へ飛んでいきたかったのだが、昨夜も遅くまで勤務はあったし、翌朝も早い。弁の尼を訪ねたり寺の阿舎利への用向きなら日帰りでもいいが、今の薫にはそうもいかない。宇治に行くのは二日の假が必要なのだ。

 もう、姫を都に迎える日は間近でもあるし、だからあえて薫はその久々の假をほかの私事に当てることにしたのである。姉の所へも、この日をはずしたら今度はいつ行かれるか分からない。

 ところが出かけ間際になって宇治へ遣わした文使いが戻ってきたようで、庭で簀子にいる家司に報告をしている声が車に乗るために廂を歩いていた薫の耳にも飛び込んできた。

「少々思いがけないことがございまして、それを確認してからと思いましたので、帰りが遅くなってしまったのですが……」

 薫の意識はその言葉に止まり、そのまま妻戸から簀子へと出た。使者は慌てて、薫の方に向きを変えて庭先で身をかがめた。

「思いがけないこととは、何があったのかね」

 薫はその使者に、直接声をかけた。だが使者は家司の方をちらりと見ただけで、そのまま黙って顔を伏せていた。どうも、他聞をはばかることのようだ。すぐに人払いをしてでも薫は聞きたかったが、すでに出かける用意をさせてしまっている。車には牛もつながれ、供のものも待機中だ。しかたなく、話はあとで聞くことにした。

 二条邸ではいつも姉を訪ねる時のように、東の門から入ろうとした。ところがこの日はこちらの供が、門の所で向こうの侍に何か言われている。その供のものの報告によると、この門は壊れていて近々修理の予定であり、すでに足場も組まれているので車を入れることができず、そのため西の門に回ってほしいとのことだった。

 薫の車を引く牛は、再び歩み出した。西の門は東洞院大路に面しており、その大路に向かって門が造れるのは宮家か上達部の屋敷の特権である。

 その門で薫は門番の侍に西ノ対ではなく北ノ対を訪ねるのだと供のものに言わせ、自身で上がって簀子を回ろうとした。

 今は匂宮の顔が見られる気分ではないので来訪も隠し、そっと北ノ対に行ってしまおうとしたのだ。西側の簀子を回れば、西ノ対の居間からは見えないはずだと思ったのである。

 すると台盤所あたりに西ノ対の家司がいて、簀子に座って台盤所の中にふみのようなものを渡しているのが見えた。

 薫は丸木の柱の向こうに隠れた。その家司は薫の所の家司である大蔵大輔仲信の娘婿である大内記式部少輔道定だ。そしてその道定がいなくなったので、薫はまるでこの家の侍のような早足で簀子を歩き、台盤所の中を少しのぞいてみた。

 そこには匂宮の姿があって、今家司が持ってきたと思われる文を一心にのぞいていた。薫の芳香や衣擦れの音に気づかないくらい、匂宮は熱心に文を読みふけっている。

 もしここでそっと近づいて驚かせたら匂宮は声を上げて驚くだろうかと、薫は考えた。もし昔の無邪気な仲だった頃なら薫はそうしたであろうし、また匂宮も予想通りの反応をしただろう。

 だが今の心境は、そのようなことをするには複雑すぎた。だから息をこらして見ていると、匂宮は読み終えた文に頬ずりまでしていた。紅の薄い色の紙だった。

 まさか……とは思うが、そう何でもかんでも勘ぐるのはよくないと薫は思い直した。ここで声をかけて問いただせば自分の危惧は晴れるとも思ったが、しかしやはりそれを実行する勇気は薫にはなかった。

 問いただすことによって、かえって自分の危惧した通りであることが分かるのが恐かった。だから薫は見つからないようにと気をつけつつも、そっと北ノ対に渡った。そして姉にはひと通りの見舞いの挨拶をして、すぐに退出した。

 たいした病ではないし、姉にはまだ例の姫のことは秘密にしておきたかったのである。

 西ノ対の中君には姫の上洛のことを報告したかったが、今日は夫の匂宮がいるので無理である。そこでまたこっそりと簀子を回って、薫は二条邸をあとにした。

 三条邸に戻ると薫はさっそく、宇治に遣わしていた文使いの家司を呼んだ。

「出かける時の話の続きだが、宇治で見た思いがけないこととは何だったのかね」

「は、はい」

 家司は辺りをうかがっていたが、人はすでに薫が遠ざけていた。

「実は今朝、出雲権守に仕えている男を宇治で見かけまして」

「出雲権守……時方か。匂宮の乳母子の……」

「はい。それで山荘で、あちらの女房にふみを届けているようだったのですよ。私は物陰から見ていたのですけれど」

「文?」

「桜の枝に結んだ文でした」

 それなら、懸想文だ。

「それで?」

「その使いをつかまえて問いただしましたら、権守殿の文だとか何だとかわけの分からないことを申しますから、童を一人選んで都まで後をつけさせたんです。どうも、返事をもらっているようでしたので」

