年末のある日、雪が降った。

 その日、源氏は西ノ対に渡っていたが、夜も更けてから妙に外が明るいような気がして一枚だけ格子を上げさせてみた。

「見てごらん。雪が積もっているようだよ」

 端近まで行って源氏が御簾を上げると、そばに妻が寄ってきた。

「寒いと思ったら」

「でも、もう空は晴れてる」

 昇ったばかりの少し欠けた月が、左の方から庭全体を白く輝かせ、それでかろうじて雪景色を見ることができた。

「わあ、池も島も見える。まるで昼みたい」

「きれいだなあ。でも……」

 源氏は妻の横顔を見た。

「君には負けるよ」

「またあ」

 妻は笑って軽く源氏の直衣の袖をはたいたが、事実雪明かりに照らされた妻の横顔は、白く咲く大輪の朝顔であった。

「みんな春がいい、秋がいいっていろいろ言うけれど、こうして見ていると冬の夜の澄んだ月の光と、それを受けて輝く雪の光が空に溶け合っているような景色こそが、いちばんなんじゃないかな」

「じゃあ、殿は冬がお好き?」

「今はね」

 源氏は一心に、単色に光る庭を見つめていた。

「今はってことは、殿のお心は夏なんだ。だって春や秋が好きな人はいつでもそうだけど、夏には冬を、冬には夏を人は恋うるものでしょう」

「今は冬なんだよ」

「でも、殿は夏」

 源氏は妻を見て少し笑った。

「おかしなことを言うなあ」

 妻も同時にクスッと笑った。源氏はまた庭を見た。

「雪はいいな。世の中の醜いものすべてを、清らかな白で覆い隠してくれる。いながらにして、浄土に遊んでいるような気分になるね。それなのに、雪が積もると顔をしかめる人もいる」

「殿方には車を動かせなくなるから、参内にはご不便でしょう」

「それはそうだけど、それを考える前のほんの一時の喜びが大事なんだよ。雪を生活に不便なものとして顔をしかめるようになったら、もう人生は終わりに近ついたといっていいね。その人はそれだけですでに老人だ」

「よかった。私、まだ雪が積もったらうれしいですもの」

 源氏はまた微笑んで妻を見た。その髪の毛の一本一本までもが、月の光に輝いていた。

「寒い」

 と、ぽつんと妻はつぶやいた。だからといって源氏は何もしてあげられない。それが歯痒い。ただできるのは、その体をきつく抱きしめてやることだけであった。

「寒いか。じゃあ、格子を降ろそう」

 妻はうなずいた。

「風邪をひくといけない」

 格子を降ろし、身舎の中の燭台だけに照らされた几帳の中に入った。室内には女房たちもおらす、ただ二人だけであった。

 あらためて源氏は、妻の胸に顔をうすめた。

「どうしたんです? 子供が甘えるみたいに」

 妻が笑ったので、源氏も微笑みを返して頬を合わせた。

 いとおしい。

 しかしそれは他者として妻を愛しているのではなく、あくまで自分の一部として妻をいとしんでいた。妻がそこにいるからといって、もはや恋愛の対象者のように胸がときめいたりはしない。でも……いないと生きていけない存在になっている……そんな忘れかけていたことを不意に思い出したように、源氏は再認識した。


 一度は晴れた空だが、夜半すぎからまた雪が降り始めたらしい。朝起きると、より一層の積雪になっていた。池にも氷が張り、庭の前栽もそこの所だけ雪が盛り上がって、自分の存在を自己主張していた。

 源氏が起きて自ら格子を押しあげ、その光景を見たとき、妻はまだ眠っていた。その後暖を求めて几帳の中に戻り、少しまどろむといつの間にか妻は起きていた。

「ねえ、見て。すごい!」

 端近まで出て格子を上げ、妻ははしゃいでいる。

 過去の不幸はともかく、今の時点では幸せな人なんだなと源氏は妻のことを思った。はじめて北山の春に出会ってから、もう十七、八年の歳月が流れた。その長い年月をともにするうちに妻はもうすっかり自分の一部になったが、この時源氏は輝く彼女の笑顔を見てそこにふと出会った時の八歳の少女の面影を見た。

