源氏にとっては帰京以来の、そして官人としては久方ぶりの都での正月だ。

 だが今年は全くパッとしない。朝賀に続く昼過ぎからの紫宸殿での元日節会も行われたことは行われたが、一切の歌舞楽曲はなかった。帝のお出ましすらなく、代わりに元旦早々に追捕使の派遣が発表された。

「何とも無風流な正月だな」

 源氏の耳元で権中納言左金吾がささやいたが、源氏は仕方がないと割りきっていた。すべてが東西の兵乱のせいなのだ。

 それから始まった新しい年は、一連の正月の行事よりも各寺院での修法や社頭への奉幣に明け暮れた。宮中でも話題はそればかりで、七壇修法を皮切りに伊勢神宮をはじめとする京幾七道の諸社での祭文奏上、仁王経の読経などがしきりに行われた。また、各国諸社の祭神の位階をひとつずつ上げることなどもあった。

 兵という目に見える形での警備ももちろんだが、目に見えない世界での防衛も彼らは怠らなかったのである。

 かつて若い頃に源氏は、三条の尼宮から目に見えない世界の力が宮廷を動かしていると言われたが、ようやくこの頃になってそれが実感できはじめた。祈りの力は念の力となる。それが大波調の響きとなった時、いかに兵力にすぐれている相手でも必ずや調伏できるであろうことを、まさしく彼は体験しつつあった。

 行事として白馬節会あおうまのせちえ、踏歌節会、射礼などは通常通りだったがいずれも歌舞はなく、五衛府の次官は皆、弓箭を帯しての参列だった。また射礼の翌日の賭弓は中止された。

 その間、源氏の伯父の右衛門権佐はいつまでたっても東国に向かわないことを理由に推問使を解任された。そればかりではなく、右衛門権佐の官も解かれてしまった。これは手痛い懲罰だった。

 そしてその後釜は、かねてから源氏が推挙していた摂津守がなった。皮肉ななり行きである。

 さらに東国より逃げ帰って最初に小次郎の反乱を報告したが、誤報をもたらしたとして謹慎させられていた武蔵介六孫王が、許されて従五位下に叙せられた。その日のうちにである。彼は一転していち早く事態の急を報告した功労者になってしまった。彼は故一院の法皇の従兄であった故水尾みずのおの帝の皇子の桃園親王の子、つまり皇孫の王であった。

 そして、東海東山道には賊を捕えた者を五位に叙すという官符さえ出された。五位に叙されるということは、庶民家族が一気に貴族の仲間入りをすることになる。それを太っ腹と言っていられるような時勢ではなかった。

 そしてとうとう、征東大将軍が任ぜられるに至った。それが何と新任参議の、六十八歳の老齢のあの修理大夫だったのである。

「あの爺さん、貧乏くじだよなあ」

 と、権中納言などは言っていたし、源氏も苦笑した。確かにそのような大任に堪えられるような人とは思えない。

 だが朝廷としては、この際誰でもよかった。適任者がいないというのも事実だったが、とにかくことを急いでいた。

 ついに東国の兵が駿河へ乱入したという噂も伝わってきた。


 源氏は自邸にすらろくに戻れない状況になっていた。西ノ対の姫のことも気になる。しかし、それ以上に行方不明の明石の姫のことも気が気でならないが、今はどうすることもできない。まるで長い嵐のようだ。それが静まるまでは、手も足も出ないという状況だった。

 兵乱の噂は内裏を出て、民衆へも飛び火した。人々は今日にでも東西両方から兵が京中へ乱入すると怯え、巷も大騒ぎとなった。中には荷をまとめて京から逃げ出す者もいるほどで、逆に都へ行けば何とかなると都へ逃げこんで来る人々と、ところどころでぶつかり合っていた。

 それに乗じての盗賊、放火も横行したが、朝廷はそれをどうすることもできない。

 ところが月も末頃になって、ついに小次郎が現れた。

 と、いっても比叡山の楞厳院りょうごんいんでの大威徳之法を修している時に、火を灯す皿の中に現れたというのだ。その姿は弓箭を帯びて甲冑を着していた。そしてたちまち鏑矢の音がうなって、修法の檀から現れた矢が東に向かって飛び去ったという。それを目撃した定額僧じょうがくそうの報告が宮中に来ると、公卿たちは小次郎降伏の吉兆だと口々に言っては喜びあった。いや、むしろ彼らとしてはそう思いたかったのだろう。

 その後しばらくは、東西の目立った動きは報告されてこなくなった。


 そのころ、ある案件が左大臣より出された。前伊予掾を五位に叙そうというのである。

 反乱軍の大将への除位といえば奇妙奇天烈以外の何ものでもなかったが、彼らとしてはそれで前伊予掾を懐柔して都へ召還しようと思ってのことだった。

 月が変わり、いよいよ征東大将軍の発向となった。紫宸殿で帝より節刀を賜り、東国へ向けての発遺となる。都じゅうの人々が歓声をもって、東国の偽帝に対する京の帝の正規軍を見送ろうとした。

 ところが、人々の間を通過したのは軍などではなかった。数十名の郎党に護られた一人の老人だった。都人たちは征東大将軍ということで、かつての坂上田村麻呂のような大軍勢を引き連れた威風堂々とした大将を連想していたのだろう。それがもろくも崩れ去った。彼らの目の前を過ぎていったのは、今にも馬から落ちそうな老人だ。

