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そんなある日、薫は摂政の東三条邸を訪ねた。
摂政は今ではほとんどここにはおらず、新築の東二条邸にいるので、薫が訪ねた先は摂政ではなく自分の妹であった。
妹のことも匂宮や自分と大君とのことと平行して気になっていたので、久々に訪ねてみる気になったのである。
妹に変な虫がついても困るが、歳も歳なのでそのような話が全くないというのもまた困る。
以前は実際は異腹で名目上だけ同腹と思っていた妹だが、実は本当に同腹だったのだということを今になっては薫も知っているので、この妹には最初から異腹と分かっている姉以上に親近感を覚えていた。
ところがいざ東三条邸に着くと、薫は案内に出た女房から東ノ対に渡るように告げられた。そこには摂政の二の君、すなわち帝の御母の皇太后がいる。
薫は服装を悔いた。妹に会うためだけと思っていたので直衣で来てしまったが、皇太后に会うとなると束帯でないとまずい。そのことを女房にも言ったが、かまわないという皇太后の仰せであるということだった。
薫は簀子に座った。奥の御簾の向こうのさらに奥の几帳の陰に、皇太后はいる。同じ摂政の子とはいえ権中納言などはともに酒を酌み交わす中であるが、その同腹の姉は身分が違う。薫が畏まると、女房の口づてに皇太后の言葉が薫に告げられた。
「廂の間まで、お許しくださるそうです」
その言葉に薫は膝を進め、簀子から廂の間に入った。そこに女房が円座を敷くので、その上に座る。御簾の内側の几帳のすぐそばで、衣擦れの音がした。
「直答をして下さい」
几帳の内側からの声は、女房のものではないようだった。皇太后はまだ上達部でもない薫と、直接話をしてくれるらしい。
「噂に聞いておりました
「はあ」
薫はどう答えたらよいか分からず、上半身を前に折っていた。初めて対面し、はじめて言葉を交わす相手である。しかしその声は皇太后然としてはおらず、気さくな若い女性のものだった。思えば自分の姉よりもずっと若く、宇治の大君くらいの年齢であり、それでいてすでに皇太后なのだ。
「わが弟の権中納言が、あなた様のことを兄君とお呼びしているとか」
「はあ」
そう言われても権中納言が直接薫をそう呼んだのは一度きりであるが、ほかで自分のことをそう言っているのかもしれないと薫は思った。
「あの子も、気が早いこと」
皇太后はくすっと笑った。それによって薫の意識は、目の前の御簾と几帳の向こうにいるのが皇太后というよりも一人の女性であるというふうに変わり、幾分気分も和んだ。そしてかがめていた上半身も起こした。
「実は今日わざわざ妹御をお訪ねのところをこちらへとお呼びだてしたのは、私からも兄君のお心内を確かめたくて」
皇太后までもが、薫を兄君と呼ぶ。いったい何がどうなっているのかと、薫は唖然としていた。
「高松の姫の兄君としてのお心を」
「ああ」
薫はやっと納得した。薫の妹はその育った屋敷の名前から、高松の姫と呼ばれている。皇太后が薫を兄君と呼んだのは、その妹の「兄」という意味でだったのだ。
「妹のことで何か……?」
「婿取りの話があるのです」
「妹に、そのような話が?」
「今は私が母親代わり、いえ、姉代わりと申しておきましょうか」
皇太后はまた、くすっと笑った。
「とにかく後見させて頂いておりますが、やはりこのようなことは実の兄君様もご承知下さっておられた方がいいのではと」
「で、お相手は……」
「私の同腹の弟でございます」
それでは、あの権中納言しかいないではないか。これで彼が自分のことを兄君と呼んだことなどのすべてに納得がいって、薫は何度も黙ってうなずいた。
「いかがでございましょう」
薫は急に真顔になって、扇を手に持ったまま再び手をついた。
「我が妹の婿になったところで、何の後見もございません。それに、すでに権中納言殿は、源左大臣家の婿では」
「弟の気持ちなんです。私がお世話をさせていただいております姫には、どこでどう噂を聞きつけたかいろいろなところからずいぶん懸想文も参りましてよ。でも私はそれらを、すべて断らせていたのです。その中には何と私の兄の大納言や粟田殿二位権中納言もおりましたけど、そんなのもみんな跳ね除けさせました」
「それはそれは。しかし、なぜ弟君の権中納言殿は」
「なぜ弟にだけは許すのかということですね。あの子は私の男兄弟の中でも末っ子で、あまり出世はしないでしょう。だから実家からの後見付きの姫などは、いらないのです。でも、兄たちは違います。兄たちはこれからどんどん出世していくのですから、後見のない姫を娶ったところで一時の弄びものにするのが落ちです。私が心こめてお世話してきた姫が、そのようなものにされたらたまりません。その点、弟なら出世と関係ないだけに、いつまでも姫を愛しててくれると思います」
「しかし、権中納言殿がなぜわが妹を」
「あの子は私に会いに、しょっちゅうこの屋敷には出入りしていますからね。女房たちからでも噂を聞いたのでしょう。あるいは兄たちからでも」
権中納言には源左大臣の娘という妻がすでにいることが気にはなるが、今の妹にとっての幸せはこの話をおいてほかにないのではないかと薫は思った。
権中納言の出世出世と血なまこになっている兄たちよりはずっといい。それに、権中納言なら全く見ず知らずの人でもないから気が楽だ。