「宇治から都まであとをつけていったのか?」

「はい。そうしたら、その童の報告によりますと、使いは二条邸の西ノ対に入っていって、西ノ対でその文を大内記式部少輔殿に渡していたとか……」

 薫の家の家司仲信の娘婿で、匂宮に仕える道定である。薫はたちまちにして、ついさっき二条邸の西ノ対で見た光景を思い出した。道定は、匂宮に紅の薄色の文を渡していた。

「その文の紙は、どんな色だった?」

「紅の薄色でして……」

「もういい!」

 薫は思わず叫んでいた。

「いいか、このことは他言無用だぞ」

 そう言ってから薫は身舎に戻ったが、その間どのように歩いていたのか記憶が定かではなかった。ただ、庭の方で家司が下がる気配がしたのだけを感じていた。

「ちょっと、待て」

 薫はその家司に叫んでから、筆を執った。


――ももとせもちとせも色かはらぬものとたのめる松ならで、梅が香のいづれにうつりぬるにや、いづれに匂ふなるや。まことの御こゝろをこそきかまほしけれ。さらに、なわらひそ。

 かたみに袖を……


 いつになく饒舌な、それでいて露骨な心情吐露の文だった。

「戻ってきたばかりでご苦労だが、すぐにまた宇治に行ってくれないか」

 普通なら嫌がるであろうが、宇治で見かけた不審なことの詮索までしてくれたような性格の男なので、嫌な顔もせずにこの家司の男は出かけていった。

 そしてなんと深夜には、家司は戻ってきた。あの山道を馬を飛ばし、宵の口に着いたらとんぼ返りに駆け戻ってきたようだ。

「お文をお返しになられました。どこか届け先を間違えたのではないかとおっしゃって……」

 薫は、胸の動きが止まる思いだった。家司が恐る恐る差し出したのは、紛れもなく薫自身が書いた文だった。

 下がってよい――と、言ってねぎらいの言葉でもかけたかったが、言葉が出ない。そこで身振りだけで薫は家司を下がらせ、おぼつかない足取りで身舎に入ると木の床の上に仰向けに寝転んだ。

 自分の出した文を持つ手は震えていた。これでもう何もかもがはっきりしたのだ。末の松山を、波は見事に越えたのである。

 薫の文の返事は、これだった。つまり、文をつき返された。これでは、絶縁状を突きつけられたも同然だ。そして匂宮は間違いなく姫からの文をもらって、それに頬ずりまでしていた。

 なぜあのような光景を見てしまったのかと、薫は運命のいたずらをのろった。これですべての疑惑がもはや疑惑ではなく、動かぬ真実となってしまったのだ。そうなると、何もかもが辻褄が合う。匂宮の変化と薫との間の心の溝、姫の豹変した態度、そして匂宮が行方不明……すべてが「やはり」のひと言に尽きた。匂宮と姫は、文を取り交わすだけの仲ではないことは明白だ。

 だが、それ以上のことを想像するのは、今の薫にとっては残酷すぎた。匂宮は姫の肌のぬくもりを感じた……乳房を吸った……姫も声を出して反応した……自分が握った手を、あの男が握った……この体が覚えている女の体が、あの男と重なった……薫は烏帽子を引きちぎるように取って床に投げつけ、髪をかきむしった。

 もとどりが乱れるのも、お構いしなしだった。そして自分の直衣の胸をつかみ、きぬがしわくちゃになった。そして、低い唸り声を上げる。だが、不思議と涙は出なかった。

 薫は、大殿油に微かに照らされた天井裏のはりを見上げた。

 女房たちは恐れをなして、物陰に隠れている。その女房たちが、すわ物の怪と話している声も耳に飛び込んでくる。だが薫は、そのような声を聞いてはいなかった。

「酒!」

 と、その女房に向かって薫は叫んだ。しばらくして酒が運ばれてきたが、運ぶ女房の手は震えていた。ところが薫は口で陀羅尼経などをぶつぶつ唱えており、そのような状況では酌をしてもらえるはずもなく、しかたなく彼は一人手酌で酒を飲んだ。

 三十歳みそじも過ぎてからやっと手に入れた本物の愛――可憐な花が、幼なじみであり親友でもあり弟同然の男に摘み取られた。その親友に抱かれている最愛の人の姿が目に浮かび、薫は唸り声を上げてこぶしを木の床に何度も叩きつけた。

