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そのまま月日は流れ、院の女一宮の着袴の儀も行われ、帝が御自ら腰結をされた。そしれ暮れになってようやく、帝や院そして源氏の故父院の勅願寺の五重塔の落慶供養も行われた。完成からすでに一年三カ月が過ぎていた。
その頃になって大后はようやく主殿寮から内裏に入り、その生涯の最も長い時間を過ごした弘徽殿に戻った。
そこは大后にとって入内に際して初めて入った殿舎で、女御や中宮時代もそこで過ごし、亡くなった院が幼少時に昼も格子を上げさせずに養育した所でもある。そこへ彼女は、起居もままならぬ体となって再び戻ったのである。大后の身の周りは、すべて中宮職が世話をしていた。院にも中宮はおらず、今上帝もまだ中宮をお持ちでないので、大后は太皇太后ではあっても太皇太后職を置かずにいまだに中宮職を設けたままであった。
その頃、源氏にとっても一つの変化があった。加冠以来
年が明けた。大后の病もまだ重く、正月の小朝拝も中止となり、宴のみが行われた。
そんな月末の
源氏は姉の誘いで九条邸を訪れたが、若菜を供するとなると当然宴を伴う。しかも、この春に四十になった源氏の四十の賀の意味をこめてであることは明らかである。
源氏としては朱雀院の法皇の喪が明けるまで一切の賀は断るつもりでいたが、余りに突然ことが運び断りきれなかった。しかも宴ともなれば、なおざりで済むはずもない。それでも源氏のあまり仰々しくしないでほしいという意を汲んで、源氏の座は宴の主人のような椅子ではなく、畳の上の
源氏が九条邸に着いたのはまだ早朝であったが、すでに邸内では準備が進んでいた。屏風も几帳も皆新しいものが据えられており、調度なども皆この日のために新調したようだ。
宴の前に、源氏は北の対で姉に会った。同母姉なのでその間に御簾はいらない。姉はもうすっかり、白髪が目立つようになっていた。源氏には父を同じくする兄弟姉妹は多いが、母も同じ兄弟は少ない。だからこの姉は貴重な存在である。
姉は降嫁した右大臣との間に、子も何人かもうけていた。
「朱雀院の女三宮は、私の手元でお育てしてますよ」
微笑みながら、姉は言った。源氏も、思わずにっこりとした。
「それがいちばんですね。何しろ内親王宣下のあった
「どうぞご心配なく。責任を持ってお預かりしておりますよ」
「かわいい盛りでしょう。今年四つですから」
「それが何とおとなしいお子でしてね、乳母たちも手がかからなさすぎて張り合いがないと、半分ぼやいておりますのよ」
姉はまた笑った。源氏もそんな姉の様子に微笑んでいた。
今、寝殿の方であれこれ準備のために立ち働いているのも、右大臣の数ある子息のうちこの姉の腹の子たちであるという。皆十代の若者だが、加冠が済んでいるのは一人のみで、あとの二人も童形ではあっても加冠ももう間もなくという青年となっている。
やがて参列の公卿も座についたと、源氏を呼びに来た若者がいた。童形の中の一人であったが、すでに童殿上しているので源氏にとっては見知った顔であった。たしか、もう去年の西宮邸への帝と院の行幸の時、御前で「賀王恩」を舞ったあの少年だ。
「姉上のお子ですね。たしかまちをさの君とか」
「ええ、よく覚えておいでで。殿の八郎君で、私にとっては二番目の子です」
「見た感じ、もうそろそろ加冠をしてもいいころでは」
「そうですね。もう十四ですから」
母親と叔父の会話の間で、若者はただ控えていた。
「今年中にはと思っているんですよ」
「添伏の姫は?」
姉は首を横に振った。
「殿が、まだ待てと」
「なるほど」
姉のひと言で、源氏にはすべて合点がいった。
右大臣は朱雀院の女二宮を自分の息子の誰かに娶わせたいと、そう帝に申し上げていた。その誰かとは、八男であるこの若者のようだ。やはり内親王降嫁は内親王腹の息子にということのようで、源氏はその右大臣の周到さに舌を巻く思いであった。
それにしても、当の相手はまだ五歳である。この若者は、これから相当待たされることになりそうだ。
源氏は自分を呼びに来たその甥に、ゆっくりと呼びかけた。
「相分かり申した。今、参る」
それからすぐに姉に視線を戻して苦笑した。
「この宴は有り難くもありますが、少々恨めしくもなりますよ。初老に達したことを、はっきりと認識させられてしまうではありませんか。子の成長ほど、自らの老いを感じさせるものはありませんからね」
「まあ。あなたがそのようなことをおっしゃっては、それよりも年かさの私はどうしたらいいのかしら」
内親王はあくまで上品に、それでも声を上げて笑った。
宴が始まった。籠物の料理が四十枝、折櫃に入ったものがやはり四十、そして源氏の前には四つの食台が並べられた。
朱雀院の喪中であるため楽人の参入はなかったが、それぞれに楽器が持ち出されて演奏は行われた。右大臣は
