12

 大君の葬儀は、その父と同じ阿舎利の寺で行われ、遺体は火葬となった。

 薫は川べりの道に立って、川を見ていた。

 薫は、現実の出来事がまだ信じられないでいる。初めての自分の恋は、全く予想外の結末を迎えたのだ。

 何事もなかったように川に網を張って漁をし、日常の生活を続けている漁師たちがうらやましかった。彼らはこの世の光の中に、確かにみんな生きている。みんなみんな生きてやがる。どいつもこいつも生きてやがる。勝手にいつまでも生きているがいい。しかし、自分の最愛の人はもう生きていないのだ……そう思うと薫は身もだえして、悲しんでも悲しみきれないほどの状況に置かれた。

 漁師たちの笑い顔が目に映る。空は青い。だが空の青さは、薫の心を癒してはくれなかった。漁師たちよ。その笑い声はどこから来るのか。やめてくれ。幸せそうに見える人たちよ……薫は切実にそう叫びたかった。

 ふと、自分が生きていること自体が不思議なことのように思われてきた。なぜ自分だけが取り残され、生きているのか。しかし今の自分を、果たして生きているといえるのだろうか……いつになったら心が落ち着くのか見当もつかない。あるいはそのような日は、永遠に来ないのではないかとさえ思われてしまう。

 中君や女房たちの手前あからさまに大泣きできないのも、薫にとってはまた辛くもあった。そんな薫は従者の一人を都に遣わし、宮中に長期の假文を提出した。都に戻ったとて、触穢なので参内はできない。だから薫はしばらくはここにて、後の世話をするつもりでいた。

 僧たちにも、法要の指示を薫はてきぱきとした。だが女房たちの喪服姿を見るにつけ、心が締めつけられる。中君も父のための喪服を脱いでまだ数ヶ月しかたっていないのに、再び喪服を着なければならなくなった。

 だが薫は大君の正式の夫ではないから喪服を着ることもできず、自分だけが明るい色の直衣で喪服の女房たちに指示しなければならないのもまた辛かった。

 いっそこのまま出家してしまおうかとも思うが、実母のために造営中の三条の新邸のことを考えるとそうもいかない。また、大君の最期の言葉――妹を頼みます……それが心の中で木魂する。匂宮はまだ、二条邸を出られないらしい。


 七日ごとの法要が続くうちに、冬はますます厳しい表情を見せるようになった。宇治には都からの弔いの使者も、たびたびやって来た。宮中にも薫の長期欠勤の理由が知れわたっていて、薫の縁者が遣わしてくれたものであった。

 女房たちが二人以上寄れば自分たちの宿世を嘆いていたが、それは薫とて同じ気持ちだった。やっと巡り会えた理想の女性が、まだ結ばれもしないうちに旅立ってしまった。前世では女性関係でよほどの罪業を積んだのか……あるいは前世でも戒律厳しき境遇にいて、そのごうがまだ魂に刻み込まれて残っているのか……あるいは仏道に専念せんと誓っておきながら女人へと心を動かしたことに対する仏罰なのか……いずれにしても残酷すぎた。

 これから自分はどうやって生きていったらいいのか……今の薫には、先のことが全く見えなくなっていた。

 夜などは自分ひとりでいると身もだえしそうになるので、薫はいつも女房を二、三人はそばに召して語り明かした。

 中君に対しても時々は女房を介して慰めの言葉などをかけているが、同じ屋根の下に住んでいながら大君の葬儀以来、まだ一度も物越しででさえ話をしてはいない。

「大君様のご病気も、やはり兵部卿宮様のことが気がかりで、妻となられた妹姫様をお案じになってのことと思われます」

 ある晩、老いた女房が喪服の袖で目をこすりながら、薫に訴えてきた。それもあるかもしれないと、薫は思う。匂宮の事情は分かってはいるが、自分がこんな悲しみに打ちひしがれている時に、もしかしたら匂宮は今夜もいつぞやのように酒に溺れて若い女房たちを片端から抱いているのかもしれない。もしそうだとしたら許せないという気持ちも、薫の中で湧き上がってきた。

 薫は昼間は、つとめて庭には出ないようにしていた。庭に出て、すぐ近くの宇治の川の流れを目にすると、思わず身を投げたくなる衝動にかられるからだ。

 それでもこの日は久しぶりに、薫は簀子に座って庭を見ていた。対岸では、摂政の別業が甍を競っている、本当にすぐ近くなのだ。そんな景色を見ながらも、薫の中に口惜くやしさがこみ上げてきた。