 たちまち歓声は罵声と嘲笑に変わった。それは自分たちの運命と、時代に対する諦観の罵声だったかもしれない。

 それでも人のよさそうな老人は、静々と馬を進めて行く。軍勢を途中の国々で調達しながらの行軍なのだ。だからこの老人は一軍の将というより、参議という権力を身につけての軍勢の調達係というのが実情であった。

 律令国家が軍備として各国に配備した軍団は早くに廃されていたし、その代わりとして郡司の子弟などによる軍備として設置された健児こんでいももう見る影もない。すなわちこのことは、今や律令制はほとんど崩壊していることを物語るとともに、日本という国は国家としては完全非武装の国だったということになる。ゆえに平安時代なのだ。


 征東大将軍も送り出し、やれやれという感じの宮中では、別のことで慌ただしくなった。

 源氏の異母弟でもある故院の十四宮の加冠の儀が、綾綺殿の東廂で執り行われたのである。摂政太政大臣が加冠役で、当日は体調がすぐれないようであったが休むわけにもいかず、あえてその役を務めた。

 今上帝の弟君である十四宮は十五歳で、加冠と同時に三品に叙せられた。

 直会なおらいの宴では例によって、源氏のそばには権中納言がいた。この日、久方振りに宴にあっては歌舞が催された。長い嵐もようやく静まりかけたのかと、人々の間に安堵の表情が見えた。

「摂政殿下が親王元服で加冠の役をされるのも、久しぶりだよな」

 だいぶ酔いがまわっていた源氏は、すわった目で権中納言に話しかけた。

「しかしね、ただの親王ではいらっしゃらない。ただ帝の御弟君というだけのことじゃあないんだよ」

 そう言う権中納言の舌も、だいぶもつれている。何しろ心から落ちついて酒を飲むのは、公卿たちにとって本当に久しぶりなのだ。やっと忙殺から少しだけ解放されたといっていい。それほどまでに彼らは、征東大将軍の――その人物ではなく――官名の威力を信じきっている。

「十四宮は帝の、唯一の同母弟だからな」

 源氏にとっても異母弟である十四宮のことは、言われなくても十分に存じ上げていた。

 たしかに帝にとっては同母弟だ。つまり、弘徽殿大后腹の最後の皇子である。大后が生んだ皇子は源氏の亡くなった長兄で、あの六条御息所の夫君であった前皇太子、今の帝、そしてこの十四宮の三人であった。

「ところで加冠といえば、来月のわが太郎君の加冠と四の君の裳着だけど」

「あれ? 私が須磨に行く前から、もうすぐ太郎君の加冠だって言っていなかったっけ?」

「事情があってね」

「その前もそんなこと言って延びたんじゃなかったかい?」

 権中納言はそれには笑ってごまかした。

「で、君も来てくれるかい?」

「ああ、もちろんさ。私も九条家の一員だし、妻の弟姉の元服なのだからな。しかし四の君の裳着ということは、もう相手が…?」

 権中納言は含み笑いをしただけだった。

「帝には今、東宮がおられないよなあ。女御もおられず、はべる方といえば兄小野宮の中君の尚侍ないしのかみだけだしな」

 源氏にとってはどきっとする名前が出た。権中納言はあの事件を知らないようだからさりげなくさらっとその名を口にしたが、彼女は今でも無事に内侍であるようだ。よかった……と源氏は思った。そんな源氏の内心も知らずに、権中納言は話を続ける。

「もっとも兄はその三の君の帝への入内を急いでいるようだけど、とにかく今の帝には男皇子はおられない」

 口元に笑みを浮かべて話す権中納言の言に、源氏はようやくこの十四宮の加冠の意味ありげな妙な盛大さに気づいた。そう、繰り返すが十四宮の母は弘徽殿大后なのだ。自分の娘の四の君の相手について権中納言は笑ってごまかしたが、もう源氏には彼が考えていることはすべて分かった。


 夜もすっかり更けていた。その時、源氏の耳元でささやく蔵人がいた。弘徽殿大后が親王方に酒肴を賜るゆえ、諸親王方は大后の御殿の麗景殿へ参集せよとの命だという。源氏も親王ではないが、皇親一世源氏としてそれに参ずる資格はある。気は進まなかったが席を立った。

 弘徽殿大后は長く病で里に下がっていたが、最近ようやく宮中に戻って来ていた。

 麗景殿の西廂の北ではすでに主役の十四宮が席についており、さらには諸親王も列をなして座っていた。摂政太政大臣は南側だ。源氏は西面の孫廂の座についた。酒肴の指図をしているのは、故本院大臣の三男の宰相中将だった。やはり本院家の血筋ということで大后に目をかけられていることを、その姿を見て源氏はさらに実感した。

 この殿舎の中に弘徽殿大后がいる。今まで病床にあるということであまり気にもとめていなかったが、病とはいえその存在はなくなってはいないのだと、源氏は帰京してから初めて薄気味悪い思いを持った。

 ひとしきり酒宴が続いた。源氏にとってはやはり権中納言がそばにいないとつまらない。しかたなく隣席の異母兄や異母弟と話しているうち、南側の方がやけに騒がしくなった。

 見ると摂政太政大臣が高欄から身を乗り出して、満月に照らされた庭に向かって嘔吐していた。飲みすぎたのだろうか、摂政はすぐに退出した。

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