第6章 少女

 春も深まり、やがて更衣ころもがえの季節ともなれば、世の中全体が華やいでくる。

 だが、源氏は春が終わるまでにはと、息子の加冠を急いでいた。源氏は二条邸でと考えていたが、関白太政大臣より関白の小一条邸でと申し出があった。これには、従わないわけにはいかない。同じ邸内に居住する小一条宰相あたりからまたもや嫉妬を受けるのではないかと源氏は思ったが、取りあえず受けることにした。

 今や宮中で、関白太政大臣の姿を見かけることはほとんどなかった。源氏が久々にその姿を拝した時は、これでも現職の関白なのかと思ってしまったほどやせ細った老人がそこにいた。これでもかつては、肉付きがいい方だった人である。

 関白にとっても源氏の息子は自らの曾孫に当たり、孫娘の忘れ形見である。その日、小一条邸には九条右大臣やその子息たちも参上した。だが、源氏の息子の外祖父である小野宮左大臣は使者を立てただけで、姿を見せなかった。彼はその長男を亡くしたばかりである。ひとの長男の加冠の式に参列する気にはなれないのであろうと、人々は囁きあった。だが、その喪はとうにあけているはずである。

 こうして外祖父不在で始まった加冠の儀であったが、そこに現れた太郎君たろうぎみはなんとはなだ(薄青色)のほうを着ていた。これは以前は八位だったがこの頃では六位の位袍となっており、いずれにせよ地下じげの着る袍である。つまり、貴族ではなく、ただの宮廷官人ということになってしまう。

 これには人々は驚いた。源氏は従三位なのだから、りょうの規定によるとその子息は蔭位おんいでたしかに六位だ。だが、太郎君は二世源氏で生まれながらの臣下ではあるが、皇孫であることには違いない。皇孫の初叙位は四位も可能なはずである。もっとも先例はないが、中納言としての父源氏の力、そして太政大臣や右大臣の後押しがあれば、大后が政界からほぼ引退した今は不可能ではないはずであった。

 だが、源氏の方でそれを断った。

 実はそのことについて、儀が始まる前に関白は源氏を呼んでもう一度念を押していた。本当にそれでいいのか、と。

 源氏は丁重な態度で心遣いに礼を言って頭を下げた後、顔を上げた。

「源家と申しますものは、これまで代々の帝の源家を見ましても、皇親一世はいざ知らず、末になるほどに身分は低くなっていっております」

「うむ」

 関白はうなった。たしかにあの河原左大臣の族とて、その末は今では日の目を見ない。源氏の母の実家もそうだ。母の兄は河原左大臣の弟の四条大納言を祖に持ちながら、今でも老齢で右衛門権佐えもんごんのすけである。

「ですから私は、息子には自力で這い上がってもらいたいのです。蔭位を受けて努力もせずに位が上がりますれば、ひとたび落ち目になりますと悲惨な結果になります。私自身がいい例です。私は父院の力で官人として出発しまして、そのため今でも苦労することがございます。息子には今のうちに、その苦労を先にさせておきたいのです」

「しかしのう、自力でと言われてものう」

「要は学才だと心得ております。そこで息子は、大学寮に入れとうございます」

「ほう、大学」

「そこでどんな逆境になってもくじけない、学問という魂を身につけさせとう存じます」

 関白太政大臣はしきりにうなずいていた。親心は分かってもらえたようだ。だが源氏は親心に留まらず、子孫のことまでをも考慮に入れて言っている。源家は、才なくても子々孫々まで蔭位を受けられる関白の一族とは違う。しかしそれを言えば皮肉になるので、源氏は言わなかった。

「たしかに言われることはもっともだが、右大将(九条右大臣)もどうしても理解できぬと申しておりましたぞ。その右大将の子たちに後れを取ったとなっては、御前おんまえの太郎君ご自身が悔しい思いをされませんかな」

 源氏は思わず、声を上げて笑ってしまった。

「あ。これは、ご無礼致しました。息子が一人前にそんな心を持つかどうか分かりませんが、いずれ学問で身を立てればそのような気持ちは自然になくなりましょう」

「うむ」

 もう一度、関白はうなずいていた。

 その太郎君は六位の袍で、理髪も終わって冠を受けた。その年十四、早すぎはしないが、それでも世間一般の元服よりは若干早いかもしれなかった。続いていみなが与えられた。これもかねてからの関白からの申し出で、その関白の諱の一字をもらうことになっていた。

 本来ならそのまま、添伏としての妻をめとることになるが、太郎君の場合は大学へ入学ということで見送られた。それもまたそれでいいと父は思っていた。息子にとってだけでなく、その相手になるかもしれなかった姫君にとってもである。添伏の妻は生涯その夫に愛されることはないというのが、真実の法則だからである。

 加冠の儀も終わり、源氏は二条邸に大学の博士などを招いて太郎君に諱とは別のあざなをつける儀式を催した。

 そこには九条右大臣右大将、そして同じ中納言仲間の民部卿中納言、按察使あぜち中納言も同席していた。民部卿中納言はかつては兼職がなかったので藤中納言と呼ばれていたが、今ではあの亡くなった宇治の修理大夫の後任の民部卿になっていた。