妹と権中納言が結ばれれば薫は権中納言の小舅となり、この一族との縁は深まる。陰謀と策略が渦巻く泥どろとした一族ではあるが、やはり薫にとっては実の父親の家系なのである。
「いかがでしょう」
「願ってもないことで。すべてをお任せ申し上げます」
だから、薫はそう答えておいた。そしてそのまま顔を上げて、もう一つの心のわだかまりをこの場でぶつけることを思いついた。
「話は変わりますが、一つお伺いしてよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「ここだけの話として聞いたことなので、どこから聞いたかはお許しください。実は」
薫は声を落とした。
「兵部卿宮様を次期東宮にというお話があるとのことですが、本当ですか?」
すぐには皇太后の返事はなかった。だから、言ってしまってから、薫は聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと見を固くした。
「はい。父の摂政はそのように考えております」
皇太后の声も、小声になった。
「それについてですが、もし誤解があるといけないので申し上げておきます。父の摂政はあなた様や姫の父君であらせられた光源氏様に、それはそれは御恩を感じておるのですよ。光源氏様は小野宮流の陰謀であのようなことになってしまいましたけれども、同じく次期東宮に決まっておりながら同様に小野宮流の陰謀で東宮になれなかった今の式部卿宮様のこともお気の毒に思っておりましてね。式部卿宮様の妃はあなた様の姉君、すなわち光源氏様の娘御ですからね。ですから父は光源氏様の御恩に報いるためにも、また式部卿宮様のご無念さをお晴らし申し上げるためにも、式部卿宮様を次の東宮にと考えたのです。ところが式部卿宮様は、それを固辞されまして……。一度は望んだけれど砕かれた夢であるし、それに今の主上、東宮の次となればずっと先のこととなって、番が回ってきた時にはご自身生きておられるかどうか分からないと。それで代わりに年若いご自分のご子息をと、摂政殿に仰せになったとのことです」
それで匂宮を東宮にという話が降って沸いたのかと、薫は納得した。これなら摂政の策略どころか美談である。だが、心の奥底では納得しきれていなかった。それだけならなぜ、自分の娘を匂宮の妃にするのだろうか……分からない。
薫は余計に頭がこんがらがり、複雑な気持ちとなった。摂政の善意なのか、あるいは策略なのか……。
とにかくどちらであれ薫にとってはさほど影響はしないから、その話はそこまでとしてて皇太后のもとを辞した。
それから妹のところに行って表向きはまだ異腹の兄妹ということになっているので御簾越しに話をしたが、在五中将の物語のことなどを少し話しただけで早々に引き上げた。
東三条邸を出た時はもうすでに夜になっていたが、その足で薫は二条邸に行った。二条邸の周りには相変わらず篝火が焚かれ、侍が警護をしていた。薫は西ノ対から延びた細殿の先の持仏堂から上がり、細殿を通って西ノ対に入った。
「あ、今は……」
取り次ぎの女房は、困惑した顔だった。だが、かまわず薫は中に入った。
「今は、困ります。どうか、どうかお待ちを」
女房は必死になって止めたが、どうせ姉の言いつけで自分の来訪を阻止しているのだろうとそれを強引に振り払って廂の間に入った薫の目に、息をのむ光景が飛び込んできた。
匂宮は燭台を十本くらい並べて昼のように明るくした部屋で、女房を抱いていた。しかもその女房は衵と袴という裸姿どころか、まるで庶民の女よろしく乳房も下半身もあらわになった全裸にさせられ、明るい光の中で匂宮に弄ばれていたのである。
「宮様っ!」
立ったまま、薫は一括した。その匂宮の手が一瞬ひるんだ隙に女房は自分の衣をつかみ、それを抱えて走り去った。よほど無理やりな行為だったらしい。
「なんだ、兄君ですか」
「なんだではありません」
匂宮も衵だけの姿だった。明かりが多いから、その顔もよく見える。真顔だが、目が据わっていた。
「宮様」
薫は、近づいてしゃがんだ。いつもの香の香りではなく、今宵は酒の臭いがぷんぷんした。
「お酒ですか」
「ああ、昼間から飲んでいますよ。そして、この対ノ屋の若い女房は、全部ものにするんです」
「そんなことをして、何になるのです。それでお心が晴れますか?」
力を無くして、匂宮はその場に座り込んだ。肩で息をしている。
「うるさいんですよ、兄君は。兄君に私の気持ちが分かりますか! 何なんですか、あの篝火は! 冗談じゃないっ! 私はいったい何なんです? 籠の中の鳥ですか?」
匂宮はそのまま、泣きだした。匂宮の涙を見るのは、薫も初めてだった。心の底から哀れに思ったが、今の薫には話しかける言葉を持っていない。
自然と、薫の目からも涙がこぼれてきた。そして匂宮の両肩に、そっと手を置いた。匂宮はまだ泣き続けている。薫は鼻をすすった、何かをしてあげたい。だが、何もしてあげられない。薫にはそれが悔しかった。だから、ともに泣くしかなかった。
しかしその反面、うらやましくもあった。薫は女のことで、これほどまでに泣いたことはないのだ。
そして、そんな薫のもとに宇治の弁の君から一通の文が届いたのは、その数日後だった。まさしくそれは、薫にとっては青天の霹靂ともいえる衝撃だった。
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