 そして、「やられた!」と、低い声で叫ぶ。狂おしいほどの嫉妬を、彼はどうすることもできずにいた。

 それから何度も大きく息を吸ったり吐いたりして、また一気に杯を干した。瓶子の中はすぐに空になった。

「酒!」

 再びそう叫ぶと、また恐る恐る酒は運ばれてくる。そして几帳の向こうでは、女房たちによる読経の唱和さえ聞こえてくる。女房たちは完全に、薫に物の怪が憑いたとしか思っていないようだ。

「匂宮……」

 その笑顔が薫の脳裏に浮かんだが、それが忌々しい笑顔にしか感じられなかった。あれほど愛した女の顔も、今は疎ましい。二人でどんな会話をしたのか……自分のことをどう言っていたのか……「薫とはもう会うな。縁を切れ」と匂宮は言ったのだろうか……そして姫は、どう答えたのか……それは分からない。分からないが、姫があの男に体を許したのは間違いない。許せない……薫はまた身悶えてしまった。

 何も知らずにいた自分を、二人はあざ笑っていたのだろうか……いい年して若い女に熱を上げているどうしようもないじじいと言ったのだろうか……自分のふみを二人して読んで、ばかにしていたのだろうか……確かに自分はばかだった。

 匂宮のことを危ないと感じながらも、宇治という土地に置いていることに安心しきっていた。思えば宇治は、匂宮にとっても縁がない土地ではなかったのだ。いっそうのこと、あの東屋に置いておいた方がよかったかもしれない……何もかもがもう遅い。

 外は春の嵐が激しく吼えまくり、下ろされた格子を恐ろしげに鳴らしている。そんな中で、薫はまた杯を重ねた。

 何も知らずにいい気になって、都に迎えると姫に何度も無邪気に言った。こうなると、新邸などを胸を躍らせて作らせていたことなど茶番劇だった。いやそもそも、その新邸を造営することにしたことが、この悲劇の発端だったのだ。

 いくら気心が知れているとはいえ、匂宮の側近の大内記の舅の大蔵大輔仲信などを普請役にして姫のことをすべて打ち明けていたなど、迂闊を通り越して愚の骨頂だった。姫を宇治に隠していることが匂宮に知れたのは、その線を通してとしか考えられないからだ。

 薫は今度は、突然大声で笑い出した。姫がほかの男に抱かれている間も自分は何も知らずにここで姫を都に迎える算段をしていたなど、自分の能天気さがいいかげん滑稽になってきたのだ。

 こうなるともう悲劇ではなくて喜劇である。

 これが薫の運命で、仏道に専念するなどといって女を遠ざけてきたそのつけが、今ごろまわってきたのかもしれない。

 それにしても、やはり匂宮は許せなかった。姫も許せない。しかし、許せないからといっても、何もできない自分が歯がゆかった。いっそ身を引いて、あのような女は匂宮にくれてやろうかとも思った。それは一種の自虐的快楽であったが、それだけでは腹の虫が収まらないので代わりに中君をさらって自分の妻にしてしまおうかとまで彼の妄想は進んでいった。

 その時、薫の笑いがぱっと止まって、急に真顔になった。そのようなことが実行できる自分ではないことは、彼がいちばんよく知っているからだ。

 それに、匂宮などと一緒になっても、姫が幸せになれるはずもない。そもそも薫の天然の芳香に嫉妬し、それに対抗するために香を炊き込めて匂宮と呼ばれているような男である。

 宇治の姫に手を出したのも薫に対する対抗心からだという可能性も十分にあり、もしそうだとすると手に入れたら目的は達成するわけで、釣った魚にえさはやらないという状況になることは十分に考えられる。

 最悪の場合、姫は女房として東三条の六の君あたりに仕えさせられることになるかもしれない。いずれにせよ姫が中君の妹である以上、正式な妻にするのは難しかろう。また、薫自身が中君を奪ったとて、それで互いが幸せになれるとも思えない。

 薫にとって宇治の姫の裏切りは許せなかったが、それでもやはり憎みきれない存在ではあった。それは本当に彼女を愛しているからなのか、それとも未練だけなのか……こんな仕打ちを受けて、それでも彼女を愛しているといえるのか……薫には自分でも分からなかった。

 ただ分かっている事実は、今の薫にあるのは悲しみだけだということだった。彼女が汚れてしまったという悲しみが、激しい春の嵐の中で身を縮ませている。

 そして薫の口惜くやしさは、ますますつのる。

 そしてまた運命をのろい、薫は顔をしわくちゃにしてうなりはじめるのだった。

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