 死というものが、自分の大切な人を奪っていった。死よ、愛する人を返せと、薫はどんよりと曇った空に叫びたくなった。

 まだほかの男に取られたというほうが、どんなにか気が楽だったかしれない。それは、男として自分が至らなかったからということになる。しかし、死を前にして、それにどう抗えたというのか……薫は今や、口惜しい男になっていた。

 今日も風が冷たい。あまりにも寒いから中に入ろうとした時、薫の目の前に白いものが散った。初雪だった。


 夜になってから雪は激しくなり、どんどん積もりはじめた。風も強く、外は吹雪になっているようであった。風が格子を吹き上げては下ろし、山荘は爆音に包まれた。女房たちは恐がって、ほとんどが薫のそばに集まってきている。

 今や薫は客間ではなく、故宮の居間となっていた所に寝起きしている。しかしそれでも、とにかく寒い。いくら炭櫃を抱え込んでも、少しも暖にはなりはしなかった。

「中君様は、どうしていらっしゃいますか」

 あまりにも大勢の女房が自分のそばにいるので、薫はふと気がかりになった、もしかしたら一人ぼっちでいるのかもしれないと思ったのだ。ただでさえ姉を亡くして孤独な身の上になっているのだから、このような時こそ夫である匂宮がそばにいるべきなのだ。だが、もうそれはあてにはならない。

 大君の最期の言葉を思うにつけ、薫はあることを考えていた。中君を都に連れて行こうというのである。

 いくら愛した人との思い出の場所だからといって、薫はいつまでもここにいるわけにはいかない。年が明ける前には、都に戻らねばならない身だ。

 そこで帰洛の折には中君も伴って、本来は大君を迎えるつもりだった新築中の三条邸の対の屋に大君の形見として住んでもらい、親しくお世話をさせていただこうかと薫は思っていた。そのことについては、冷泉院もご援助を下さると思う。薫からだけでなく、冷泉院にとっても中君は従妹いとこなのだ。

 そのことを今、薫は女房たちに告げようと思った。ちょうど女房たちはみなひとところに会しているし、弁の君もいるのでいい機会だった。

 ところがその矢先、庭先で馬のいななく声が聞こえた。そしてすぐに、妻戸を叩く音がした。

 女房たちは怯えきって、ひとかたまりとなった。何しろこの吹雪の夜である。だれもが夜盗と思っても無理はないし、それが自然だった。

 薫は手に太刀を鞘ごと持って立ち上がり、ゆっくりと妻戸の方に近づいた。そして勢いよく妻戸を開けた。そこにはびしょぬれで、ぼろぼろになった男がいた。

「匂宮様!」

 その声に、中の女房たちもざわめきだした。匂宮は肩で息をしていた。よほど馬を飛ばして来たらしい、しかも供も連れずに全くの単身だったのである。

 薫は、宮の来訪に心が熱くなった。よく来てくれたと言いたかった。だが、わざと心を鬼した。

「今ごろになって、何しに来られた。宮様」

「何をおっしゃいます。こんな吹雪の中を、道を迷いつつやっとたどり着いたのですよ」

「今まで放っておいて、中君様が姉上が亡くなったことで打ちひしがれているこんな時に、よりによって来られるとは。今は、喪中なのです」

「だからこそ着たんじゃあないですか。私の事情はご存じでしょう。私とて中君の心を慰めたくて、弔問の意もこめて、やっとの思いで抜け出してきたんですよ。今日は都も嵐で、守りの侍の隙を見て脱出してきたのです」

 匂宮はよくしゃべる。その間にも、薫は女房に目配せをしていた。

 しばらくして、薫の意を汲んで中君に取り次いだ女房が、簀子にいる二人のそばに出てきた。

「中君様は、今宵はお会いになりたくないと」

「それはそうでしょう」

 薫は吐き捨てるように言ってから、畏まっているその女房を見下ろした。

「お伝えください。お気持ちは分かりますが、夫婦めおとの仲なのですから、あまり冷淡になさらない方がよろしいか、と」

 その女房への言いつけを聞いた匂宮の顔は、パッと輝いた。

「兄君!」

 しばらくしてから、やっと女房は匂宮を案内していった。しかしそこは、薫がかつていつも通されていた東の廂の客間だった。中君は、今宵は物越しででしか匂宮と対面しないつもりらしい。

