第6章 御法
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紫の上もかつての大病以来すっかり回復したわけではない体でいたが、冬の寒さでまためっきり弱ってきたようだ。病を発したとまでもはいかないが、それでも体調がすぐれず、一日の大半を横になって過ごすようになっていた。
源氏とて気がかりではあったが、そうたびたび北ノ対に渡れるほど公務は彼に暇を与えない。
紫の上とは、ここ最近源氏が呼びはじめた妻の呼称である。もはや西ノ対にはいないのだから、西ノ対の上ではない。女房たちは北の方様と呼んでいるが、源氏が自分の妻をそう呼ぶわけにもいくまい。実名で呼ぶのも無粋だ。
そこで源氏は妻がまだ幼女だった頃に初めて見たとき、妻が住んでいた北山の庵に「紫雲亭」と書かれた額があったのを何かのきっかけでふと思い出した。だから決めた。
「紫の上と呼ぶよ」
源氏の突然の宣言に、そのわけを聞いた妻は
「まあ、そんな昔のことを。私などはとうにそんな庵の名前など、忘れておりましたのに」
だがその笑い声も、心なしか弱かった。
年が明けても、宮中に明るい雰囲気は流れてこなかった。中宮の生んだ皇女がたった三日間生きただけで夭折した直後でもあり、また雨のせいもあって朝賀は中止となった。ただ、東宮大饗は昨年晦日までその開催の可否が公卿の間で議されていたが、結局は行われた。
中宮は亡き新宮の出産以来ずっと職御曹司に留まっていたが、正月早々には大内裏から出た。行き先は長兄の宰相中将の一条邸ではなく、次兄の堀川邸であった。次兄が中宮権大夫だからである。
中宮の出産と新宮の夭折と慌ただしい職御曹司も、ようやく落ち着きを取り戻した。中宮大夫の源氏もそれでやっとひと息入れることができたが、それも束の間、一連の正月行事が終わったら続いて叙位の議で、源氏はまたもや忙殺されることになった。とても落ち着いて北ノ対の妻の紫の上を見舞うこともできず、それだけに余計気がかりであった。
病で寝込んでいる訳ではないのだというのが、源氏がせめて自分に言い聞かせる言い訳であったが、妻は相当衰弱しきっているという話は聞こえてきた。
閣議は深更に及ぶこともしばしばであった。節約のための夜の会議の禁止は、またもや反故になっている。左右大臣はそれぞれの老齢を口実に、昼頃にはさっさと退出してしまったりする。まさしく重役退出であった。そうなるとすべては、大納言である源氏に回ってくる。源氏にとってもうひとりいる同職は左右大臣以上に高齢の民部卿老大納言なので、やはり早々に帰宅していくからだ。
だから左右大臣がいなければ源氏が上卿ということになる。こんないい加減な左大臣であるということが、故前右大臣が生前思う存分手腕が振るえた理由の一つであるかもしれない。
しかし源氏には亡友のような野心も策謀も、権力への憔悴もない。だから上卿というのは、源氏には荷が重すぎた。妻の言葉ではないが、源氏もやはり何もかも捨てて出家したいと思っている。しかし俗世のしがらみは、十重二十重に彼をとらえて離さない。
連日の閣議で、源氏の帰宅はだいたい夜の日が多かった。遅くに戻って、それから妻のいる北ノ対に渡るのも気が引けた。若い女のもとに通う情人にとってはちょうどいい頃合いかもしれないが、老いた妻のもとに渡るにしては時刻が遅すぎる。妻はもう休んでいるだろうと、遠慮されてしまうのだ。
そうこうして妻の顔も見ない日々が、何日か続いた。ただ、源氏は北ノ対付きの女房を一人、自分の帰宅時には寝殿に伺候させるようにした。妻に何事もなかったかどうか、毎日聞くためである。そして平穏を告げる報告に接したあとは遅い夕食をかきこんで、源氏はすぐに横になってしまうのであった。
妻も精神的に心細いことであろうと思う。しかしそれ以上に、自分の体がもつかどうかという不安も源氏にはある。もう、若い頃のようにはいかない。そのようなときにはまた、出家の二文字が頭をかすめる。
だから
「余命幾ばくか分かりませんが、せめてその間だけでもみ仏に尽くして、罪業を滅しておきませんと……」
