それからすぐあとに、匂宮は単独で宇治に行こうと試みたようだが、失敗に終わった。

 薫はこの頃、右小弁という役職はそのままに蔵人となった。これから薫は蔵人弁と呼ばれる。いよいよ出世コースに乗りはじめたわけだが、それは薫にとってどうでもいいことであった。

 蔵人は近衛府と弁官からよく任命され、この時の蔵人頭もそれぞれから一人ずついた。

 近衛府からの蔵人頭、すなわち頭中将はあの狐顔の小野宮中将で、弁官からの蔵人頭、すなわち頭弁は五十歳過ぎの右大弁だった。

 薫は弁官だからその頭弁の方の指揮下で、狐顔の配下ではなかったからまずはひと安心だったが、その頭弁というのは怨霊となって薫の今の主人である冷泉院をお悩ませ申し上げた前民部卿の九男だからあまり気持ちはよくなかったが、狐顔よりかはましであった。

 さらに、その時期に帝の御父の一院法皇が比叡山にお登りになるという行事があり、蔵人として薫がてんてこ舞いする第一歩の初仕事となった。

 法皇はまず新築された摂政の東二条邸にお入りになり、そこの馬場で馬競べがあった。薫はその時点から、蔵人として借り出された。

 そして一乗寺にお泊まりになった法皇は翌日には比叡山に登られ、延暦寺の戒壇院で正式に受戒を受けられた。そして帰途は、甥に当たる新院法皇をお訪ねしたりしている。

 それらの一連の行事が終わってから薫はようやく忙殺された公務からほんの少しだけ解放されたので、やっとの思いで二条邸を訪れた。

 そしてそこで、匂宮の単独の宇治行きが失敗に終わった理由が納得できた。西ノ対の周りは侍所の家司が固め、夜も宮廷の衛士よろしく篝火を焚いて、侍が一晩中交代で番をしているのだという。

 これからますます寒くなるのに侍もご苦労なことだと思うが、命じたのは匂宮の母に決まっている。

 しかも薫が西ノ対に近づこうとすると侍に阻止され、北ノ対に行くように告げられた。どうやら姉が、薫が来たら自分の所によこすようにと、侍にかねてから言いつけてあったようだ。

 また小言かと、薫は身を硬くしながら北ノ対に向かう渡廊を歩いた。前には匂宮を監視せよと言っていたくせに今日はこうして西ノ対に行かせないような措置を取ったところを見ると、姉はどうも薫が匂宮をそそのかしていると思っているらしい。

 案の定、北ノ対で姉の前に座ると、姉からは鋭い言葉が発せられた。

「兵部卿宮の目当ては、どうやら宇治のようですね」

 薫は一瞬ぎくっとなった。どこのおしゃべりが情報を入れたのだろうかと思っていると、姉の方からその答えは返ってきた。

「源宰相右衛門督様がお知らせ下さいましたのよ。宇治ではあなた、文を使いに持たせて走らせたそうではありませんか。あのような山里で文といえば、送り先は自分の腹違いの妹に違いない、それしか考えられないと右衛門督様はおっしゃいましてね」

 見られていたのだ。薫の身はますます固くなった。

「そのお文というのは、あなたのお文ですか? それとも我が子の宮のお文ですか?」

 薫は口ごもったまま、何も答えられなかった。

「お相手が二人の姉妹と申しますから、あなたのお文だったとしても安心はできませんわ。この屋敷の中には、事情を知っている侍もおりますからね」

「姉上」

 薫は咳払いをして、膝を一歩前に進めた。こうなったら開き直りだ。

「姉上はどうして、ご自分の御子息をいじめなさるのですか?」

「いじめる? わが子をいじめる母親が、どこの世界にいまして?」

 姉の剣幕に一瞬たじろいだが、それでも薫は負けていない。

「いじめというのは言い過ぎかもしれませんが、それにしてもあまりのお仕打ちです。宮様の真剣なお気持ちを、分かってあげて下さい」

「そうはいっても……。宇治の姫君は確かに私やあなたの従妹で血筋に問題はありませんけど、でも何の後見もないじゃありませんか。お父宮は亡くなっておられますし」

「後見なら、この私が……」

 姉は、突然笑いだした。笑われても仕方がないことを言ってしまったのだから、薫はうつむいた。

「あのね、この際はっきりと言っておきますけど、あの子には摂政殿下という後見がつくのです。もうすぐ」

「摂政殿下? そういえば前に、摂政殿下からのお話がどうとかこうとかって言われてましたね」

「そう。摂政殿下の六の君をあの子にって、式部卿宮様にお話があったのですよ」

 そういうことだったのかと、薫は舌を打った。そうなれば、匂宮は摂政家の婿となる。

「でもどうして、一親王家に摂政殿下が……」

「ここだけの話ですよ」

 姉は声を落とした。

「摂政殿下は、次の代の東宮にはあの子をって、そうお考えのようなんです」

「えーー!」

 薫は目をむいた。それはあまりにも突拍子もない話である。それと同時に、おかしくもなってしまった。

 匂宮が東宮となりやがて帝になるなど、絶対にがらでもない。こんな型破りな帝など、見たことがない。

 しかし今は、そのようなことをおかしがっている場合ではなかった。

 今は帝よりも東宮の方が年が上である。代が変わって今の東宮が即位されても、年齢的にその御在位は短いかもしれない。その東宮妃は、摂政の三の君である。帝はまだ童形で、その加冠のあとでは六の君は年齢不相応となる。だから摂政は「わしの目の黒いうちに」と、矛先を匂宮に向けてきたようだ。

