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 それからというもの、薫は大君の病のことが気がかりで全く仕事が手につかなくなった。

 その頃の都では、尾張の国の郡司や有力農民から尾張守の非道暴虐を訴えた訴状が届けられて物議をかもしていたが、その事務処理のときも薫は心そこにあらずだった。

 権中納言も薫の妹に通い始め、三日目の露顕ところあらわしの儀には薫も顔を出した。だが薫は、本来は心から祝うべき妹の慶事でも喜びに浸りきれなかった。宇治が気がかりで仕方がない。

 そしていよいよ新嘗祭も近くなった。その当日になってしまえば、どんな知らせが宇治からきたとしてもとんでいくのは不可能になる。そう思った薫は、新嘗祭になる前にとまた宇治へと出かけた。

 山荘は読経の声で満ちているはずだった。だが、川べりの道を近づいていっても、その声は一向に聞こえて来ない。川風は冷たく、冬曇りに空もどんよりと曇っているような昼下がりだ。修法がすでに行われていないということで、薫の中で大君の全快という希望と最大限の不吉な予感とが交差した。

 薫は牛を馬のごとく走らせて、山荘へ車を乗り付けさせた。

 取り乱したようもなく普通の顔をして取り次ぎの女房は出てきたので、最悪の事態はなかったようだった。薫は一応はほっとしたが、それでも胸をなでおろすのは許されない状況にあるらしいことは、次に出てきた弁の君の顔色で分かった。

 弁の君が言うには、大君はだいぶ気分がよくなったということで、自ら指図して阿舎利も修法の僧もすべて寺に帰してしまったのだという。やはり大君は快復したのかと薫の心に一条の希望の光が射したが、その光は次の瞬間にはかき消されていた。

「どこかが痛むというわけでもないようなのですが、もう何も召し上がろうとは致しません。お菓子すらお口になさらないので、どんどん弱っておいきになっています。長生きしてこんな悲しい目に遭うくらいなら、今ここで私の方が先に逝きたいくらいです」

 目を真っ赤にしながら、弁の君は袖で涙をぬぐった。大君の症状は、少しも快復などしていなかったのだ。

「中君様には、ご自分は出家して尼になるから、そう阿舎利に頼んでほしいとまで言われたとか」

「どうしてそんな状況だと、私に知らせてくださらなかったのですか」

 薫は弁の君にそれだけ言って、立ち上がって大君のもとに行った。そしてもう何も遠慮することなく御簾の中に入り、大君の枕もとに座った。そして、大君の顔をのぞきこんだ。美しさは変わらないが、その顔には生気がなかった。

「私ですよ」

 眠っているのかとも思ったが、ゆっくりとした動作でその顔は隠された。

「こんな状況だということを誰も私に知らせてくださらなかったものですから、こんなにも遅くなりました」

 その声は大君の耳には届いているはずであったが、返事はなかった。

 薫は首を上げて、二、三人の女房の名を呼んだ。

「侍たちに命じて、寺の阿舎利と僧たちを呼び戻してくれ」

 それから実際に阿舎利と僧たちが来るまで、さほど時間はかからなかった。すぐに、また前のような修法と読経が始まった。

「源の弁様、お疲れでしょう。あちらで湯漬けなどご用意いたしておりますから」

 女房が耳元で囁くが、薫は動こうともしなかった。

 読経は不断法華経である。それを僧たちに命じて転読させることだけが、今の薫にとって大君にしてあげられる唯一の、そして最大限のことであった。

 薫は大君の手をとった。何ら抵抗されることなく、その手は薫の手の中に握られた。こんな時になってやっとと、薫は胸が締めつけられる思いであった。

「どうして、お返事すらして下さらないのですか」

「そうは思うのですが……」

 やっと聞き取れるほどの、か細い声であった。それがまた、薫の涙を誘った。

「苦しくて……言葉が……」

 大きく呼吸を繰り返しながら、大君も目に涙を浮かべた。大君の手を握っているのとは別の手で、薫は大君の髪をなでた。頭の地肌には、かなりの熱が感じられた。

「いったい何の罪業で……あなたはこんなに苦しみ、そして私をも苦しませるのか……」

 大君にもうこれ以上返事をする力はないようだった。薫は女房を呼んだ。

「中君様に、連日のご看病でお疲れでしょうから、今日はごゆっくりお休みくださいと伝えてくれ。ここには宿直人とのいがいるからと」

 言われた女房は、すぐに立っていった。

 その言葉通り薫はそそまま夜になっても、一晩中大君につきっきりだった。

「さ、お休みなさい」

 薫に促されて、大君は眠った。朝になって、薫はふと人の気配を感じて居眠りしかけていた体を起こした。

 だが、眠っている大君のほかには誰もいなかった。

 それでもその気配ははっきりとしたもので、またとてつもなく懐かしく感じられるものだった。

 ――宇治の宮様……。

 薫は心の中でつぶやいた。ちょうど不断経の交代の時で、一節を複数の僧で唱和するところであった。

 薫は立ち上がった。身体的現象で、用を足しに庭に出なければならないこともある。また、大君には女性でないとできない世話もあるから、女房たちにその機会を与えるという意味もあった。外はもう、すっかり明るかった。

