年も明け、更衣ころもがえも過ぎた四月の下旬、帝はその位を皇太弟にお譲りになって御退位あそばした。

 世間の目から見れば何の前ぶれもない、あまりにも突然の御譲位であった。

 しかも帝はまだ、二十四歳の若さである。譲りを受けた皇大弟は二十一歳であった。ただ源氏だけが、帝が常日頃から御譲位の御意志を口走っておられたのを知っていた。だが本当に御譲位される直前には全くそのような気配をお見せにならなくなったので、源氏は気にかけずについ日々を過ごしていた。

 御譲位とともに上皇、すなわち院となられた帝は母后のいる弘徽殿に遷られ、新帝が綾綺殿に遷られた。二人の母である弘徽殿大后は皇太后から太皇太后となったが、病気を理由にしきりに宮中を出たがっているという。

 本来なら上皇=新院こそすぐに宮中を退出されるべきなのであるが、その退出先に予定されていた朱雀院はかつて一院法皇がお住まいになっていた時以来使われていなかったので修理する必要があり、新院はしばらく弘徽殿にお留まりになることになった。


 梅雨も近いとあって朝から雨降りの日に、大極殿で新帝即位の儀が執り行われた。

 院となられた前の帝の即位式の時は源氏はまだ近衛舎人であったが、今度はわけが違う。参議として朝からてんてこ舞いであった。どんなにかこの日を待っていたであろう九条大納言とて感動している暇はないようで、内裏と八省院との間を何度も往復しヒステリックに動き回っては感情的になって、蔵人たちを怠慢だと怒鳴りつけたりしていた。

 いざ式典が始まっても開くべき門が開かなかったりという突発事件が続いたが、それでもようやく慌ただしい一日は過ぎた。

 疲れた……これが正直な気持ちだった。こうして新しい時代の第一日目が暮れた。


 数日たって少しは落ち着いた頃を見計らい、の日の夕刻に源氏は九条邸を訪ねた。何しろ前日は女叙位のことで朝まで議定が続き、せっかくの休日に公卿全員が朝帰りとなって源氏も昼過ぎまで寝ていたのだ。

「どうだね。疲れはとれたかね」

 あまり暑いので泉殿で対面となったが、まず源氏は大納言にそう切り出した。

「いやあ、だめだね。昨日は息もつく暇がなかったからね。それにしてもこの間更衣ころもがえかと思ったらもう梅雨だものな。季節が変るのもめまぐるしいよ」

 この日源氏は直衣ではなく、束帯を着していた。

 しかも大納言が宮中で着しているのと同じ黒の袍だ。

 源氏はいきなり束帯で現れた時、

「やっと従三位じゅさんみになれたのでね、その慶申よろこびもうしさ」

 と、その格好の言い訳をしていた。源氏も大納言も新帝御即位によって叙位され、源氏は従三位に、大納言は従二位になった。大納言は春に従三位になったばかりだったから、たった四ケ月での叙位である。

 宵闇が辺りを包み始め、東の山も黒い影になりつつあった。空は薄雲が立ち込め、中天では半月が雲越しに淡い光を投げていた。

 二人の間に、膳と燭台が運ばれた。

「しかし、しかるべくしてなったんだと私は思うよ」

 源氏の言葉に、大納言は少しだけ笑って杯を口に運んだ。

「新院は御譲位前に大后様の弘徽殿に行幸あそばされた際、ふと大后様がお言葉を帝、つまり新院に申し上げたら、それでたちまちの御譲位だということらしい」

「大后様のお言葉?」

「早く東宮がこの帝のような、立派な帝としてのお姿になるのを拝見したいってね」

「もしや、御譲位はそのため……?」

 源氏は杯を運ぶ手を止め、大納言を見た。大納言の口元には、含み笑いがあった。

「大后様は、本当にそう言われたのかね?」

 大納言は何も答えず、まだ含み笑いを続けていた源氏も思わず苦笑した。

「策士だなあ、君は」

「私を責めるかね?」

「いや」

 源氏は首を横に振った。今自分が考えていることからすれば、とても大納言を責められたものではない。

「妹殿の腹中の御子は、順調かね」

「お蔭様でね」

 源氏の妻の妹なので、あえて源氏は妹殿と呼んだ。もはや東宮妃ではなく、帝の更衣である。だが新帝には御元服の折の添伏として入内した藤中納言の娘が、すでにもう一人の更衣として存在している。だがそのようなのは物の数ではないと大納言は思っているようだ。その父は一族の中でも傍系にすぎない。

 いちばんの強みは、大納言の娘がすでに帝の御子を懐妊していることだった。もしそれが皇子であったら、もはや絶対的有利さは不動のものとなる。

「すべてが賭けだよ」

 もう一度大納言は笑った。


 即位の大礼が終わったからといって、ひと安心はできなかった。冬には大嘗祭が待っている。先帝の崩御ではなく御譲位による御即位なので、大嘗祭は御即位の年に行われる。そのための悠紀国・主基国の卜定、さらには新しい斎宮の卜定と宮中は慌ただしかった。

 それをよそに、新院は弘徽殿の中で息をひそめておられる。お生まれになった後もしばらくは昼も格子を上げず燭台の灯の中で育てられた新院は、そのお育ちになった同じ弘徽殿の中に落ち着かれたのである。人生の出発点の弘徽殿に人生の終わりにあって戻られたというには、新院はまだお若くあらせられる。

