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昨年に引き続き、同じ月の同じ日に、帝の朱雀院への行幸があった。それまでも朱雀院への行幸はあったが、管弦の遊びを伴うようになったのは昨年同月の行幸からである。
源氏が供に召されたのも一年ぶりだった。この日、親王や公卿は青色に
行幸には大学の
車駕は一路、朱雀大路を南下する。まさしく春爛漫の陽気で、朱雀院の邸内はあふれんばかりの満開の桜であった。天候不順であった昨年よりも、より一層見事に花は咲き誇っている。
帝の院への挨拶の儀が終わると、まずは池に舟を浮かべての宴となり、学生一人につき一艘があてがわれ、さらには
学生たちが苦作しているのと同時に、岸では「
「右大臣殿、そして源中納言殿」
舞いの途中で、院が上座から二人に声をかけられた。
「お二人の青海波が懐かしう思い出されますね。今一度お二人の舞を拝見したいものです」
「いや、それは」
右大臣は照れて苦笑した。
「お恥ずかしい次第です。あの頃は私も源中納言殿も、何も知らず何も恐れぬ若僧でしたからね」
「右府殿のおっしゃる通りです。もうあの青海波を舞った若者二人は、どこにもおりませぬ。似たような中年の翁なら、ここに二人おりますが……」
舞の途中であるにもかかわらず、院も右大臣も源氏も声を上げて笑った。
舞が終わり、酒肴が出て
「今日は兄君が来られて、嬉しく思いますよ。こんな隠居の身なのに、忘れずに訪ねてくださる」
院のお言葉に、源氏は少しだけ苦い笑みを浮かべていた。
「何もかもが移ろいゆく世の中でございますから、せめて変わらないものがなくてはと存じましてね」
そばには源氏と院のほかに帝と、そして源氏や院、帝の叔父である老齢の式部卿宮もいて口をはさんだ。
「この盛大な宴は、世の盛りを示すようなもの。まさしく故院の聖代が再現されましたようでございますな」
「いやいや」
その言葉に、帝がかぶりを振られた。
「父院の御代の足もとにも及びませんが、
そうこうして歓談しているうちに、いつしか日も傾いていた。
「さあ。楽人の出番だよ」
立ち上がった右大臣が、源氏の肩を叩いた。
式部卿宮、右大臣、源氏、そして源氏の異母弟の源治部卿宰相は、それぞれの楽器とともに楽所についた。そして少し演奏したところで、蔵人が駆けてきて右大臣に耳打ちした。
「帝のお召しでございます」
右大臣は席を立ち、帝のおわします
「おのおの方。移動致します。
確かにここからだと、
式部卿宮は和琴、右大臣は
また唱歌のもの数人も、高欄の下に控えていた。
合奏が再開された。まずは催馬楽の「
源氏はいつしか我を忘れて、自ら奏でる
曲が「桜人」になる頃には、すでに中天にあった上限の月が黄色い光を発し始め、庭の夕闇はますます色を濃くしていた。この時、池の中島に篝火が無数にたかれた。この曲を最後に、もはや演奏が可能である明るさは失われつつあった。
しばらくは酒宴が続いていたが、帰りがてらに帝はもう一度大后のいる柏梁殿を訪ねると言いだしあそばされた。素通りするわけにはいかないということだ。昨年と違って今年は南殿での宴で、大后はこちらには来ていなかったからである。
「仰々しくするのもどうかと思うので、兄君様だけ一緒にいらっしゃって頂けませんか」
帝に言われて、源氏は一瞬尻込みした。なぜ自分なのか、自分でなくても大后の甥である右大臣の方がいいのではないか……そう思ったが、帝の仰せには逆らえない。車が北東の柏梁殿に向かう間、源氏はひたすら緊張していた。
柏梁殿の寝殿の
普通なら母親が上座だが、子でもあくまで帝なので帝が上座である。本当なら源氏は大后と御簾越しでしか対面できない。しかしこの時は源氏は帝とともにおり、帝とその母の間に御簾というのもおかしいので、特別に直接の対面となった。
源氏は初めて大后の顔を見た。
これまでずっと自分に重圧をかけていた存在、そして自分も敵意を抱いていた存在が、何と今にも枯れそうな老婆であったことに源氏は胸を打たれた。今は何の重圧感もない。あれほどまでに意識していた存在であるにもかかわらず、源氏は大后の顔をこれまで知らなかったのだ。
「母を忘れずに、ようこそお越しくださいました」
まずは帝に向けられたその言葉は、源氏にとってはじめて耳にするものだが、涙にむせんでいるようでもあった。国母として、そして後宮の「影の女帝」として君臨していた大后も、老人になれば世間並みに涙もろくなっているようだ。いつしか源氏の中でも、過去のわだかまりがどこか遠い世界に飛んでいってしまったような気がした。
「位を受けてこのかた、心が休まる暇もございませんでしたが、今日の春の盛りの花を見て幾分安らぎました」
帝が頭を下げられるので、向かい合う母子の脇に横向きの位置に座っていた源氏も同じようにした。次は源氏が何か挨拶の言葉を申し上げなければならない。ところがそれより先に、大后の方から、
「源中納言殿」
と、声をかけてきた。
「さぞ私をお恨みでしょう。でも、あなた様がこうなるという宿世は、私とて変えられなかったようですね。あなたのお気持ちはよく分かりますが、しかし今はこのとおり老婆となった身、どうかこの
弱くなった、と源氏は思った。声ばかりではなく、あれほど絶大だった力も今はその片鱗も感じられない。
「何のお恨み申し上げましょう。わが
全く用意もしていなかった言葉が自分の口からすらすら出るのが、当の源氏にも不思議であった。
「なんと、なんと」
大后はまた泣いているようであった。今度の涙は帝ではなく、源氏に向けられたものだ。
和解できた――これが源氏の実感であった。元服以来ずっと自分を圧迫し続け、ひいては自分を須磨にまで流離させた存在と、十七、八年ぶりに和解できたのである。
帰りがてらに、帝は源氏に耳打ちされた。
「母君はあのように弱々しくなったように見えますけどもね、年爵のこととかまだいろいろ
だがそのような帝のお言葉も、大后との和解の嬉しさの前には源氏の心には入らなかった。
だが、一つの暗雲が晴れると、また別の暗雲がたちまち源氏の心を覆う。今日、大学生の中に入っていた息子が、自分と接しても視線すら合わせてくれなかったのである。
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