 庭から戻りしなに、薫は阿舎利と行き会った。阿闍梨は薫に頭を下げた。

「弟子たちに、常不軽の行もさせますので」

「よろしくお願いします」

 薫も言葉少なげに頭を下げた。

 席に戻ると、大君はもう目を覚ましていた。薫は薬湯を勧めたが、大君は首をかすかに振るだけだった。中君の姿も、几帳の陰に現れた。いくら薫がついているからといっても、やはり姉のことが心配なのだろう。このまま自分がいることで妹を姉から引き離しておくのも酷だと思い、薫は席を譲った。

 こうして昼は中君、夜は薫と、交代で看病は続いた。

 薫は宮中に戻らねばならない日であったが、今はそれどころではない。新嘗祭も近いという時に蔵人の弁が無断欠勤というのは一大事だが、どうとでもなれと薫は思っている。

 もし解任されたらそれはそれでよし、今は公務よりも大事なことがある……官職を失えば、念願どおり僧籍に入るまでだ。僧になって、大君の快復の祈祷をしよう……と、そんなことまで考えていた。そうなれば大君と結ばれることはなくなるわけだが、それでも大君の命さえ助かればそれで十分だ……。

 薫の願いは一つ――大君の快復である。この人の心がほしい、この人と一緒になりたいとひたすら願い続けてきた薫であったが、今はそのようなことはどうでもいいと思っている。

 今はただ、大君に生きてほしかった。たとえ自分に心は開いてくれなくても、とにかく生きていてほしいと言うのが、薫の願いだったのである。

 大君の病状は、一進一退だった。それでも、快復の兆しは見えなかった。


 そしてとうとう、都では新嘗祭の圧巻である豊明とよあかり節会せちえが行われているはずの日となった。今年の五節では、一院法皇の中宮がその縁者を出すことになっている。その中宮とは今の小野宮太政大臣の娘で、中宮であったのに皇太后にはなれなかった素腹の后で、子がないのだから縁者とは女房か家司の娘であろう。

 しかしそのようなことも、今の薫にとっては遠い空の下の出来事にすぎない。

「お気を確かに。あなたに先立たれたりしたら、私は生きていけませんよ」

 ふと大君が目を覚ました機会に薫は耳元でささやいたが、その自分の言葉で薫の目には涙があふれてきた。それでも薫は、涙は不吉だと必死になってこらえた。もう大君は、意識もはっきりとはしていない様子だった。

「まだまだ話したいことは、山ほどあるんですから」

 返事はない。この人をこんなにまで愛して、その愛した人に心を開いてもらうこともなく、おそらくはもうすぐ永の別れとなるやもしれぬ。

 薫は、大君の姿をじっと見つめた。今ごろになってようやく、何の隔たりもなく直接に、しかもこんな近くで大君の顔を見つめることができる。だがその腕も、悲しいくらいに細くなっている。それでも髪はつややかに、黒々と長い。

「妹を、妹を頼みます」

 それは、不意に大君の口から発せられた言葉だった。そして大君は力なく目を閉じ、顔を伏せた。

 薫は大君の実名を大声で呼び、両肩をゆすったが、もはや反応はなかった。

 物陰から中君が飛び出してきた。薫の前に自分の姿があらわになることなど、今はかまってはいられないという様子であった。

「お姉さま!」

 読経がぴたりと止まり、静けさが山荘によみがえった。だがそれも束の間、中君と女房たちの号泣が読経の声に代わって山荘を包んだ。

 薫も泣いた。まさか、こんなことになるなんて……かつては予想だにしていなかった自分と大君の将来であった。今は泣くしかないと、薫は思っていた。

「姫様! 中君様!」

 女房たちが二、三人で、自分たちも泣きながらも、中君の両肩を持って連れて行こうとする。

「亡くなった直後に、身内の方がその亡骸のそばで泣き騒ぐのは、成仏の妨げになると聞いております」

 そう言ってさんざん抵抗する中君を、女房たちはとうとう奥へと連れて行った。だがその泣き声は、薫のいる所まで流れてきている。

 薫は自分の顔を近づけて、その死に顔を見た。

「眠っているのではないのか?」

 薫はつぶやいた。そしてまた涙があふれてきて、あとは言葉にならなかった。

 そのまま、臨終の作法が始まった。女房達によって梳かれた大君の髪からは、ついさっきまでの生きていた時と変わらない香の匂いが立ちはじめた。

 薫も目を閉じてしきりに弥陀を念じ、大君が往生すべく真言陀羅尼を唱え続けていた。それも時折、涙が混ざって途絶えてしまうのであった。

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