 この儀式の席では偉ぶっている博士の態度が人々の失笑を買ったりしたが、無事にあざなをもらった太郎君にはそのまま二条邸の寝殿が明け渡された。東西の対の屋は埋まっている。まさか息子を北ノ対に住まわせるわけにもいくまい。

 そこで源氏は寝殿を明け渡し、自分は妻とともに西ノ対に住むことにした。屋敷を伝える娘もいないことだし、将来的にはこの二条邸を息子に伝領してもいいと源氏は思っていた。だがそれには、自分が住む所がないと困る。取りあえずは西ノ対に住むことにはしたが、しかしいくら妻と一緒だからといって、息子が寝殿、その父が対の屋住まいでは世間の外聞も悪かろう。

 高松邸へ行けばそこの寝殿は源氏のものだが、明石の姫が大井からその邸へと移ってこない限り行く気もしないし、ましてや今の西ノ対の妻を高松邸に連れて行くわけにもいかない。だからといって、息子が寝殿にいる邸内の西ノ対に自分の妻を置いて、源氏が一人だけ高松邸に移るわけにもいかないであろう。

 ここで源氏には、どうしてももうひとつ屋敷を新築する必要が生じてきた。


 桜の莟も膨らみ始めた頃、息子の二条邸の寝殿での暮らしも落ち着いたのではないかと思い、源氏は寝殿へと行ってみた。

 もう外は暗いというのに、息子は灯火の下で書見をしていた。

「おお、精が出るな」

 源氏が渡ることは家司が伝えているはずだから、息子は本来なら端近まで出て、畏まって迎えるべきである。ところが息子は入ってきた父を少し見ただけで、表情も変えずにまた書物へと目を落とした。大学に入学するまでの師として源氏がつけておいた大内記は、すでに退出していた。

「何を読んでいるのかな」

「史記です」

 書物から目もそらさずに、ぶっきら棒に息子は答えた。いささか源氏は、業を煮やした。

「父が参ったのだから、少しは相手をしてくれてもいいではないか」

「余裕がありません」

 冷たい言葉を発しただけで、息子はやはり書物から目を離そうともしない。

 胸くそ悪くなって、源氏は西ノ対に戻った。

 翌日の夜も源氏は腹の虫が収まらずに、寝殿に行った。息子の態度は変わらなかった。親子の間に、沈黙が流れた。そのうち息子は書物に目を落としたまま、不意にため息混じりにつぶやいた。

「童殿上の頃はよかった。元服などするのではなかった」

「え?」

 源氏は、思わず身を乗り出した。

「毎日毎日この部屋に閉じ込められて、これではまるで女ではありませんか」

 子供だと思っていた息子が、一人前の口を聞く、

 そのことが不平という内容はさておいて、源氏には嬉しくもあった。

「いずれ大学に入れば、学友もできるよ。それまでの辛抱だ」

「父君は……」

 息子の声が低くなった。

「私が左大臣家の血を引くものだから、五位にさえせずに、六位にされたのですか」

 はじめて息子が源氏を見た。その見据える視線には、憎悪と敵意が込められているようで源氏は身を固くした。それはこの子の死んだ母親、そして生きてはいるが祖父である小野宮左大臣、さらには大叔父になる小一条宰相の視線でもあるかのような気がして、源氏は背筋が寒くなった。


 西ノ対に戻ってからも、源氏はすぐに寝る気にはなれなかった。そこで、妻の酌で土器かわらけを口に運んだ。

「父親って、何だろうな」

 ふと、源氏はつぶやいた。

「自分としては、十分に慈しんでやっているつもりなんだ。それなのに、あんな敵意に満ちた目を向けられる」

「若君は、まだお若いのですから」

 妻はそれしか言えないであろう。彼女は自分の妻ではあっても、息子の母ではない。

「もっとも、今まで父親らしいことは何もしてやれなかったのだから、大きなことは言えないけどな。でも、虚しいのだよ。這ったといって喜び、立ったといって喜び、歩いたといっては喜んだ息子が、一人前になった途端に自分にあのような目を向ける。私なんか、私の父には……」

 言いさして源氏は、ふと考えた。自分の父は帝であった。公の立場にある人だからあからさまな敵意を向けることはできなかったが、それでも不満はあった。なぜ自分を親王にせず臣下に降したのか……。

 だがいずれ、父の深い思いを知ることができた。今の息子に、自分の心を分かれといっても無理であろう。息子はまだ若すぎる。息子もいずれは、自分と同じ道を歩むのだ。そしてかつての自分と同じように、人生の春を謳歌していく……。

 源氏はそんな息子に声援を送りたかった。だが、後ろめたさもあった。

 ――私が左大臣家の血を引くものだから……?

 そのことは、完全には否めない。右大臣への遠慮もある。そのような打算で動いて息子の身まで決してしまう自分は、どうしようもない大人だなと源氏は感じた。かつてあの頃の自分がどうしても許せなかった大人が、今ここにいる……。

「どうなさいました?」

 妻に言われて我に返り、源氏は杯を差し出した。

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