10

 都の東町のあたりで、やたら失火が多くなった。とにかく世の中が混乱している。何が起こってもおかしくない。

 内裏の中でも修法が行われ、臨時仁王会も行われた。現界的な対策としても山崎、川尻、備後等に警固使が派遣され、主に西からの道を固めた。山陽道追捕使から、前伊予掾が海路を都へ向かっている噂があるという解文げぶみが報じられたからだ。

 西からの恐威に人々がおののいていた頃である。源氏が参内すると空気がいつもと違っていた。宜陽殿の東側の入り口で、出てきた伴宰相と鉢合わせになった。

「源宰相殿!」

 伴宰相は、源氏の束帯の袖をつかまんばかりに興奮していた。

「豊田小次郎が、討たれましたぞ!」

「え?」

 しばらくは言葉がなかった。

「凶賊が殺されたのですよ!」

「あ、あの宰相修理大夫殿に?」

 あの老人に、これだけ天下をゆるがせた坂東の軍勢を討つだけの兵力がついたのか。それにしても早すぎる。進発してから半月しかたっていない。

「いつです?」

「十三日」

「え?」

 それなら修理大夫進発の、五日後ではないか。いくらなんでも、都から坂東まで五日で行けるものだろうか……。

「違う、違う! 修理大夫殿ではござらぬ。下野の押領使俵藤太と、常陸掾ひたちのじょうの連合軍が討ちとったとのことでござる」

「十三日か…」

 そうすると、あの十四宮元服の宴の時には小次郎はもはやこの世にいなかったのだ。

「そうか…」

 中へ入ると、権中納言左金吾がいた。

「おい、聞いたか」

「ああ」

 源氏は席についた。無表情だった。

「どうした、うかない顔して」

「いや、何だか気が抜けてね。実感がわかないというか」

「祈りの力だよ。これだけ奉幣し、修法したのだものな。ものすごい力がかたまりとなって、東へ飛んでいったはずだ。この国には、帝は二人あってはならないんだ!」

 権中納言の言は、力がこもっていた。源氏はまだうつむいていた。

「何となく悼む気持ちがわいてね」

「何を言ってるのかね」

 一度権中納言は声をあげて笑ったが、すぐに真顔になった。

「討った常陸掾というのは、小次郎の従兄弟いとこだと知っていたか?」

「いや」

 権中納言はひとつ、ため息をついた。

「血を分けた従兄弟がこのように争う世だ。でも私と君は血のつながりはなくても、そんな従兄弟以上に心はつながっていると思うよ」

「もちろんだ」

 やっと源氏は顔を上げ、その頬に笑みがさした。

「須磨での隠遁生活の時、都からはるばる訪ねてきてくれたのは君だけだったものな」

「しかし人間のこれからは分からない。分からないけれど、私と君は相争うようなことだけはないようにしたいものだな」

「もちろんだとも。何を今さら言いだすんだ。おかしいんじゃないのか?」

「いや、確認しておきたいんだよ。これから互いに年をとり、地位も上がると社会の縄に縛られてがんじがらめになるからね、だから今のうちにね。まさか甲冑を着て弓失で争うことはないだろうけれど、この宮中の中で冷たい争いはしたくない」

「分かった分かった。そんなばかげた話、よそう。あ、そんなことを言いだすということは、何かたくらんでるんじゃないのか」

 権中納言の顔に、含み笑いがあった。

「確かにたくらんでいる。今に分かるよ」

「何をたくらんでるんだ、全く」

 あきれたような源氏の口調に、権中納言はにやにやしたまま何も答えずに、

「再来月になるけれどね、私の太郎君と四の君の加冠と裳着は、よろしく頼むよ」

 と、だけ言った。なんだ、たくらみって裳着の後の四の君のことか……と源氏は思った。もうそれなら全部分かっていると言いたかったが、源氏はあえて言わなかった。


 宮中も東の兵乱が終焉して残るは西だけとなり、恐威も半分になった。それでも公卿たちはまだまだ枕を高くして眠れない。

 とりわけ源氏にとって、明石の姫君の安否が気にかかっていた。何としてでも捜し出さねば……。ところが家司の誰を捜索に派遣しようとしても、誰もが海賊を恐れて出向しようとはしなかった。これでは手の打ちようがない。

