5
年が明けての元旦の大極殿の朝賀は、この年は行われなかった。
大極殿の機能自体が年々低下していく。今や日本の中心は大極殿ではなく、紫宸殿に移りつつある。漢風建築の大極殿は無用の長物と化しつつもあった。それはとりもなおさす、律令国家としての体制は、はっきりと崩壊しているということを告げる以外の何物でもなかった。
元日の宴は紫宸殿で行われた。源氏も親王扱いの一世源氏として招かれている。これとて本来は朝賀のあとに豊楽院で行われていたものだが、この頃は紫宸殿へと移っていた。
出かけ間際に束帯をつけてから、母のいる北ノ対へ行ったあとに西ノ対を訪ねてみた。姫はもう起きていて、部屋じゅうにもう人形遊びの道具を広げている。
「あ、お兄さま、おめでとうございます」
姫の顔は初日の出よりもまばゆく、ぱっと輝いた。
「いやあ、正月そうそうお人形遊び? ひとつ大人になられたかと思って、拝見しに参りましたのに」
「だって、犬君が
「わかった、わかった。今日はめでたい日なんだからすねない、すねない」
「お兄さまこそ。今日はめでたい日なんだから小言は言わない、言わない」
それを聞いて乳母の少納言がクスッと笑った。かなわないと、源氏も苦笑している。
「では、出かけてくる」
女房たちはさっと端まで出て、源氏を見送った。
姫までもが簀子近くにまで出て畏まるのである。
「いってらっしゃいまし」
たしかに、ほんの少しではあるが大人になった姫を見て、源氏は微笑みながらうなずいてみせた。
内裏のあとは左大臣家へと参賀に出かけ、さらに宰相中将の小野宮邸へと出向いた。妻の所へ顔を出したが、相変わらず妻はよそよそしかった。
「今年こそは打ち解けてくれたら、ありがたいんですけれどね」
そんな源氏の言葉をよそに、妻はただ黙って横を向いて座っていた。夫婦げんかのあとならいざしらず、妻とはけんかすらできる仲ではないのである。
長居は無用と源氏は泊まりもせずにひきあげ、自邸で直衣に着替えてから隣接する藤壷の宮邸を訪れ、これで一連の参賀は終わった。
翌日はさらに左大臣家の臨時客となった。頭中将もいっしょだ。はじめから約して出向いたのである。
そして
ある日の夕刻に太政官の下級官僚である左大史が大内裏を陽明門から退出し、東大宮を下って二条大路を西へ向かっていた時である。朱雀門の前も通り、皇嘉門のあたりまで来た時、突然群盗に恐われた。
そのような時には牛飼いも、従者もたちまちに離敵してしまう。一人車の中に残された左大史は衣服をことごとく奪われ、
このような群盗による官人襲撃は、日常茶飲事ではあった。しかし被害者が下級とはいえ太政官の官人であったので、摂政左大臣もことを大きく見たようだ。
さっそく左右の
そして、摂政からはそれぞれの役所で交代制をつくり、大内裏周辺をはじめとする市中を巡回せよとの仰せであった。
六衛府の筆頭は何といっても左近衛府だ。この巡回の任も源氏の肩にどっとのしかかる。
「やれやれ、晴れの日も終わって、さっそく日常だな」
退出途中で源氏は、頭中将にそうつぶやいていた。
「ああ、もう日が暮れるな。父上に呼ばれたから、今日は帰りが遅くなった」
「おや? もしかして今日はどこぞやへ行くあてが」
黙って笑って、頭中将は源氏の束帯の袖を少しだけ引いた。
「通わずとても済む君とは違うのだよ。それより、わが姪の方はどうしているかね」
「どうもこうも」
まるで急に頭痛がしたような気がして、源氏はため息をついた。
「ま、お互い、一人の女をはさんでということだけは、ないにしたいな」
もっともだと源氏は思った。この男を恋仇になどしたりしたら手強すぎる。それ以上に闘志を燃やしすぎてしまいそうな自分が恐かった。そしてふと思う。西ノ対の姫は自分とこの男の間の一人の女ということにはならないか……いや、彼と姫は親子なのだから事情は違うだろう。
「源氏の君。何を考えているんだ。急に黙って」
「あ、いや、別に」
慌てて源氏はとりつくろったその時、一人の武士が庭先から二人のいる廊を見あげて畏まった。
