その夏は祈雨の奉幣、修法、さらには神泉苑の北斗修法も行われ、祈雨、祈雨で明け暮れた。

 そして秋になって、帝の一宮の加冠の儀が執り行われた。異母弟である二宮の東宮より約半年遅れてのことであった。

 一宮が帝の長男であるといっても同じ年の生まれであるから東宮の加冠が先であっても不都合はないのだが、東宮は兄の一宮を飛び越えて立太子しただけに、今回の加冠で人々の間である不吉な存在の記憶が呼び覚まされることになった。

 一宮の母御息所の父――亡き前民部卿大納言である。その前民部卿大納言が死んだのは東宮の立太子よりもずいぶん後ではあったが、その死は自分の孫の立太子がかなわぬゆえの憤死であったと今では誰もが考えていた。

 ところがその頃、僧六百人を集めての金字大般若経の供養会が五条あたりの鴨河原で行われるようになり、都では貴賎を問わずにそのことが話題にのぼって、やがて前民部卿に関する不吉な噂も吹き飛ばす勢いとなった。権門の催す供養会は民衆とは無縁のものだが、この五条河原の供養会は一介の町の僧が催すもので、全くの庶民も参列して結縁できるとあって巷にその話は瞬く間に広がったが、その噂は宮中にも飛び火した。

「催しております僧は、市聖いちのひじりとか申しますそうで」

 職御曹司にいた源氏は、宰相中将の弟の権大夫からそのような話を聞いた。

「徳のある高僧なのかな? 比叡山あたりの」

「いえ、それが一応比叡山で大乗戒は授かっているそうですが、寺も持たずに常に民衆の中に入って踊りながら念仏を広めておりますとか、ゆえに市聖と」

「変わったお上人しょうにんだな」

 源氏は少し笑みを浮かべた。

「尾張で得度を受けて以来、各地を遍歴されていたそうですよ」

「お若いのかな?」

「いえ、かなりのご高齢と承っておりますが」

 高齢の僧なら威厳を持つ僧衣で身を固め、寺の奥にデンと住しているのが普通だ。それなのに民衆の中に入っている高齢の僧もいるという。そのような生き方もまた一興かなと源氏が思っていると、蔵人の一人が息を切らしてそこへ駆け込んできて、立ったまま身をかがめた。

「大夫大納言様、帝のお召しでございます」

「また急な」

「しかも内々にとの仰せで」

 時すでに夕刻である。源氏は立ち上がり、畳を降りてくつをはいた。

 外記げき庁の角を曲がればすぐに建春門で、それに続く宣陽門から内裏に入った源氏は宜陽殿からあがって紫宸殿の北の簀子を通り、清涼殿へと向かった。


 清涼殿では昼御座ひのおましの近くにまで、源氏は召し寄せられた。

「兄君は、五条河原の供養会のことはご存じですかな」

うえのお耳にまで達しておりますか。宮中諸司、その噂で持ちきりでございますから」

「実はその御坊について、ある天台阿闍利の話としていささか気になることがございまして」

「はて、どのような」

 帝は声をひそめられた。

「もしや、皇胤ではないかと」

 源氏は笑った。

「そのような……。自らの出自に箔をつけるため、そういったことをでっち上げるのはよくある話でございます」

「それが、本人は断固と否定しているそうな。そのようなことを本人の前で言おうものなら、激怒するとか」

「はあ?」

 源氏は首をかしげてしまった。本人が否定しているとなると、かえってその話に信憑性が感じられてくる。

わたしもそれを完全に信じるわけではありませんが、供養願文も提出されていることでもありますから」

 それは源氏も知っている。つい今朝方、太政官に上申されてきたのである。しかしそれがもう帝のお耳に達しているという、蔵人の処理の早さには驚いた。

「確かにその願文によれば、大般若経の書写に十四年の年月を費やしているようでございますが、それが寺院の僧によってではなく民草の中で行われたというのです」

わたしもそこに感じ入ったのです。ですから朝廷としても、銭十貫文を供養として寄進したいと思っています。左大臣も結縁に行くそうですが」

「ほかの公卿たちも、われもわれもという感じでございますな」

わたしも行ってこの目で見て、阿闍利の言葉の真偽を確かめたいと思っているくらいですよ。見れば分かると思います。でも、まあ、無理でしょう。そこで兄君。わたしの代わりに行っては下さいませんか」

「それは、仰せとあらば」

「しかと見てきて下され」

 帝に言われて、源氏も興味が湧いてきた。

「して、皇胤といいましてもどのような……」

「我らが亡き父院の落とし胤ということらしいですが、今は六十一歳ということですから、その話が真実なら我々の兄ということになりますな」

「六十一歳……」

 手早く源氏は、頭の中で計算する。自分との年齢差などからはじき出した答えは、

「前坊様と同じ年ということですな」

 と、いうことになる。確かに皇位に即くことなく世を去った源氏の兄で、かの六条御息所の夫であった前坊も、今生きていれば六十一歳になる。

 今の源氏にとって前右大臣亡き後に心許せるものといえば、前右大臣の遺児たちや桃園中納言のほかは、帝をはじめとする血を分けた弟たちだけであった。たとえ母は違っても、同じ故父院の血が流れているというだけで親しみがわく。

