10

 薫はここのところ公務の忙しさにまぎれて、宇治にはふみも出さずにいた。何しろ蔵人という役職の多忙さは半端ではなく、思うにも増して激しかった。

 折しも、新嘗祭が近づきつつある。そんな最中に、東二条邸では摂政の六十賀の宴もあった。今度は長男の権大納言の主催で、これをもって一連の六十賀の行事の締めとなる。

 薫が宇治に便りを出さなかったのはそればかりではなく、いつまでも冷淡で心を開いてくれない大君への意地と見栄もあった。簡単になびいてくるような女でも困るが、こうも心を閉じられるといつまでものぼせているんじゃないとまで思ってしまう。


 都全体は、刻一刻と冬の景色になりつつあった。風も冷たくなってきている。

 宇治の弁の君から突然の知らせが届いたのは、ちょうどそんな折であった。

「嘘だ!」

 と、叫んだまま薫は呆然として、ふみを持つ手が震えた。文には大君がやまいで寝込んでいる旨が書かれてあったが、その病というのが風邪程度ではなくほとんど起きられない状態なのだという。

 薫は居ても立ってもいられなくなり、ちょうどその翌日がの日でもあったので、夜中に宇治へと車を出した。

 牛の歩みはのろく、薫は思わず牛飼いの童に早く早くとせかしていた、そしてこのようなことなら、馬を飛ばせばよかったとさえ後悔した。

 宇治に着いたのは、まだ夜も明けきらぬ早朝だった。

「知らせを聞いて駆けつけてきたのだ。いつもの廂ではなく、お休みになっている御簾の前に、ぜひ!」

 ここでも薫は、取り次ぎの女房をせかした。女房はまだ頭が半分眠っているようであった。

「はあ、しかし、大君様はまだお休みですし」

「大丈夫、お起こし申し上げるようなことはしないから」

 薫に押し切られた形で、女房は薫を身舎の中へと導いた。御簾だけで隔てられている向こうに、大君の寝床が敷かれている。そばでは中君が座って寝ずの看病をしていたらしいが、いまではこっくりこっくりと舟を漕いでいた。薫は音も立てずにそっと入ったつもりであったが、その中君には気づかれてしまったようで、中君が慌てて立ち上がって奥へ入っていくのが御簾越しでも気配で感じられた。

 大君は、まだ眠っているらしい。薫は御簾の前にすわり、その目覚めを待つことにした。

 空もすっかり明るくなってから、大君が小声で女房を呼ぶ声が聞こえた。

 目覚めたらしい。

 薫は、御簾のそばまで寄った。今では中君の指図らしく、御簾と寝床の間には几帳も立てられている。

 女房が入ってきた。そして大君に、何かをささやいている。薫の来訪を告げているに違いない。そこで薫は一つ咳払いをしてから、御簾の中に声をかけた。

「知らせを聞いて、とるものもとりあえず駆けつけてまいりました。お加減はいかがですか?」

 すぐには返事はなかった。やがて女房が御簾の内側まで来た。

「大君様が申しますには、わざわざありがとうございます、ご心配をおかけして済みませんとのことでした。起きてごあいさつ申し上げなければならないところを、ご無礼致しますとも」

