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忙殺される公務の軽減を図ることと左大臣側へのデモンストレーションの意味もあって、源氏は按察使を辞した。それはすぐに許されたが、皮肉にもそれをすぐに拾ったのは小一条大納言であった。
そして除目も一段落ついてやっとひと息入れたら、今度は次の案件が公卿たちを締め付けた。東宮の御加冠である。閣議がまた重なり、東宮の御加冠は結局二月の二十八日と決まった。加冠役は左大臣、理髪はその一門でも傍流の宰相右衛門督である。
中宮も宮中に戻り、いよいよその東宮加冠の当日を迎えた。場所は紫宸殿で、東宮の倚子は
加冠役の座は、南廂の中央より向かってやや右側である。加冠役が左大臣というのは源氏にとってはおもしろくないが、彼が東宮傳なのだから仕方ないことであった。つまり、中宮職の大夫を源氏が、権大夫を前右大臣の次男が占めているのに対し、左大臣は東宮側についたわけで、こちらの方が先々有利のように見える。だが、いざ東宮が即位すれば中宮は後宮の絶対者として君臨する国母となる。国母がいかに国政を左右するかは、年老いた世代なら亡き弘徽殿大后の記憶を持っている。そして、前右大臣の魂もその娘の中宮の中に宿っている、さらにはその中宮の姉を、源氏は妻としているのだ。
儀式は滞りなく進んでいった。
昼前に帝が紫宸殿に出御されたが、その頃に東宮は常住している凝華舎――梅壺を出て宜陽殿の東の直盧に向かっていた。やがて命婦によって、台の上に冠が置かれた。東宮は宜陽殿の敷政門、宣仁門を通って、左近の陣から軒廊に入り、ゆっくりと紫宸殿の東の階段を昇った。そのあとに左大臣と宰相右衛門督が続き、理髪と加冠が行われる。
左大臣の祝辞のあと、東宮は一度殿舎の北側に回り、そこで衣服を改める。そして再び出てきた東宮は、笏を持ち、立派な大人の、そして皇太子としての装束であった。
源氏はそんな様子を見るにつけ、心の中から疑念が消えなかった。中宮が気になることを言っていたのを思い出したからだ。――東宮は心身ともに普通ではない。恐らく世継ぎには恵まれまい……と。だが今日見る限りは、東宮はいかにも凛々しく次代の帝にふさわしい青年である。
中宮はなぜあのようなことを……単なる噂ではなく、生母自らの口から発せられたことだけに、源氏は気になってならない。源氏の側の中宮だから、源氏の姫の東宮の入内を拒んで源氏を不利にしようなどという意図でそのようなことを言うはずはない。だからほかに何か深いわけがあるはずだが、今の源氏には見当もつかなかった。
東宮妃としてその日のうちに入内したのは、やはり帝の希望通り朱雀院の女一宮であった。加冠の添伏である。これで女一宮は朱雀院の忘れ形見の三姉妹のうち、ただ一人花を見たことになった。
女二宮はすでに俗世の人ではなく、女三宮は源氏の高松邸で故前右大臣の五女愛宮として一応不自由なく暮らしてはいるが、暗い過去を持っている。
その過去についてはご存じないまでも帝はその女三宮の行く末について案じておられて、源氏の顔をご覧になるたびにそのことについてご下問されるが、源氏は答えようがないまま月日だけが過ぎていっている。
しかし、女一宮に関しても、決して幸せにはなれまいという中宮の発言ゆえに手放しでは喜べない状況であった。
春たけなわとなっても次の行事が目白押しで、なかなか源氏にくつろぎの時間を与えてくれそうもなかった。次は雲林院の新塔供養で、これは多宝塔の供養であって帝の行幸もあり、歌舞音楽も奏でられた。
夏になると今度は猛暑が続き、雨も降らず、各地の水不足が次々に上申されてきた。これでまた議定が続く毎日となる。とにかく暑く、長時間の閣議はそれだけで体にこたえる。左右の大臣はまたもや老体を理由に上卿を源氏に押しつけて、さっさと退出してしまう。祈雨の儀などは自分たちの栄達と何の関係もないから、彼らは関心を持たないのである。だが、不健康は理由にはならず、彼らよりも高齢の参議は平然と座に連なっていた。