「申し上げます」
左近の舎人のようだったので、源氏が返答した。
「何ごとだ」
その報告を聞いて、目を吊り上がらせたのは源氏も中将も同じだった。二人は顔を見合わせた。
「これはまずいことになったな」
「ああ、また父上にどやされる」
源氏はますます頭が痛くなる思いだった。
舎人同士の私闘である。
つい今しがた宴の松原にて、それが刃傷事件とまでなったのだという。
折も折、左大臣から市中警護の強化を言いわたされた直後に、その近衛府の舎人が最も血の穢れを忌み嫌う宮中にて傷害乱闘事件を起こしたというのだから始末が悪い。
斬られた方は一命はとりとめたという。犯人も捕えられて左近衛府に連行されたというので、源氏はとりもなおさす頭中将とともに急行した。
犯人は代々算博士を世話している家柄の出だが、その本人は傍系のようだ。その一族が源氏や頭中将の職と関連する近江の豪族であるだけに、二人にとってますます立場がない。
取り調べによると二人は近衛の舎人の中で、とびきりの好色者であったということだ。ところが斬りつけた方が、一人の女性と噂になった。その女性とは
それが昨夜、からかい半分にその老婆の元へ舎人が通ってみたが、ただの対抗意識からもう一人の男もしのびこみ、夫の来訪と勘違いした舎人もこれも面白半分で
「しょうもないと言えは、しょうもないやつらだな」
そのまま源氏の邸へやってきた頭中将と、一杯くみかわしながら源氏は言った。
「ああ、老女を中において斬りあいとはねえ」
頭中将もあきれた様子だった。
「斬った方は、どうなるのかな」
「ま、
「我われとて、監督不行届でお咎めがあるやもしれぬぞ、父上に」
頭中将はため息をついて、杯を干す。源氏のため息も負けてはいない。
「君はいい。二人とも左近の舎人なんだぞ。左近中将は私なんだ」
「それより、源氏の君」
頭中将は少しだけ、身をのり出した。
「私と君とがこのような状況になったら、同じようになるかな」
「え? 老婆を間に?」
「宮中でもおるぞ。好色の若作りの老婆は」
「そうか。でもやはり、対抗意識は持つだろうなあ、君とならばな」
「何だい、それ」
頭中将は笑った。
「太刀を抜いて、直衣を互いに引きちぎって」
「そう」
「でも、そのあとは、笑って肩組んで帰っていくさ」
本当にそうだと、源氏は思った。この男には対抗意識は過剰に持ってはいるが、常に肩組み歩く仲でもあると強く意識していた。
それでもひとつだけ、気にかかることがあった。
頭中将がしきりに、西ノ対を気にしていることである。まさかそこへ忍んで行くなどという無礼は、この男はするまい。彼は自分への対抗意識から、西ノ対の妙齢の姫君へ関心を持っているようである。
しかし西ノ対に妙齢の姫君などいない。そこで彼は的はずれになるが、頭中将にとってそれ以上の衝撃的な真実がそこにあることを、まだ彼は知らないのだ。
その少し後、つまり一月も終わりのころに源氏の舅の宰相中将の妻が亡くなった。しかし、源氏の妻の母ではないので、妻は喪に服することにはならない。だから源氏にとって直接の関係はないにしろ、舅の妻なのだから全くの無関係というわけにはいかず弔問の品々だけは贈っておいた。
亡くなった宰相中将の妻とは、本院大臣の娘である。本院大臣の家に不幸があると、すぐ人々の口に出るのは雷公の怨霊であった。舅はそのような噂は、気にもしていないようであった。雷公にとってはその側にあった左大臣が、宰相中将の父なのである。
しかしその息子たちは、母の出自がその将来をも決める。故本院大臣の遺児たちのうち男児は三男の左少将まである。
だが、女児は多い。その本院大臣の娘ということで、源氏はまたもや忘れていた存在を思い出すことになった。
やはり本院大臣の遺児で、舅の亡き妻の姉妹である六条御息所のことである。しかしそれとてふと頭をかすめただけで、彼はまたもや多忙な日常の中に埋没していった。
(つづく)
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