5
本格的な秋が訪れた頃に、斎宮女御は六条邸で
六条御息所にとっても初孫であったが、結局は育つことはなかった。源氏にはそのことも悔しくあった。ただ、もし男御子として育って親王宣下を受けたら、せっかく自分の姫の四ノ宮入内の話が持ち上がっているところに、将来において少将厄介なことになったかもしれない。その可能性が消えたことで、源氏は幾分悔しさを紛らわせていた。
ちょうど同じ頃、宰相中将の一条邸では別の産声が上がった。源氏の長男左兵衛佐の妻が、無事に男児を出産したのである。夕刻のことであったので自邸にいた源氏は、さっそく一条邸へと駆けつけた。ところが父親となった左兵衛佐は、まだ来ていなかった。左兵衛佐の二条邸は源氏の西宮邸よりも、はるかにここに近いはずである。
「お知らせはしたのですが」
白装束の女房たちも忙しいようで、それだけ源氏に言うとあたふたと自分の用事に走り回っていた。そして左兵衛佐が来たのはもうすっかり暗くなって、庭には篝火が焚かれる頃になってからであった。
「どうしたんだ」
源氏が声をかけると、左兵衛佐はただ恐縮していた。その日は、源氏はあえてそれ以上は言わなかった。
源氏が再び一条邸を訪れたのは孫の誕生から三日目で、この日は三夜の
すべての段取りは一条邸の宰相中将の方でするので、本来は源氏は行かなくてもいいくらいであったが、どうしても行きたい理由があった。この日ばかりは、どうしても長男をつかまえたかったのである。
そうして儀が終わって自分の妻がいる東ノ対へ長男が渡ろうとする前にようやく源氏は長男をつかまえ、月でも見ようと釣殿へと誘った。細殿を歩いていると、その両脇から虫の声の大合唱に包まれる。それがかえって静けさを強調していた。
紙燭も持たずに歩く源氏のあとを、長男は黙ってついてきた。腰を下ろすと、月の光がのぞくのがよく見えた。上弦よりは膨らんで満月に近くなっている月が、池の水面にその影を揺らしている。
「とうとう私も、孫の顔を見る日が来てしまったね。新しい生命が生まれたら古いものは去るにしかずなんだけど、仏門に入りたいと思ってからもう三十年以上たってしまった。露のように果かない命なのに、いまだにこんなにのんきにしているなんてよくないね」
長男は月光の中で目を伏せたまま源氏の言葉を聞き、そのままの姿勢で言った。
「いざとなれば、なかなか難しいことでしょう。父上は今や大納言の職をお持ちのお方ですから」
「ところで、高松邸の女三宮様もそうであったが、女二宮様とて亡き朱雀院様が目の中に入れても痛くないほどにおかわいがりになっておられた
左兵衛佐の眉墨の下がピクリと動いたのが、月夜にほのかに分かった。構わずに源氏は語り続けた。
「女二宮様は、きっと人当たりのいい方なのだろうな」
「さあ、私には分かりません。それほど親しくして頂いているわけではありませんから。ただ、ほんのちょっとしたことから、そのお人柄が察せられるということはありますね」
左兵衛佐はあくまで、しらを切り通すつもりらしい。
「親しくないといっても、おまえはわざわざ小野まで出かけて、お世話して差し上げているというではないか」
「あ。いえ、その……」
明らかに息子は狼狽していた、それに追い討ちをかけるように、それでいて口調だけは穏やかに源氏は言った。
「小野まで出かけていって、日帰りということはあるまい」
「そのようなことは……。その日のうちに戻りませなんだのは、たった二度でございます」
急に息子は目を上げて言うので、源氏は意表を疲れた。
「二度……」
「はい、はじめは夕刻に戻ろうといたしましたら、小野の里中に夕霧が立ち込めて戻るに戻れず、一晩の宿をお借りしただけでして。父上がお考えになっているようなことは、全くありませんでした」
それは本当かもしれない。ただ、何もなかったというより何もできなかったのであろう。今でも山の上の少将を慕っている女二宮だから、彼女の方からかたくなに拒み、それを息子は乗り越えられなかったまでのことだという可能性もある。
「二度目は、先日の嵐の夜に
「だが、産み月も近い妻を放っておいてまで、そうしなければならないのかね」
「一条邸には舅殿もおられますし、家司も多数仕えております。しかし小野の里は対の屋すらなきあばら家に、わずかの女房のみとともにの暮らしでございますれば」
息子はやけにむきになっていたので、源氏は思わず苦笑してしまった。
「分かった、分かった。もう言わない。おまえももう、子供ではないのだからな」
それだけ言うと源氏は立ち上がって、細殿の方へと歩き始めた。本当は子供ではないからこそ心配なのだが、行くなと言っても引き下がる息子ではないことは、あのしらの切り方ではっきりしていたからである。
その頃、
源氏も大納言としてその列に座していたが、このとき初めて四ノ宮が公式の場所に姿を見せた。まだ