 つまり六の君を匂宮に入れておいて、やがてその立坊と即位を目論んでいるのだろう。

 本来は王という身分であるべき親王の子の匂宮に破格の親王宣下がされたのも、このような目論見のための伏線であった可能性すらある。

「姉上。摂政殿のお考えはさもありなんと思いますが、しかし姉上はどうなのです? 宮様がご即位あそばされましたら姉上は国母となられるわけですよね。姉上まで、そんなにまでして権勢がほしいのですか?」

 薫の声も、うなるようだった。

「そうではありません。お聞きなさい。実は明石の母から伺ったのだけど……」

 姉にとって明石の母といえば、表向きは養育係となっていた実の母親のことである。

「明石の母の父上の明石の入道は、こんな夢を見られたんですって。須弥山を手で持って、その上を太陽と月が照らしていたとか。その直後に明石の母が生まれたので、この娘こそ将来の国母として育てられたと聞いています。でも母は父上と結ばれて、それで国母への期待は私にかかったというわけなのですよ。お分かりですか? 私が国母になるのは、明石の入道様がこの世に残された願望なのです。式部卿宮様が東宮になれなかったことでその夢も一時は崩れましたけど、今その夢が再び実現しようとしているのです」

「そうですか」

 熱っぽく語る姉の気持ちも分かるだけに、薫はうつむいて息をついた。

「ですから西ノ対を侍に警護させたのも、実は式部卿宮様の御命令なんです。ご自分が東宮におなりになれなかった無念さを、ご自分の息子に託しておられるのです。ですから、どうか……」

「しかし、匂宮様のお気持ちはどうなるのですか?」

 匂宮は当然この話は知らないだろうし、知ったところであの匂宮のことだから、所詮は遠い昔に死んだ老人の夢の話だと鼻で笑うだろう。あるいは、そんな夢に付き合わされて自分の人生が左右されたらたまらないと息巻くかもしれない。

「そんなにその姫が好きなら、この屋敷で女房としてでも召し抱えればよいではありませんか」

「そんな……」

 薫はどう答えたらいいか分からなかった。仮にも一度は臣下としての最高位に登り、後には二たび親王となった人の娘を女房にするという姉の発想が理解できなかった。

 どうも姉はまだ匂宮がただ宇治の姫のもとに忍んで行っているだけと思っているようで、三日通って婚儀が成立したことは知らずにいるらしい。

 とにかく薫は、自分がどういう立場でどう行動するべきか判断に迷った。匂宮の顔を見たらまた余計に自分が悩んでしまうことになると思い、姉のもとを退出した後も薫は西ノ対には行かず、そのまま東の大門から帰っていった。

 この日は冷泉院ではなく、高松の自邸の方に薫は戻った。一人でゆっくり考えたかったからである。中君を匂宮の屋敷の女房になどというのは論外としても、匂宮を中君と結びつけたのは軽率だったかもしれない。本当に匂宮や中君の幸せにつながる措置だったのかどうか、今になっては疑問を感じてきた。

 ……いっそうのこと大君が言ったように、自分が中君と結ばれていたら……匂宮には一時的に恨まれようが、彼には摂政家の婿――次期東宮という将来がある。摂政家の婿にでもならなければ、次期東宮は難しいだろう。摂政としては自分の娘を次期東宮妃にするのが、この話の目的であることは明らかだからだ。

 もし自分が中君と結ばれていたら……と、薫はさらに自邸で一人で考え込んだ。自分なら中君のところに自由に通えるし、都に呼び寄せるのも簡単だ。同時に大君の世話をして差し上げることもできる。亡き御父の宇治の宮への義理も立つ。

 いや、だめだ! ……と、薫は激しく首を横に振った。自分は大君を愛している。中君ではない。その事実を包み隠して中君と結ばれたら中君に失礼だし、自分のくするところではない。

 かつて中君と同じ部屋に二人きりで隔てもなく一夜を過ごしたのに、指一本触れなかった。男としては変人かもしれない。中君も大君に劣らず美人であるし、おっとりとしていて好ましい性格でもある。そんな麗人と夜に二人きりでいて、自分は何もしなかった。もっとも向こうから袖を引いて来たらどうなったかは分からないが、中君はまずそんな女性ではない……。

 薫のいる部屋には、女房たちはすでに誰もいない。そんな中で薫はそのようなことを、灯火を見つめていつまでも考え続けていた。

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