源氏にとっては、閣議の間も妻の身が案じられてならなかった。聞けばこの暑さで相当まいって、ほとんど寝たきりの状況になっているという。
そこで源氏は思い切って、妻を二条邸に移すことにした。二条邸なら宮中からも近いし、いざとなったらすぐに飛んでいける。家司や女房だけの西宮邸と違い、二条邸には長男もいる。万が一のときは何かと心強い。それに何よりも二条邸は妻が少女時代からずっと、長い年月を暮らしてきた場所である。前の大病の時も同じ理由で妻を二条邸に移したが、その時と同様今度も妻は西ノ対に入った。
「庭の風情も昔のままだね。こうしていると、何だか若い頃の私たちに戻ったみたいな気がするよ」
源氏の言葉に、紫の上は褥に横になったまま顔だけ源氏の方に向け、少しだけはにかんだ笑いを見せた。
「戻れるものでしょうか。何もかもが輝いていた頃に」
「輝いていたな。確かに」
「あの頃はあの頃でつらいこともいろいろあったけど、今になって思い出すとみんな美しい思い出になってしまうんですね」
「おいおい」
源氏は苦笑した。
「まるで将来が全くない私たちのようじゃないか。年よりめいた繰り言はまだ早いよ」
「まあ、最初に言い出したのは殿ではありませんか。でも、本当のところ、最近は昔のことを思い出してばかりいるんです。さすがに初めてこの小屋敷に来た日のことは、あまりに遠すぎて覚えていませんけど」
「あの日はずいぶん泣いて、私を困らせたものだよ」
「そうでしたか。私はまだ子供でしたけど、殿はもう大人でしたものね」
妻はクスッと笑った。その笑いだけが、源氏の暗い心に光をもたらすものであった。
「雀の子が逃げたって、泣いていた子供だったな」
「また。ふた言目にはすぐにそれをおっしゃる」
源氏はまた笑った。
「いや、あの言葉がやけに印象に残っていてね」
「よく覚えておいでで」
妻も苦笑せざるを得ないようであった。
「まさかその少女が、こんなふうに生涯の伴侶になるなんて」
「犬君はどうしたのかしら。まだ生きてるでしょうか」
「雀の子を逃がしたり、人形遊びの家を壊したり、ろくなことしなかったけど、でもまた蓮の上で会えるさ」
「そう、すぐに」
この妻の言葉に、源氏は息をのんだ。急にしんみりとした気分になってしまったので、慌てて源氏は話題を変えた。
「私が須磨に行ったときのことくらいは、覚えているだろう」
「ええ。このお屋敷からでしたね」
「では、帰ってきたときのことも覚えているかい? もう二度と君をおいてどこにも行かない、いつも一緒だ、死ぬときも……って私が言ったことも」
「はい。殿がお戻りになったという感激は、私忘れませんわ」
「あの時は、後にも先にもあれ以上のものはなかったほどの地震もあったな。地震で亡くなった人もたくさんいたけど、でもこうして私たちは生き残ってここにいる」
源氏は、緑が濃くなった庭の木立に目をやった。激しい陽光がそこにも降り注いでいるが、この陽光は今年も
「萩の上の露も」
不意に紫の上は言った。
「はかないものですね。いつ風に散るか」
何を不吉なと源氏は思ったが、ひと呼吸おいて冷静に源氏は言った。
「露は散るのをきそっているようだ。でも、私の命の露だけが葉の上に残っても、すぐに君の露を追って散るだろうね」
妻は布団から手を出し、目頭を押さえた。源氏もいたたまれなくなった。
「また、来る」
そう言ってから立ち上がると、開けっ放しになっていた妻戸から源氏は出た。そこは寝殿の方からまる見えなので、源氏は西ノ対の北側に回った。そしてそこの簀子にうずくまり、声をひそめて泣いた。
妻は逝こうとしている。自分をおいて、逝こうとしている。加冠前の我が子もおいて、妻は逝こうとしている。源氏は何もしてあげることはできない。そばについていてあげることすらできない身なのだ。
源氏の涙は尽きることなく、黄土色の直衣の袖を濡らしていた。
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