 すべての格子を上げさせると寒気が一気に乱入してきたが、雪を見ていると心だけは温かくなる。

「参内の前に、雪かきをさせねばな」

 源氏はそのことを家司に伝えるよう、女房たちに言いつけた。

「そうだ。童女わらわべたちを庭に出してやれ」

 ついでに源氏が言うと、それを伝え聞いた後で源氏と出会った頃の妻のような童女たちが、歓声とともに一斉に庭へと繰り出した。源氏は妻とともに端近の御簾の中から、それを見ていた。

 ある少女は雪まろぼし(雪だるま作り)を始めている。皆、あこめを乱れ着にし、起きたままの姿ではしゃぎまわっていた。髪も少し長くなりかけて、それが白い雪の上で無数に揺れているのが、まるで動く絵を見ているようであった。

「あ、あの子、扇を落とした」

 子供たちと同じ心で妻が叫ぶ。源氏も笑う。

「あんまり雪の玉を大きくしたから、あの子はもう転がせないでいるじゃないか」

 二人とも大笑いだ。

「そういえば、犬君いぬきは今、どうしてるんだろうか」

「犬君……懐かしい。元気かしら。今ごろは陸奥でしょうね」

「陸奥介の妻になったのだから、陸奥に行っただろうな。陸奥といえは、その守の北の方は左大臣殿の太郎君の乳母だった人でね」

「太郎君って、この間亡くなった左少将様……」

「そう。それで、陸奥に行ってしまったものだから左少将が亡くなったのも知らずに、つい先日左少将あてに陸奥から馬を献上してきたというんだ。左府殿はそれで、余計に悲しみが慕ったということらしいよ」

「そうでしょうね。かわいそうな人ばかり」

 妻の「かわいそう」のひと言に、源氏はもう一人いる「かわいそう」な人のことを思い出していた。

 嵯峨の山荘の、明石の姫である。まだ明石の姫は、都に入ることをまだ承知しない。だが、妻のそばでその人のことを想うばつの悪さに、源氏はわざと話題を変えた。

「宮中でも、雪の山を作らせているだろうな」

「そうそう。早く仕度をなさって、参内しなさいまし。今の帝は、遅刻にはおうるさいんでしょう」

「そうなんだよな」

 源氏は苦笑して女房たちを呼び、朝の仕度に取り掛かった。外は雪が積もっていようと、源氏にとってはまたいつもの日常が始まるだけの朝となった。


 妻が今の自分を夏だと言ったのが、どういう意味なのか源氏は分からずにいた。

 だが、年が明け、実際の季節は春になり、いつぞやのように再び夜空に帚星ほうきぼしが夜な夜な尾を引いて出現して人々を気味悪がらせるようになった頃に除目があった。

 源氏は権中納言から正規の中納言になった。さらに検非違使別当を兼ねることになり、兼職の右衛門督も左衛門督にと転じた。右より左の方が格が上だから、これは昇進である。

 朋友の九条右大臣にとっても喜ばしいことがあった。昨年亡くなった左大臣の娘の弘徽殿女御とは裏腹に、右大臣の娘である藤壷女御には年給が給せられることになった。

 これは除目の折に所定の人員を推薦する権利が与えられたということで、その推薦された人からは任科を取ってそれを収入にすることができる。

 それは賄賂ではなく、おおやけの法で認められたことであった。ところが本来この年給は三后(太皇太后、皇太后、中宮)にしか与えられないもので、それが女御でありながら与えられたというのは破格の待遇である。

 つまり、女御でありながら実質上は中宮並みの扱いになるわけで、現在懐妊中だということもあろうが、帝一人の叡慮ではなく長男よりも次男をひいきにする関白太政大臣の働きかけがあったことは十分すぎるほど推測できる。しかしいかにその働きかけがあったとて、大后が後宮の中枢にいた頃なら、実現は到底無理であったはずである。

 わざわざ二条邸まで押しかけてきて喜びまくっている朋友の姿を見て、こういう意味で自分たちは夏なのかなと源氏は思っていた。

 だが、もう一つ心に引っ掛かることが源氏にはあった。それは息子のことである。今は人生の夏の盛りである自分だが、かつては右大臣が頭中将だった頃にともに春を満喫していた。その頃の自分と同じ季節――人生の春を息子は迎えようとしている。まだ童殿上の息子だが、そろそろ加冠も考えねばと、源氏は思いはじめていた。


(つづく)

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