初夏の様相を呈して行きた四月末に、天下に改元の詔が発せられた。年号が変わる。帝の代がわりから七ケ月目のことだった。

 もっとも源氏は職務上、すでに左大臣が大内記や文章博士に新しい年号を選定させていたことは知っていた。その新年号がいよいよ発表されたのである。

 それは新しい時代の到来を告げるものであると同時に、ひとつの時代の終わりを告げるものでもあった。源氏にとって帝が父であり、その栄光の中に浴して自分も輝いていた時代、それが終わりを告げて父の亡きあと一人前の男として世間の荒海にたった一人で放り出されたのである。

 また、時代が変わったということを告げるもうひとつ別の情報を、左近衛府で彼は聞いた。ある貴女が宮中で殿舎を遷るので、その警護の話が右近衛舎人のところへまわってきたのである。その貴女とは御匣殿みくしげどの別当であった。御匣殿は後宮の役所のひとつで別当とはその長官であるが、帝のおそば近くに仕えることのできる職掌であった。

 この時の御匣殿別当は左大臣の娘、つまり舅の宰相中将の妹であるが、六条御息所と同じく先坊の御息所であった人である。六条わたりでひそやかに暮らしている六条御息所は亡き本院大臣の娘、御匡殿別当は今を時めく左大臣の娘、同じ前坊の御息所でありながら持つ父でこうも境遇が違うのかと、源氏は宮中の一面を垣間見たようでため息が出た。

 しかも御匡殿別当が遷ったのは飛香含――すなわち彼が第二の母と慕う藤壷の宮のかつての御殿であった。


 あまりに無沙汰をしてはと思い、源氏が宰相中将の小野官邸を訪ねたのは、少し汗ばむ陽気になってからだった。

 南面みなみおもてで対座した舅は、さすがに参議としての貫禄が出てきたように思われた。

「北山にお籠もりになっていた由、承っております」

「いや、寵っていたというはどの日数ではございませんでしたが」

「かなり職務にも精を出しておられるとか」

「いえ。同じ職の先達とも存じておりますので、よろしく御教導を賜れればと」

「それがまろは中将とはほんの名ばかりで、参議としての陣定がたて続いて内裏へ籠もりきりでしてな、近衛府へはほとんど参っておりません状態で」

 酒肴が運ばれてきた。その間源氏は中将職の話題でふと思い出したので、北山で舅の弟である権中将と会ったことをきり出そうかとも思った。

 しかし、やめた。

 どうも権中将はこの兄のことをよく思ってはいないようであったのを、思い出したからである、女房の酌を受けて、源氏が代わりの話題を探していたら、宰相中将の方から気になることを言ってきた。

「源氏の君様は、これからはもっともっと、忙しくなりますぞ」

「は?」

 なぜだろうと思う間もなく、宰相中将は源氏へ、もう少し近くに寄るように言った。

「陣定は先日は祈雨のことで、そしてご存じのとおり雨も賜った。そこでさっそく、一大行事の議へととりかかったのでござる」

「一大行事とは、大嘗祭?」

 宰相中将はうなずいた。

「たしかにそれに伴う警固とかで、近衛府も慌ただしくなりましょうな」

「いや、源氏の君。そなた自身が忙しくなるのでござるよ」

「私自身が?」

「そなたは近江権守も兼ねておられるよのう。実はまだあまり大きな声では言えないのでござるが、大嘗祭悠紀国に近江の神埼郡が定められそうな気配なのでござる」

「大嘗祭の悠紀国?」

 これはたしかに、大わらわになるであろう日々が予想される。

 大嘗祭とは新帝即位後の初の新嘗祭で、一代一度の大行事である。これを経て帝は天皇としての神霊を授かることになる。

 今の帝の場合は即位後初の十一月の新嘗祭は故院の喪中にあったため、一年延期となった。今年の十一月なら、故院の喪も明けている。

 その大嘗祭の夕御饌ゆうみけの神饌料の米や粟を耕作し、献上する斎田が夏に選ばれる。それを悠紀田ゆきでんといい、今回は近江国が悠紀田のある悠紀国にト定される運びになっているという。ちなみに朝御饌に関する斎田を主基田すきでんといい、それがある主基国は丹波国になりそうだということだった。