 翌朝になって、薫は女房たちに匂宮への朝餉の準備の指示などをしていた。それから東の廂の間に行って匂宮と対座した。

「すっかりここのご主人ですね」

 匂宮は、にこりともせずに言う。

「兄君。少しお痩せになったのでは? お顔色もよろしくない」

 顔色がよくてたまるかと薫は思ったが、あえてそれは口にしなかった。

「昨夜は?」

「結局、物越しで。しかも、すぐに奥に入られてしまいましたよ」

 やっと匂宮は笑った。しかし、それは苦笑だった。付き合いで同じような笑みを見せた後、薫は言った。

「中君様を、私の三条邸に引き取ろうと思うのですが」

「え?」

 急に血相を変えて匂宮は身を乗り出し、今にもつかみかかってきそうな様子となった。

「だめですよ! 中君は私の妻だ。いくら兄君とて!」

 それでも薫はひるまなかった。

「でも、宮様が二条邸に引き取ることはできますか?」

「それは……」

 匂宮は口ごもり、返答に窮していた。

「中君様は三条邸の対の屋に住まわせますから、宮様は夫君としてそこに通ってこられればいい。私はあくまで保護者です」

「しかし……」

 そうは言っても、匂宮は二条邸を容易には抜け出せない。だが、二条邸と三条邸は、ちょうど対角線上にその角が接していることになる。

「せいぜい築山の陰の南に築地に、破れでも作っておくことですね」

「いや、だめだ。まずい。兄君の屋敷にだなんて」

 匂宮は真剣に悩んでいた。それが薫には、少しだけ滑稽だった。

 どうやら匂宮は、中君が薫に心を移すのではないかと、そのようなことを心配しているらしい。そのようなことがあるはずないことは、薫がいちばんよく知っている。

 だが、この話に決着がつく前に、匂宮は都に戻らねばならない。母の目を盗んで、西ノ対に入らねばならないのだ。もっとも、もうとっくにばれている可能性も非常に高い。

 薫は匂宮を見送ったあと、その来訪が悲しみのどん底にある自分の心を少しでも慰めてくれたことを、薫はひしひしと感じていた。大君の死以来、久方ぶりに心の落ち着きを取り戻したような気さえしていた。

 その薫自身も、そろそろ都に戻らねばならない頃が来ていた。そこで残されて不安がる女房たちに、大君の四十九日には必ず再び来ることを約していたその時である。

 匂宮からのふみが届けられた。文は二通あり一通は薫宛て、もう一通は中君宛てだった。宛名は書いていないが、真名の宣命書きは薫に、仮名の草書は中君宛てだというのは常識である。

 その文によると、中君を二条邸に引き取ることを母――薫の姉が承諾してくれたということであった。もちろん匂宮と中君の結婚も、正式に承認しての上でのことだという。

 これは奇跡だと、薫は驚いた。薫がこんなにも公務を長欠して大君の弔いなどを行っている熱情を考慮し、その大君の妹の姫なら間違いないだろうという姉の考えだったらしい。文にもそのようなことを匂わせる内容があった。

 これでよかったと思う反面、薫は少しだけ寂しくもあった。これで中君は匂宮と落ち着くが、自分に残されたものは大君との思い出だけだ。もとの振り出しに戻って、薫はため息をついた。

 そんな時、大君が故宮の一周忌のために作っていた組み糸の総角あげまきがあったはずだと、薫は思い出した。それを女房に探させて手にし、催馬楽さいばら総角あげまきをも薫は思い出していた。

 総角あげまきは総角髪という童形の印である髪型からその名があるが、唐土で総角そうかくといえば妻のいない独身男の意味である。高麗人こまびとの言う総角チョンガーも同じ意味だ。

 薫は結局その総角そうかくに戻った。形だけの妻がいるとはいえ、心は生涯独り身を通すと誓っていた昔に戻っただけだった。

 だが、全く昔と同じかどうか。昔のように、仏道一筋に思いを馳せることができるかどうか……それを思うと、確実に昔とは違っていることに気づく。大君の面影が、今の薫の心の中にはしっかりと残っているのであった。


(つづく)

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