いつの間に……今までなぜ隠しておいたのだろう……そんな声が、参列した公卿や源氏の兄弟の親王たちの間でひそひそと交わされた。
「少年にしてかくのごときの聡明さは、古来より希なことだ」
誰かが高らかに言うと、人々の間で喝采が沸き起こった。
やがて源氏の前にも筝が差し出された。宜陽殿の御物で、故父院がお使いになっていたものだ。この日のために、右大臣がわざわざ借り出してきたのである。源氏はゆっくりと、その糸を弾いた。人々は息をひそめて耳を傾けている。源氏にはいつしか亡き父のことが思い出されてきて、その目には涙があふれてきた。
そのうち日もとっぷりと暮れて庭には篝火が焚かれ、
やはりここでも右大臣の三男である二十五歳の右兵衛佐が、往時の「高砂」よろしく高らかに「青柳」を歌った。それに源氏の長男の左兵衛佐が笛を合わせ、その左右の兵衛佐の合わせる歌と笛に人々はしみじみと聞き入りつつ、夜は更けていった。
宮中では神祇官の東院の建物の一つである後庁が夜中に火事で焼けるという事件などがあったが、季節は何とか春たけなわを迎えた。大后の病の方は、今は小康を得ている。
そんな時、源氏は帝に召された。
大后は六十八歳であるから、あと二年で七十になる。その古来希なる七十の賀を、源氏に取り仕切ってもらいたいというのが帝の思し召しであった。
源氏はもちろん引き受けたが、何とも不思議な気持ちであった。自分が若い頃にはただ自分に威圧感を感じさせ、自分はその前で萎縮していたそんな弘徽殿大后も、今では寝たきりの老婆である。その大后の長寿の賀を自分がするとは、若い頃には絶対に予想できなかったなりゆきで、それがおかしくもあって、源氏は清涼殿から下がる回廊を歩きながら滝口のあたりでふと苦笑してしまった。
同じその命を受けたのは、源氏の母や明石の上の父である入道の兄――つまり源氏にとっては母方の伯父で、今は右衛門佐から右中弁になっていた。伯父ももうすっかり老いていた。源氏はこの大后の七十賀の件の打ち合わせのために何度か五条の右中弁邸を訪れたが、この老人と対座しているうちにふと亡き母の面影を見た。母が在世なら今年何歳になるだろうかとふと源氏は思ったが、数えても益がないのでやめておいた。
そのうち、民部卿大納言が逝去した。
それは時間の問題のようなところがあったので誰も驚かなかったが、しかし誰もが気味悪がった。
「九条右丞相! この
最期の言葉がそれだったという噂が、宮中に流れたからである。当の右大臣はその噂を耳にしたのかどうかは分からないが、少なくとも源氏の前ではすました顔をしていた。だが、なまじっかあり得ないことではないだけに、人々はその噂を流し続けた。
民部卿大納言がまだ中納言であったころ、その娘の女御が生んだ第一皇子を差し置いて、右大臣の娘の藤壺女御が生んだ第二皇子が東宮となった。それ以来民部卿は別人のようにやせ細って病がちとなり、宮中にもあまり出てこなくなった。それでも何とか中納言から大納言にはなったが、公務にも力を入れず、年齢を口実に自邸に閉じこもる日が多かった。兼任である民部卿というのは冗官であり、本職の大納言ももう一人の故本院大臣の息子の藤大納言に職務を任せきりの形となっていたのである。
噂によると、民部卿大納言は食を絶って、冥界からその恨みを晴らそうとしたのだともいうが、真偽の程は誰にも分からない。東宮立坊以来、民部卿は右大臣や源氏を避けて、口をきこうともしなかったからである。
いずれにせよ民部卿の死はどうにも後味が悪く、人々に不吉な予感を投げかけるものであった。
それでも季節が移ろいゆくにつれ、一時の噂は噂としてやがて忘れ去られていった。ただ、その民部卿大納言の死は、源氏にとっては別の意味があった。これで、大納言のポストが一つ空いたのである。
そして七月――昨年は中止となった相撲の節会であったが、今年は行われた。その左右の組の総裁の別当は、本来なら左右の近衛大将が宣旨によって任命される。左右大将は同じく左右の大臣がこのときは兼職していたが、どちらも支障を申し出たので、その任には左右の衛門督が当たることになった。そして源氏が中納言左衛門督であったので、源氏が節会の左奏を務めた。
ちなみに右奏の桃園宰相右衛門督は、左大臣や右大臣の弟である。今やさらにその弟すなわち父の故関白の末子――あの往年の小一条の君は中納言であるから、弟に先を越されている状態だった。
秋も深まり、朱雀院の喪も明けて、その一周忌には生母の大后が亡き我が子のために一切経の供養を行った。そして同じころに、秋の除目である。
源氏は死んだ民部卿大納言のあとを受ける形で、ついに大納言となった。これでようやく母方の祖である四条大納言に追いついたわけである。
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