 ところが、あれほどたくさんいた兄弟たちも今は数えるほどしかこの世にいない。それが一人加わるというのだ。兄弟が減るどころか増えるというのは、まさに奇跡である。たとえそれが市聖であったとしても……である。

「私のこの目で、しかと見てまいります」

 源氏は嬉々として、深々と頭を下げた。


 結縁ということなので、できれば妻もつれていきたかったが、妻の体がそれに耐えられるかどうかという危惧があった。秋とはいっても、まだまだ残暑は厳しい。また、そのような供養会に庶民の女ならいざ知らずやんごとなき女人が参列していいものかどうか、そのあたりもためらわれたので妻をつれていくのはやめた。だが妻の耳にも噂は届いているようで、しきりに供養会のことを気にしていた。恐らく女房の誰かが、巷の噂を耳に入れたのであろう。

「私が君の分まで、仏縁をとりなしてきてあげるから」

 供養会の当日は、そう妻をなだめて源氏は出かけていった。

 五条の清水橋を渡る頃は夕闇が河原を包みはじめていたが、そのあたりから沿道はものすごい人出となり、車も思うように進めなくなった。誰もが同じ方向へと流れていく。

 貴人のお出ましも多いようで、車もずらりと立てられている。その中には、左大臣の車も見えた。その左大臣はちょうど先駆に民衆を蹴散らさせて、仮本堂の中へ入っていくところであった。

 その時、

「大納言殿。こちらへ」

 と、親切に源氏に声をかけ源氏くれるものもいた。見ると、左大臣や故前右大臣の弟で小一条権大納言の兄の桃園中納言であった。

「おいででしたか」

「私は早くから、ここの光勝お上人様とは縁を結んでいますので」

 二人が車から降りると河原はさらに夕闇が濃くなっていたが、おびただしい萬燈の明かりにまるで昼のようになっていた。昼は般若経の転読と講があるが、夜は萬燈会だと聞いている。

 とにかくすごい人で、先駆が払ってもなかなか進めない。

「大納言殿、中納言殿、渡らせ給う!」

 そんなうたい文句も、ざわめきに消されてしまっている。源氏は民衆の熱気を実感した、力がみなぎっている。よどんだ空気が漂う宮中と、大きな違いである。

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

 果てしなく繰り返される念仏。人々は一人一人口々に唱えているのだが。それは夜の闇の底に横たわる巨大な獣の一つの口から吼え上げられている念仏のように融合して聞こえる。

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

 彼らは念仏を唱えるのみならず、その体を躍動させ、河原の石を踏み、大地を蹴り、踊り上がって念仏を唱えている。夜の海に大波がいつ終わるともなく、怒涛のうなりをあげながら盛り上がり続けている。

 源氏はようやく仮本堂に着くと、万燈に煌々と照らされた中で席についた。貴人とて席の区別はなく、民衆の中だ。やがて話題の市聖――光勝上人が登場する。その気配は、民衆の歓声で分かった。

 比叡山の高僧よろしくきらびやかな袈裟とともに現れる老僧の姿を源氏は空想していたが、実際に現れたのは鹿の衣を着し、すねまで素足で、手にはやはり鹿の角で作った杖を持った老人であった。

 だがその顔を見たとき、源氏は息をのんだ。諸国を遍歴してきた気骨が、そこにはあった。眼光も鋭い。

「南無阿弥陀仏!」

 出てくるなり、老僧は叫んだ。民衆の歓声がまたあがる。その後は、ひっきりなしに踊り狂う念仏の輪が飛躍した。

 本殿では奥からさらに六百人の僧が現れ、こちらは静かに読経を始めていた。だが、民衆の関心がそちらに向くことはなかった。

 民衆の熱気に包まれた老僧が自分と同じ父を持つ兄かどうかは、帝がおっしゃっていたようには顔を見ただけでは分からなかった。真偽の程は分からないが、もしあの話が本当だったらと思うと、源氏はふとため息をついてしまった。

 源氏は民衆の熱狂の中には入れない。彼はあくまで朝廷の大納言である。だが、目の前の老僧は、もし本当に兄だとすれば帝の御子でありながら今は民衆の中で仏に仕えている。自分も臣下に降っただけ少しは自由になれたが、その自由にも限界があった。目の前の兄かもしれない老人には、限りない自由がある。どのようないきさつで皇籍を離れたのか分からないが、源氏にはうらやましく感じられて仕方がなかった。

 世の中には、こういう生き方もある。だが源氏は、そしてその妻は出家して仏道修行しようにもしがらみが多く、いまだにできずにいる。

 結局源氏は、その老僧とひと言も会話を交わすことなくその場を後にした、だが、目では十分に語ったつもりでいた。それだけで源氏にとっては、紛れもない対面であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る