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予想通り匂宮の母の、その息子への監視はますます厳重になった。
薫もものすごい剣幕で意見を言われ、もしそれに抗えば薫さえもが二条邸への出入り禁止を食らいそうなほどであった。薫としてもそのようなことになったら困るので、匂宮と中君との結婚を姉に打ち明けることもできずにいた。
そのうち、紅葉の季節となった。そこで薫が思いついたのは、宇治での紅葉の逍遥だった。昨年も計画していたことだが、昨年は宇治の宮の薨去で中止となっていたので、それを今年にというのである。
姉はまだ匂宮の出歩き先が宇治だとは気がついていないようだし、宇治には摂政の別業もあるのでそれをお借りするとすれば、匂宮を宇治に連れ出すにも名目が立つ。
この考えには、匂宮も喜んでくれた。ただ、摂政の別業を借りるとなると半ば
当日は薄曇りで昼間でも肌寒く感じたが、宇治はまさしく紅葉の盛りだった。
摂政の別業の川に沿った庭には楽人が招き入れられ、庭のよく見える廂の中央の階の上に匂宮と薫の席が並んで設けられた。
廂と簀子の間の半蔀は上も下もすべて取り外され、柱だけとなっている。廂には薫たちのほかにも殿上人の席が設けられ、摂政の別業を使うのに摂政の身内が一人もいないのはばつが悪いということで薫が招いた摂政の次男の右中将がいた。かつて薫がほんの短い間だけ右近衛府にいた時の上司で、亡き宇治の宮がその加冠役を務めた関係で薫は誘った。
宴が始まった。川にも舟が浮かべられ、音楽が奏でられる。それはちょうど対岸の山荘にも聞こえているはずだ。
薫は前もって、宴のことは山荘に知らせてあった。そして、匂宮を必ず連れて行く旨も言っておいた。
宴の人々の中には文章博士もいて、夕方になると詩作の興も始まった。楽は海仙楽である。人々の目の前には菓子や、新鮮で珍しい川魚などが並べられていた。
匂宮は酒が入っても酔いきれず、いらいらしている様子を薫は見ていた。楽を
庭に篝火が焚かれた。舞台では舞いも舞われ、
それでも夜は更けて、ようやく宴も終わりそうな気配となった。ところがその頃になって、別業は再びざわめきはじめた。左手の川の下流にかかる宇治の大橋の上に無数の松明が並んでいるのが遠目にも認められ、前駆の声さえ聞こえてきたのである。
やがて到着したのは、源宰相右衛門督だった。つまりは、川向こうの姉妹の異腹の兄である。普段そう親しく接してもいないはずの人なのになぜ来たのだろうという疑問が、薫の頭の中に浮かんだ。裏に何かあると、ついつい勘ぐってしまう。しかもきちんと束帯で正装し、供の数も仰々しく、同行してきた殿上人も多かった。
その中には摂政の五男の権中納言もいた。
まずは宰相右衛門督が、匂宮の前に手をついた。
「宇治はわが父宮のゆかりの地であり、また
ゆっくりと、初老の男は言上した。摂政は余計なことをすると匂宮が舌打ちしているであろうことは、薫にも容易に察しがついた。しかも、薫の姉が言っていた摂政殿下からのいい話ということも考え合わせると、これはどうも目の前の宰相右衛門督よりも摂政のたくらみであるらしい。
やっと終わりかけた宴も、これで再開してしまった。しかも、先ほどよりもずっと大人数になってしまった。
「さ、宮様、寒うございます、奥へ」
匂宮は宰相右衛門督に、奥へと引き込まれてしまった。匂宮が内心頭を抱えている様子が薫にははっきりと分かったが、薫とて同じ気持ちだった。もはや今宵の牽牛の天河渡御は不可能と思われた。
薫のそばには権中納言がつききりとなり、盛んに酒を勧めてきた。
「権中納言殿こそ、どうぞ。私はもうさんざん飲んでいますから」
薫はしらふである権中納言に逆に酒を勧めた。かつては左衛門府で同じく少将を務めていた仲だから親近感は持っていたが、今宵ばかりは少しだけこの若者が疎ましかった。
「これはこれは源の弁殿、恐縮です。紅葉の逍遥といえば、あの大堰川での時もごいっしょでしたよね。父の東三条邸での宴以来、宮中でもあまりお見かけしませんが、お変わりありませんか?」
なぜか今日は、今までになく権中納言はなれなれしい。座もどんどん近づけてくる。かつて同僚であったこの二十三歳の若者が、今では太政官のずっと上司になっている。
「宮様は、源の弁殿を兄君とお呼びとか」
「ええ。私は叔父になるのですが、叔父上と呼ばれるのは年齢も近いことですし不服でしてね。それに、幼い頃より兄弟のようにして育てられましたから」
「いいですなあ。私も源の弁殿を、兄君とお呼びしたいですな」
「何をおっしゃいます。権中納言殿には、四人も兄弟がおられるではありませんか。そのうちお二人は母上も同じでしょう」
「それはそうですが、私が源の弁殿を兄君とお呼びしたいと申しましたのは、別の意味ですよ」
「別の意味?」
少し意味深な言葉に、薫はふと杯を持つ手を止めた。