もう今でも裳着をしてもいいくらいの娘の夫としてはまだ釣り合わないような子供ではあったが、じきにたくましくなるであろう。東宮にも劣らぬ聡明そうな顔つきは、十分にその将来を物語っていた。
ところが、そこに東宮の姿はなかった。まだ何の噂も立っていないが、中宮の言葉が本当だとすると、この公式の場を欠席するなどということはよほど容態が悪いらしい。
東宮のことは何も分からないままに季節は移り、
源氏の亡き親友の長男で、また源氏の長男の舅である一条の宰相中将であった。宮中でしょっちゅう顔を合わせているのに、わざわざ自邸を訪ねてくるということは、何か特別な用向きがあるに違いない。しかも私事でだ。
まず宰相中将は北ノ対に渡り、自分の異母姉である源氏の妻と御簾越しにあいさつした後、寝殿の南表で源氏と対座した。この男は亡き親友の息子や長男の舅であるばかりでなく、妻の兄だから源氏にとっても義兄でもある。
「今日いらしたのは、婿である我が太郎のことでかな」
源氏が最初にそう言うと、宰相中将は失笑した。
「お察しが早うございます」
「あいつは、まだ今でも小野へ?」
「それだけならよろしいのですが、実はうちの娘とかなり派手にやり合いましたようで」
「産後間もないというのに?」
源氏は自分の息子の思いやりのなさに、頭を抱え込みたい思いであった。
「いや、うちのも悪いのです。何でも互いに死ねだの死ぬのだのと怒鳴りあっていたとか」
「いや、面目ない」
源氏は頭を下げたが、宰相中将は笑っていた、それだけが源氏にとって救いであった。
「こんなときにお父君の、前右大臣殿が生きていたら」
「その気持ちは同じですよ。私とて父が生きておればどのように対処してくれたかと、ふと考えてしまいます。何しろ今は、すったもんだはみな私のところへ来ますもので」
「ほかにも何かまだもめごとが?」
「我が弟の三郎のことです。この五月に少納言から兵部大輔になって昇殿もできなくなりまして、それでくすぶっております」
「ああ、あの高砂の君か」
宰相中将の弟の三郎君の、童形の頃のことを思い出していた。あの頃は源氏も若かった。今ではその三郎君も三児の父親である。
「とにかく、息子のことは互いに大人なのだから、我々は当人同士に任せようと思う」
「そうですな。わざわざ押しかけ申し上げてしまいましたけど、考えてみれば親が口出しすることではございませんな」
そう言って宰相中将は大笑いした。親友の長男とはいっても故右大臣の若いときの子で、しかも互いにこの年になれば十歳の年齢差は同世代といってもいいくらい小さくなる。それに源氏の妻にとっても、兄とはいえ異腹なので同じ年齢なのだ。
それからは、他愛のない話に移っていった。中宮がそろそろ出産のために宮中を出ることになるが、今度は里邸である宰相中将の一条邸ではなく中宮職の職御曹司が産所と定められた話などである。
一条邸は源氏の孫の出産があったばかりだからという帝の御配慮かもしれないが、宰相中将はそのことを肩の荷がおりたと何度も言っていた。だが中宮大夫である源氏にとっては、自分の職場で中宮がお産ということになるので、慌ただしさが増すことが予想される。中宮の殿舎は今は飛香舎ではなく弘徽殿であったのでもはや藤壺中宮ではなくなっていたが、かつての弘徽殿大后への遠慮を含めてか、皆は中宮のことを弘徽殿中后と呼んでいた。
冬になって、小野に遁世したままであった女二宮がとうとう落飾して出家した。これで左兵衛佐の恋心はすべて封じられたことになり、源氏としては哀れではあったがほっとしたのも事実であった。
だがそれ以上に源氏には、いたたまれない気持ちもあった。故朱雀院よりお預かりした三内親王のうちの一人を、とうとう尼にしてしまったのである。この情報は高松邸の愛宮――女三宮の耳には入れないように、源氏は厳重に封印した。
かつては姉妹でともに尼になろうなどといい交わしていた二人だ。あの時は源氏の北ノ対の上の文によって、女三宮はかろうじて出家を思いとどまったものだった。
今回源氏は自ら高松邸に赴き、家司や女房を集めて女二宮の出家の件を話し、女三宮に対しては厳重に口止めしておいた。そして源氏はそのまま久しぶりに、西ノ対で明石の御方と夜をともに過ごした。
暮れになって、中宮は職御曹司で出産した。皇女だった。しかし、その新宮は生後三日で夭折した。こうして帝の御子が立て続けに新生児のまま夭折したことについて、またもや人々の口にある名前が噂としてのぼった。
さすがにもう雷公という人はいなくなったが、換わって人びとの間で取りざたされた名前はその娘が帝の第一皇子を生んだにもかかわらず、今の中宮の生んだ第二皇子に東宮の座を奪われ憤死した故前民部卿であった。
(つづく)
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