 源氏はその悠紀国の、仮とはいえ国守である。忙しくなるのは当然であろう。へたをすると遥任であっても近国なるがゆえ、一度は近江の国府へ赴く必要も生じるかもしれない。

「まあ、お心つもりだけは、しかとなさっておいて下され。そのためにも、わが父左大臣殿のお屋敷に、お伺いしておくほうが上策でござろう」

 そういえば左大臣からも、ぜひにと言われていた。彼の方が無沙汰をしてしまったという無礼を行ってしまっている。

「ぜひ近いうちに、参上致す所存でございます」

 とりあえず源氏は、そう答えておいた。


 妻はこの日は気分がすぐれないことを理由に、源氏の来訪を拒んだ。そのことを寝殿に女房が伝えに来ると、宰相中将はすくっと立ちあがった。

「冗談じゃない。あいつは何を考えているんだ」

 そのまま源氏を残し、宰相中将は西ノ対の方へ行つてしまった。程なく戻ってきた彼は、部屋に入りがてら笑いながら源氏に言った。

「今、言いふくめてきました。さ、どうぞ。久しく見なんだ源氏の君様の北の方様のお顔を、とくとご覧あれ」

 気が重かったが、やはり源氏は行かないわけにはいかなかった。

「はよう孫の顔を、見せて下され」

 うしろから追ってくる宰相中将の声が、今は重荷とすら感じられるのだった。

 妻は几帳の向こうにいた。源氏はとりあえずその外に座った。

「久しく通いませなんだが、病をこじらせて北山へなん参っておりました。北山は桜の盛りでおもしろき風情の数々、我がひとりにて見るには惜しいようなものばかりでして」

 几帳の向こうからは、うんでもなければすんでもない。

「何か、怒っておられるのか? そなたと夫婦めおとになり、年月がたてはたつほど態度が冷たくなるではないか。時には世間の夫婦のように、笑いながら話をしたいんだ。夫が病気であったのに、ひとこともいかがですかの問いかけもないのですか」

「問いかけがないのは」

 やっとか細い声が、几帳の向こうから聞こえてきた。

「そんなにつらいものですか」

 恥じらいがちにつぶやく声には、悪意はないようだった。

「問いかけがないっておっしゃいますけど、あなたの問いかけ(訪問)もなかったくせに」

「たまに口をきいてくれたかと思ったら、またそんなことを。あなたが心を開いてくれるように、私はいろいろと手をつくしているんだけれどね。ま、長生きしていれば、いつかそのうちはね」

 源氏は先に一人で、御帳台の中へ入った。女君はいっこうに動こうともしない。その時暗い御帳台の天井を見ながら、源氏はあることに気がついた。

 似ている、と。北山の少女を見た時、誰かに似ていると思ったが思い出せないでいた。なんと自分の妻に似ていたのだ。考えてみれば当たり前だ。自分の妻とあの少女は従姉妹いとこになるわけだ。そんなことが源氏にはおもしろかった。そのまま源氏は、一人で眠ることにした。妻を呼ぶ気にはなれなかった。

 翌朝目覚めてみると、妻は脇息によりかかって寝ていた。


 東洞院ひがしのとういん大路を上り中御門大路で左折、一町ばかり行くと烏丸からすま小路を超えた右手に、左大臣邸は広がっていた。

 雨だった。本格的な梅雨の到来だ。久々の源氏の来訪に、左大臣は下にもおかぬもてなしぶりで、さっそく宴が催されたくらいだ。

 まずは源氏が故院の皇子であり帝の兄であること、そして何よりも左大臣が目の中に入れても痛くない孫娘の婿であることなどから、五十二歳の左大臣は相好を崩しっぱなしだった。

「いやあ、席も温まる暇もござらぬとはこのことですな。このところはもう物忌もやってはおれません」

 女房がどんどん、源氏に酌を勧める。

「源氏の君も、大嘗祭が近づくにつれてこうなリますぞ。なにしろ悠紀国の権国司であらせられるのですからのう」

「いえ、もう、今でも」

 今日、こうして源氏が来訪できたのも、やっとの暇を見つけてという感じだった。それも左大臣の日程と合わせるのも、ひと苦労だったのだ。源氏にとって、忙殺と言える毎日だった。遥任権国司の任と、さらに本来の右近中将としての職務が重なっている。国司は彼は仮の任で、正式の国司もいることにはいる。しかし、その正式の近江守とて遥任であり、参議と左大弁の兼任、さらには六十八歳の高齢ときている。実務はやはり若い源氏にまわってこよう。

「しかし、よく降りますなあ」

 束の間の安息を得たような気分で、源氏は庭を目た。銀色の幾節もの糸が、庭全体をすっぽりと覆っている。もう幾日もこんな日が続いていた。

「大嘗祭もすでに行事が始まっているというのに、この長雨ではな。祈止雨の儀もまた陣で議せねばならぬ。それにもうひとつ、悩みの種がござってな、御勅願寺の造寺のことでござるよ」

 勅願寺といえば自分の父に関することになる。源氏はあらためて左大臣の顔を見た。

「この雨でいっこうにはかどらない。また諸国に申し渡した材木の件も、いっこうに上って参らぬによって、頭痛の種でござるよ。故院の一周忌が近づいておるというのに、こうはかばかしくなくては、故院にも申しわけが立たぬ。故院の一周忌の法要は何としても御勅願寺でと存じておりますし、塔はあとにしてもせめて大門は、その時までには形をつけて差し上げたいのですがのう」