 源氏は焦り、いらだつばかりだった。一度は明石入道が自ら捜しに行くと言いだしたが、危険であることを源氏はこんこんと説いた。その代わりに政所年預の二十二歳の若者が、姫捜しに派遣された。源氏はこれに二十数人の郎党をつけてやった。

 やがて都においては、さらに火災が頻発するようになった。毎晩必ずどこかで火の手が上がる。火雷天神の托宣を奉じた新皇を討ったのでその祟りであるとか、あるいは西の海賊前伊予掾の手の者が都に入りこみ都に火をつけてまわっているのだとかいろいろな憶測による流言が人々の口にのぼった。

 世の混乱に乗じての野盗の活発化ということも、もちろん可能性としてはある。

 しかも異変は人災ばかりではなく、さほど大きくはなかったが月に二度も地震があった。大后もまた病がぶり返していた。

 東の国からは、小次郎討死の知らせが相継いで入った。さらにはその共謀者の武蔵権守も討たれたようだ。

 源氏の公務も一向に暇にはならない。連日の除目の議である。今回は小次郎によって追放された坂東諸国の国司を、一斉に刷新しなければならないので多忙をきわめた。賊に印鑑を奪われた者を、国司に再任することなどできない。また功労者への論賞も議する必要があった。


 桜の花もすっかり散って、いよいよ除目が発表になった。源氏は参議に加えもとの大蔵卿に復任した。そればかりではなく、備前権守も兼ねることになった。これは源氏から願い出たのである。もちろん遙任で任国へ行くわけではないが、山陽道の備前国に足がかりを作っておけば、明石の姫君の捜索にも利ありと考えたからだ。

 やがて政所年預の若者が戻って来た。まずは明石の邸宅跡へ行ってみたが一網打尽に破壊されて、今は一宇の堂もないという。その近辺には姫はおろか、郎党の姿さえもなかったということだ。

「姫……、どこでどうしているんだ。生きているのか、どうなんだ…」

 源氏にとって春の朦にかすむ月を眺めては、ため息をつく夜が続いていた。


 大蔵卿、ならびに備前権守就任の慶申よろこびもうしに、源氏は摂政太政大臣の小一条邸を訪ねた。身内とあって気さくに接してくれる摂政は、かなり頬もこけてめっきり衰えているようであった。

「まろにはもう、摂政の任は重すぎるよ」

 しきりにそうつぶやいていたその摂政太政大臣の言葉を、帝の御前に伺候する機会のあった源氏は世間話のついでにふと帝のお耳に入れてしまった。

 また帝は両目をおさえられた。

「摂政の気持ちはよく分かるよ。わたしとて…」

「そんな……」

 帝ももう今や、立派な成人であった。しかし御幼少の頃のお育ちのせいか、病的に色白い細身の玉体でいらっしゃった。

「臣下はいい。辞めたければ辞められる。わたしとてもうたくさんだよ。東西の兵乱、天災に火災、すべてが何もかも天子の不徳によるもの」

「そのようなお気の弱いことでは…」

 帝はやっと目を上げ、源氏の姿をご覧になった。その御目はうるんでいた。

「せめてわたしに男皇子があれば、すぐにでも位を譲りたいのだが、それもかなわぬ」

「何を仰せられます。帝はこれからがお働き時ではございませんか」

「何もかも疲れたよ」

 もはやこれ以上、源氏は帝に何も申し上げることはできなかった。退出するため綾綺殿の南廂を歩いていると、ふと覚えのある香りが漂ってきた。

 源氏は足をとめた。少し御簾の中をうかがったが、すぐに歩きだした。御簾の中にいたはずの人、小野宮中君――尚侍かんの君とはもう、すでに緑のない存在に自分はなっていたはずだったから……。

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