「あ、いえいえ。何でもございません」
急に笑ってその場をごまかしたような様子の権中納言は、また薫に杯を勧めてきた。
「妻のお腹の子も、順調のようですよ」
話によると、年内には出産がありそうだという。
「
薫は笑って、そんなことを口にしていた。
「いやですなあ。浮気は致しませぬ。ただ、妻が一人ではどうにも。それではまるで下賎のもののようで、世間体も悪いですしね。浮気ではなく真剣に愛している女性はおります。といっても、まだ
もうこの若者は、薫のことを兄君などと呼んでいる。
確かに彼は薫の母方の
しかしたとえそうであっても、また匂宮も薫のことを兄君と呼んでいるからといっても、権中納言までもがそう呼ぶ必要はないはずである。
そんなことを薫は思っていたが、なにしろ酒がかなりまわっており、もうあまり思考力を持っていなかった。
薫はふと、匂宮と中君のことのすべてをこの若者に打ち明け、協力を要請し、もうかなり夜は更けてはいるがこれからでも川を渡ろうかとも思った。だが、相手が何かをたくらんでいる様子の摂政の、その五男であるから大事をとってやめた。
とうとうその晩はそのまま宴が続き、明るくなる頃になってようやく果てた。
翌日、かなり日も高くなってから薫は起こされたが、それはまたもや別の客の訪れの知らせによってであった。
客とは宰相源皇太后宮大夫で、言いにくいので皆は中宮大夫と呼んでいる。帝はまだ童形でまだ中宮はいないから、その母の皇太后を中宮様と呼ぶのもよくあることだった。その中宮大夫は源左大臣の長男で、いわば権中納言の妻の兄であった。
そこでまた宴が始まり、楽が奏でられた。そしてこの日の夕刻には、都へ戻ることになっている。
匂宮はしぶしぶといった感じで、酒の席についていた。どうも
距離的にはすぐそばに山荘はある。こんな近くに来ていながら訪れることもできないもどかしさに匂宮は縛られているようだったし、薫もまたそうだった。庭の向こうに横たわる宇治川が、話に聞く唐土の大江のようにも思われてくる。
そこで、自由のきかない匂宮に代わって、薫は几帳の陰に隠れて文をしたためた。あれこれと言いわけを綴るよりも歌にして、実際は中君あてだが表向きは大君に届けるようにと、身分の低いまだ少年ともいえるような若い侍に託した。
「山荘へ行ったら、弁の君という女房に取り次いでもらうように門番の侍に言え。返しは中君様から匂宮様へということで頂いてくるのだぞ」
そう言って薫は、侍を走らせた。夜だったら闇にまぎれて小舟を出させることもできるが、昼間では目立つので、侍には遠回りになるが宇治の大橋を渡らせた。
秋ならで などか越ゆべき ひこほしの
燃ゆる思ひに 川のあふれて
衣かたしき」
届けさせたのはそのような歌で、奥書の「衣かたしき」は、「さむしろに 衣かたしき 今宵はも 我を待つらむ 宇治の橋姫」という古今集の歌である。返事はすぐにきた。それは中君の手ではなく、明らかに大君の筆だった。
瀬をはやみ 氷もはらぬ 天の川
峰の赤松 出づる小舟を
ひととせにひとたび」
その奥書からも、かなりの落胆がうかがわれる。それは在五中将の物語の中の歌、「ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞ思ふ」の一節であるが、結構厳しい辛らつな皮肉ではある。
これをそのまま匂宮に見せたものかどうか薫は悩んだ挙げ句、手が大君のものであるのであえて自分の懐に入れた。中君は傷ついて自ら返事を書こうともせず、仕方なく大君が代筆したのであろう。そしてその奥書は中君から匂宮へというよりも、大君から自分への言葉のように薫には思えてならなかった。
夕刻には、予定通り宇治をあとにすることになった。後片付けと掃除の侍だけを残して、大行列はゆっくりと宇治大橋を渡る。匂宮も薫も後ろ髪を引かれるなどという言葉で片付けてしまえるような心情ではなく、車の中では互いにほとんど無言だった。
中君は傷ついただろうと思う。
なまじっか自分が余計なおせっかいで、匂宮を連れていくなどと言わなければよかったと薫は自責の念にかられた。
そもそも、この紅葉の逍遥自体が失敗だった。こんな半公式行事にしてしまえば、このような結果になることは冷静に考えれば予想できたことだ。
しかし立案した時は自分の妙案に酔って舞い上がっていたから、薫はそこまで頭が回らなかったのである。
いずれにせよ今回の失態で、大君の心象をも損ねたであろう。自分に対しても、ますます心を閉ざしてしまうのではないか……いや、今はそんな自分本位のことはどうでもいい……しかし、本当にどうでもいいのか……? いや、よくない……薫は頭が混乱してきて、昼間から飲んでいた酒のせいもあって意識も朦朧としてきた。
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