 聞けば太上天皇の称号をも辞して、ただの親王に戻りたいとさえ表明されているという。これは決して大臣が就任時に出す辞表のような形式上のものではないと源氏は思う。もちろん先例もないそのようなことが許されるはずもない。臣下ではあっても一人の兄として、哀れだと源氏は新院のことを思った。

 だが今の自分は、新院が所望された前斎宮の姫を新帝のもとに入内させようとしている。

 我ながらひどいやつだ……これでは九条大納言を責められるはずはないと源氏は自分でも思うが、これが政治の世界だと彼は割り切って考えた。


 そんな源氏はあまりの多忙のため、自邸の二条邸にいる時間はめっきり少なくなっていた。ましてや大井の山荘へなど、どのようにその時間を捻出すべきかが悩みの種にさえなる。文だけは一応頻繁に送ってはいるが、たまの假の日は西ノ対の上のためにも使わねばならない。

 聞くと西ノ対の上は時折東ノ対に渡り、前斎宮ともだいぶ打ち解けているという。自分にはそっけなくても、妻と打ち解けてくれればそれでよしだ。

「前斎宮様は、私にいろいろなことをお話してくださいますのよ」

 西ノ対に渡ると、妻は開けっぴろげに源氏に東ノ対の姫の話をしてくれる。だから自分は直接に接していなくても、妻の口を通して源氏は姫の様子をよく把握できた。

「叔父上様には、感謝していますですって」

「叔父上様か。確かにそうだけど、じゃあ君のことは叔母上様って呼んでるのかい?」

「嫌ですわ。お姉さまですよ」

「ずるいな、こりゃ。そうそう、姉といえば、君の本当の妹君がいよいよご出産だよ」

「妹……」

 ふと妻は、目を伏せた。

「不思議なものですね。殿の姪御というだけで私とは血縁のない東の姫様とあんな親しくなれたのに、本当の妹とは二、三回顔を合わせただけ。言葉を交わしたこともないなんて」

「でも、君と東ノ対の姫とは、血縁がないわけではないよ。君の父上と姫の母上は従兄妹いとこだからね」

 やっと妻は目を上げ、源氏を見た。


 梅雨も終わって夏の盛りに、出産よりも先に九条大納言の娘は女御に冊立された。

 これで藤中納言の娘の更衣とは俄然差をつけたのである。そして、いよいよ九条大納言の娘の女御は臨月を迎え、里の九条邸に下がってきた。

 だが、九条大納言は賭けに負けた。

 女御が出産したのは男皇子おのこみこで、帝の第一皇子として紛れもなく東宮の地位を持って生まれてきたような皇子であった。だが、その日のうちに皇子は幽冥の世界に引き返してしまったのである。

 九条大納言は喜びの絶頂から、奈落の底へ突き落とされた。新生皇子薨去の知らせを聞くと、大納言は馬で屋敷を飛び出して大声で泣き叫びながら、たったひとりで大路を走りまわったという。

 だが、娘が女御であることは今後も変わりないし、またご懐妊の機会はある。

 報に接した源氏もそのような慰めの言葉を大納言のために用意したが、結局は社交辞令にすぎないと思い直し、ついには大納言へは何も言って送らなかった。


 それでも、青年天皇のご即位によって、世の中……いや、宮中は少しずつ変わりつつあった。

 まず関白太政大臣が、再三にわたって関白を辞した。かつて今の院が成人に達した折に摂政は辞したが、代わりに関白となった。今や自分を関白にしたかたも位を降りられたので、あらためての辞表であろう。

 だが、今回もそれは許されなかった。結局、太政大臣は新帝の御代でも関白を続けることになったのである。

 そうしているうちに、ついに院は宮中を出られた。行き先は、かねてから予定されていた朱雀院であった。

 しかも、母の弘徽殿大后も一緒であった。弘徽殿大后にとっても今度は、単なる里下がりではなく、正式な宮中との決別である。

 新帝とて弘徽殿大后にとってはその腹の子なのであるから代が変わっても国母であることは変わりないのだが、今や大后は全くの寝たきり状態になっていた。

 その体では宮中からすぐに朱雀院への移動は無理であったので、まずは大内裏内の主殿寮に遷り、翌日院とともに朱雀院へと入った。

 朱雀院は朱雀大路の西にあり、神泉苑と同じ八町という広大な敷地で、北は三条から南は四条に達し、樹木生い茂る森の中にいくつもの殿舎が建てられていた。その多くが院の遷御に伴って改修され、木の素材も目新しかった。

 院は自分の女御たちとともに本殿に入り、大后は北東部分の、漢の武帝の栢梁台になぞらえた栢梁殿の西ノ対に入ったということであった。これから後、人びとは院のことを「朱雀の院」とお呼び申し上げるようになる。

 宮中の裏の部分で陰の実力者として君臨していた「女帝」――弘徽殿大后は、こうして政治の世界から一応は退いたのである。

 無論、その重圧の下であえいでいた源氏にとっては、歓迎すべきことであった。そしてその思いが源氏だけのものでないことは、数年前の桂の宴ですでに証明されていた。

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