 話が期せず父のことになったので、源氏はため息をついた。ため息は左大臣も同時だった。

「何もかも財政難じゃ。造寺のこと、大嘗祭のこと、ああ、頭も痛くなろうよ」

 左大臣はひとしきり苦笑した。源氏はきまりが悪くて答えられなかった。

 すでに源氏が近江守やさらには主基国の丹波守とも議していたことだが、両国の国衙だけではとても財政的に悠紀、主基の任に堪えきれない。よって中央の義倉より借財することを申し入れようということになっていたからである。

 左大臣はまだそのことは知らないようだ。しかし、縦の線を通して左大臣には上げねばならないから権守の源氏がここで言ってしまうわけにもいかず、それだけにばつが悪い思いだったのである。

 左大臣が招くのでよほど重大な話があるのかと思いきや、結局時事政談ばかりをして源氏は退出することになった。

 

 二、三日してから夕刻に、突然に二条邸へ来客があった。北山で会ったあの権中将だ。あわてて源氏が家司に接待を命じていると、本人はもうつかつかと寝殿へと入ってきていた。

「朋あり遠方より来たる、だ。いかめしいもてなしなど御無用、御無用」

 笑いながら言う権中将につられて、源氏も心を開いて久しぶりの客人を簀子すのこに立ったまま迎えた。雨の庭を前に、二人は横並びに南廂に座った。

「忙しそうだね」

 不意の義理の叔父の来訪であったが、源氏はなぜか嬉しくてにこにこして答えた。

「ええ。しかし、それだけ毎日が充実しているというもの」

「私もこれからは忙しくなる。こんど蔵人頭くろうどのとうを兼ねることになったよ」

「ほう」

 源氏はその報告を聞いて、彼の方が顔を輝かせていた。舅が宰相中将になってから、ここ数ケ月空いていたポストだ。将来の出世が約束されたエリート・ポジションだけに、申文もしきりにとびかっていたはずだ。そのうらやましい地位に、脇にいる男がなったというのだ。

「そうですか。おめでとうござる。これからは頭中将とうのちゅうじょう殿になられるのですね」

 中将が権職でも、蔵人頭を兼ねれは頭中将にまちがいない。蔵人頭は除目官ではなく宣旨職であるので、春の除目の時に補せられるわけではないのである。

「頭中将殿。わが舅の」

 言いかけて、源氏は口をつぐんだ。この男がその兄をよく思っていないのを思い出したからである。

「それより、蔵人頭となるとこれまた激務でございましょう。ただでさえ案件多き時に。頭中将殿もご苦労でござる」

「それでこそ、やりがいもあるというものよ」

 ひとしきり笑ってから、新しい頭中将は源氏を見た。

「殿はやめて下され。頭中将、と呼んで下され、源氏の君。私も北の方の叔父などではなく、朋輩として受け入れて下さいよ」

「分かりました。では、この固苦しい言葉も……なしにしょう、頭中将!」

「そうだ。そのとおりだ、源氏の君!」

 二人の笑い声が雨の昔とともに庭の池の方まで一響いていた。二人はもはや義理の叔父・甥ではなく、若干の年齢差はあるにせよ同輩のともであった。

「時に源氏の君」

 急に頭中将が真顔になるので、源氏もそれにつられた。

「おう?」

「北山で話をした、私の娘だよ」

 源氏の眉が、ぴくりと動く。激務に追われながらも、忘れていたと言ってしまえば嘘になる存在だった。唾を飲んでその少女の父の次の言葉を、源氏は待った。

「消息が分かりかけたんだ。やはりあの北山の近くにいるようなんだよ」

「それで」

 次の言を出すまでに、源氏はずいぶん時間がかかつた。

「君は、どうするつもりなんだ?」

「本当にかわいそうなことをしたよ、あの女には。やはりもうこの世にはいないらしい。だから、せめて」

 頭中将は視線を庭へ移した。

「その忘れがたみの姫、私の三の君だけでも手元に引き取りたいと思うのだけど」

目処めどはついたのか」

 内心狼狽しながら、源氏はそれを隠すのに必死だった。

「いや。どうもあの女の母が尼になっていて、姫を手放してくれそうもない」

 そこまで分かっているのかという驚きと、父にさえ渡そうとしない尼君に少しの安堵を覚える源氏だった。

「私の家の者も、今ひとつ承諾してくれかねていてね、なかなか多難だよ」

「それは、たいへんだな」

 口では他人事ひとごとのように穏やかに言うものの、源氏は気が気ではなかった。しかし、一度は障壁に思われた尼君という存在が、今では彼にとって大きな味方になってくれているのも事実のようだ。

 雨はまだいっこうに止みそうもないまま、いつしかあたりは暗くなっていった。

 悠紀国の権国司としての仕事も、忙しいながらも順調に進み、大嘗祭に向かって宮中全体が進行しつつあるようだった。六月に入ってからは梅雨も明け何度も虹が立つのを大宮人は見た。

 ところがそのすべての流れを絶ち切る事態が起こったのは、七月に入ってからだった。

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