「そのままで結構ですと、お伝えください。それより」

 薫は少し声を落として、取り次ぎの女房に言った。

「そんなにお悪いのですか」

「すぐにお命にどうこうということはございませんでしょうけれど、一日中全くお起きになりません」

「お食事は?」

「それが、全く何も受け付けないようなご様子で」

 それから女房は大君のもとに戻り、すぐにまた出てきた。

「匂宮様はご一緒ではございませんかとの、お尋ねでございます」

 自分がこんな様子の時でも、大君は妹に代わってそのようなことを案じているらしい。

「今はご自分のお体をお大切になさってください。宮様もいろいろご事情がございましてと、そう伝えてください」

 また女房は中へ入り、大君の言葉をもらってくる。その間が、薫にとってはじれったかった。

「亡き父宮様のお諌めは、やはりこのようなことになるのをご心配なさってのことだったのかと、今はただ泣いておられます」

「分かりました。これ以上お話して、お体に障ってもいけません。それより、弁の君を呼んでは頂けないですか」

「はい」

 女房が下がると、弁の君はすぐに廂の方へ出てきた。

「どうして、もっと早く知らせてくださらなかったのです」

 今さら繰り言を言っても始まらない。

「加持は? 修法は? 寺の阿舎利には知らせましたか?」

「それが姫様は、そのようなことをしてもらうに値するような身ではない、かえって恥ずかしいと仰せになって」

「そんな馬鹿な」

 薫は立ち上がると簀子へ出て、自分の従者にこの山荘の侍をつけて寺へと走らせ、自分が乗ってきた車を空でやはり寺に向かわせた。その車に乗って、阿舎利と寺の僧が数十名、すぐにやって来た。

「これは、これは」

 と、言って驚いている様子を見ると、本当に阿舎利は大君の病については知らなかったらしい。さっそくに護摩壇が組まれ、修法が始まった。煙と僧たちの読経の声が、小さな山荘に響く。

 薫もその日ずっと、僧たちの後ろでひたすら祈っていた。寄り座しにも何の御霊もからない。

 女房たちは薫に気を使い、

「どうぞ、お客間でおくつろぎ下さい」

 と、囁いたが薫はそのような気にはなれず、祈りの席から離れなかった。

 夕暮れになって、御簾の近くに薫は行った。薫はどうしても今日中に都に戻らねばならぬ身だ。明日はまた公務がある。

「お気分はどうですか?」

 御簾の中に、声をかけてみた。読経のしるしがあったかどうか、試してみたかったのである。僧たちの読経の声に、少し大声を出さなければ薫の声は届きそうにもなかった。

 ところがそのような状況でも聞こえるほどの大きな声が、御簾の中から返ってきた。

「どうぞ、中へお入りください」

 薫は驚いた。まぎれもない大君自身の声だ。障紙さえも開けてくれなかった大君が、今は御簾の中へと自分を誘っている。病床にあって化粧もしていないであろう見苦しい姿をさらけ出す恥をものともせずに薫を招くということは、よほど自分の最期を察してのことではないかと、かえって不吉な気持ちに薫は襲われた。

 中へ入ると大君は横になったまま、顔だけはふすまの袖で隠していた。

「本当にありがとうございます。真心からのお心遣い、身にしみました。もう何日もこのような状態で、苦しくてなりませんでした」

 さっきの大声はまるで嘘のように、中に入ってからはやっと聞き取れるほどのか細い声になっていた。先ほどは、かろうじて残っている全身の力をよほど振り絞ったのだろう。

「ところで、女房から聞きましたが、兵部卿宮様は摂政様の六の君とご婚儀とか?」

 薫は全身が凍った。こんな山奥にまで噂は流れているのかと、あきれてしまう。姫は女房から聞いたと言ったが、自分か匂宮の従者で、たびたび供としてここに来るたびにここの女房といい仲になったものがいて、それがしゃべったのかとも思う。十分にあり得ることだ。

「そのようなことは今はお気にかけずに、ご養生下さい」

「いえ、妹のことだけが気がかりでございます」

「お察しいたします。匂宮様も中君様を何とか都に呼び寄せたいとお考えですが、諸般の事情で難しゅうございます。大君様も、この山荘では何かとご不便でしょう。方角を変えればやまいにいいこともありますから、少しご気分がよくなりましたら中君様ともども都にお移りになりませんか? お移りする場所は、私がご用意申し上げます。都には名高き高僧も多いことですし、また匂宮様が中君様のもとに通うのにも便利でございます」

「いいえ、お気持ちだけで」

 そこまで言った時、大君は激しく咳き込んだ。そしてあとは、黙って首を横に振っていた。薫はこれ以上長話するのも気の毒なので、戻らねばならない旨を大君に告げてその場を退出した。そして阿舎利には修法を厳重にするように頼んで、薫は帰京した。

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