「子供たちは、どうする」
と、そんなとき源氏は必ず聞くことにしている。所帯を持った長男はいいにしても、紫の上の実子の次男はまだ元服前だ。そして、明石の御方から紫の上の養女として引き取った姫もいる。さらには、世間には源氏と紫の上の子ということになっているまだ幼い薫もいる。これらが皆、妻にとってはしがらみとなっているのだ。
「私も出家を思わないではないのだよ。でもそのときは、二人一緒にと思うんだ。もし仮に今二人がともに出家してもだよ、たとえ来世では同じ蓮の上に座すことになろうともこの世に生きている間は別々の修行生活となる。そうなったら、こんなに弱っている君を気にかけずに修行に打ち込む自信は、私にはないね」
これも道理で、妻は反論できない。
「暦の上では春立つとはいっても、まだまだ寒い。冬の最中だ。だから気もめいるんだよ。本当の春になったら、少しは心も和んで気持ちも大きく持てるのではないかね」
源氏は微笑んで、何とか妻を元気付けようとするのであった。
月末になると、今度は除目の儀が始まる。ただ、上達部たちには大きな異動はなさそうであった。
そんなある日、その翌日が帝の御物忌ということで、多くの公卿が宮中に
一同は夜遅くまで清涼殿に辞し、帝のそばに
「時に大納言殿」
夜のつれづれに、帝が源氏にお声をかけられた。何しろ狭い部屋である。炭櫃が七、八個は出されているが、たいした暖房にはならない。
源氏が炭櫃にかじりついていた手を引き、帝の前に畏まろうとしたので、
「あ、そのまま、そのまま」
と、帝は制せられた。帝も炭櫃に手をかざしている。そこで源氏もお言葉に甘え、無礼をお許し頂くことにした。
「大納言殿の五十賀も、そろそろ考えませんとね」
「その儀でしたらば」
源氏は帝の方へ、体の向きを変えた。
「新宮様が身まかられたこともありますし、自粛させていただこうかと」
「何を仰せられます、兄君。遠慮されることはつゆも」
「しかし、我が北の方も、ここのところ体がすぐれませんのでそれへの気兼ねもありますし、私の五十賀は一切ご辞退申し上げます。それより、こちらにおられる宰相中将殿の四十賀の方へ、私の分も」
いきなり話を振られて、宰相中将はびくっと帝の方を見た。
「おお、宰相中将はもう四十……
「あちらはあちらで、勝手にやるでしょう」
源氏は不用意にも不快な顔を帝にお見せしてしまった。そのばつの悪さから、ますます苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「左大臣家も右大臣家も、何を考えておりますやら」
「ほう、それはどのような」
帝は少しだけ、お首をかしげられた。
「左右の大臣の大饗のことでございます。今年は中宮大饗も中止となったというのに……。もっとも東宮大饗が中止にはなりませなんだから大饗自体についてはとやかく申しませんが、せめて歌舞楽曲くらいは自粛するのが臣下としての道ではないかと」
「歌舞楽曲があったのですか」
「はい。ございました」
源氏の目は、鋭く帝をお見据え申し上げていた。
「中宮様の御腹の皇女様のことなど、左府殿にとっては関心外なのですな。やがて天罰が下りましょうぞ。左大臣、右大臣、そして小一条権大納言!」
自分でもなぜこうも感情的になるのかと、源氏は思ってしまった。その吐き捨てるような言葉に、一同は静まり返った。宰相中将も源氏に同調して、顔を曇らせている。
だが、源氏は自分が言ったことに後悔はしていなかった。それが真情だったからだ。政敵として憎むのではなく、あまりにも中宮やその背後の陣営を軽視した左大臣側の振る舞いに腹が立ったのである。
「まあまあ、兄君。お気持ちは分かりますが、左大臣殿もなくてはならぬお人。ただ……」
帝は少し声を落とされた。
「お年をおとりすぎていますな」
これには皆の緊張もほぐれて、一堂でどっと笑った。源氏の心も少しだけ緩んだ。帝も微笑まれている。やはり聡明な名君であった。
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