当たり前といえば当たり前だった。弘徽殿中宮は帝の母、いつまでも中宮でいる方が不自然だった。しかし彼女の皇太后の尊称を今まで阻んでいたのは……宣下の下った時期を考えれは一院であったことは明白だった。一院亡きあと、ついに弘徽殿中宮は大后おおきさきとして後宮の、いや真の政界の重鎮に位置することになったのである。

 これからの自分、いや左大臣一族にとっても大きな変化はまぬがれ得まいと、源氏はひそかに覚悟した。

 時に大嘗祭がまた延期になったので、普通の新嘗祭が行われ、都大路は底冷えの季節を迎えていた。

 源氏の二条邸でも、その頃ある異変が起こっていた。西ノ対にいる彼の同母姉だが、最初は内親王だったその姉もかつて源氏と同時に賜妊源氏となって臣下に降っていた。だがその姉に、再び内親王に戻すという宣旨が下ったのである。急に二条邸も人の出入りが激しくなった。

 噂によると姉は、伊勢斎宮にトぼくじょうされるのではないかということだった。もちろんそのような正式な発表があったわけではない。ただ、前斎宮は源氏の父院が御譲位された時点で、退下してきている。斎宮は帝御一代限りの任だからだ。その後、空席だったこと、そして姉の内親王復位と続いていることなどから、噂の信憑性は高そうだった。

 この姉には故本院大臣の三男の左近衛権少将が懸想を寄せているとの噂もあった。もっとも斎宮になるとなれば、その愛をふりすててのこととなる。あるいはその三男に目をかけている弘徽殿中宮から、止めが入ったのかもしれない。

 それにしてもその左近衛権少将は年は上だが源氏の部下である。部下と同母の姉が結ばれたらどうにも複雑な気持ちだ。

 いずれにせよ、内親王に宣下された以上、臣下の源氏の邸に住むわけにはいかないので、姉は宮中の淑景舎へ入ることになった。

 慌ただしさの中で、姉は二条邸を去っていった。

 忙しさにかまけて同じ邸内にいながらはとんど顔をあわせることのない姉だったが、いないとなるとやはり淋しい。そして確実なことは、二条邸の西ノ対が住む人もなくなり、空いたということである。

 宮中でも一院の心喪が明け、歌舞楽曲の音が戻っていた。心喪というのは一院の遺詔で、一院の皇子である式部卿宮、及び同じく皇子で京極御息所腹のまだ元服前の無品親王以外には着喪を許さなかったからである。


 年の瀬も押し迫り、また一大事あって源氏は疲れていた。亡き式部大輔の屋敷に、群盗が立て篭もるという事件が起こり、検非違使とともに衛府の官人舎人が出動して、徹夜でその屋敷を包囲したのである。何とか群盗は全員捕縛した。しかし近衛舎人の指揮をとらねばならなかったのは源氏だったので、事件のあと宮中へは戻らずそのまま自邸へ直行して源氏は昼過ぎまで眠っていた。

 けたたましい声に、源氏は眠りをさまたげられた。少々不快な顔つきをして端まで出ると、声の主は惟光であることを知った。

「何かね、騒がしい」

 惟光は肩で息をしていた。

「北山の僧都より、おふみが参りました」

「それで」

 惟光の様子から、いつもの文ではないことは見ずとも察しがついた。

「尼君が、亡くなられたそうでございます」

「何ッ!」

 源氏は言葉が出なかった。しはらくは呆然とたたずんでいた。前に尼君と物越しに人伝てで会話をしてから、ひと月ほどしかたっていないではないか……。

 まずは弔問の品々を贈ることなどを頭の中で思いはかりながらも、源氏は人の世のはかなさを思わずにはいられなかった。

 今、かの姫君は最愛の庇護者を失ったのである。

 いったいどうやって毎日を送っているのだろうかと気掛かりであった。

 早速使いを高辻の屋敷へ遣わしてみたが、空であったという。葬儀はあの北山の寺で行われたのだろう。それで弔問の品々は、北山へ送られることになった。

 姫の乳母の女房から、返事はすぐに届いた。やはり姫は毎日泣き暮しているという。そしてその返事には、源氏にとってただならぬことが書いてあった。

「幼き人が御父より、渡すべきよし数多あまたたびはべるを、御七七過ぐしてやなどととどめおき奉れるに……」

 冗談じゃないと、源氏は顔を上げた。こちらは尼君の四十九日を待っていられない。姫君が頭中将の三の君として納まってしまえば、もはやそれまでだ。源氏はひたすら焦りを感じていた。頭中将は対する防御壁の尼君は、すでにないのである。

 頭中将――今や源氏にとっては朋友である。朋友であるだけに、妙な対抗意識を持ってしまったりする。姫の父が頭中将でなければ、ここまで焦っただろうかとふと思ったりもする。

 建礼門においての大祓も終わり、年の瀬も押し迫って、もう一度源氏は高辻の邸へ人を遣わした。姫君は乳母につきそわれて、すでに北山より戻っていた。

 行くしかない――と、夕暮れに源氏は車を向かわせた。冬なのに激しい雨である。それにもかまわず東洞院大路を下っていく。車の中で源氏は、ふと笑ってしまった。相手はいたいけな幼女である。しかしその幼女に対する想いはあるいは年ごろの姫に対するそれよりも、情熱的であるかもしれない。

 冷静に考えれば奇妙な話である。だが、頭で考えるからおかしいのだと源氏は思う。感情の領域、すなわち心で幼女を愛しているのなら、それは異常だ。しかし自分の場合、そんな次元ではない、魂の次元でかの少女と何らかの因縁があるのだと思った。

 御簾越しに対面する乳母の女房も、ほとんど涙がちにまともな会話もできない状態だった。

「姫様をお父君のお屋敷にお移しするといっても、あちらには北の方様がおいでではないですか。姫様の母上様をあのような目にお遭わせ申し上げなさった北の方様ですよ。それに今さらなじみの薄い他のお子様方といっしょになって、暮らしておいきになれるのでしょうか」

「ですから」

 源氏は膝を一歩進めた。

「かねてから申し入れております通り」

「ほんに、姫様がもう少し大人でございましたら、いいお話なのですが、何せまだまだお子様で」

「それがどうしました。これはもう魂の世界での、前世からの約束ごとなのですよ」

「少納言、直衣を着ている人がいらっしゃってるって」

 突然あどけない声がして、部屋をのぞいた子がいた。まぎれもないあの姫だ。喪服姿がまた一層新鮮に見えたりする。姫は源氏の姿を見て、あわてて物かげに隠れた。

「私を覚えておいでだね、北山の寺でお会いしただろう」

 源氏は思いきって、声をかけてみた。乳母は狼狽しきっている。

「源氏の君様? おばあちゃまが言ってらした?」

 か細い声が、物陰から返ってきた。源氏はもう嬉しくなって立ちあがり、慌てる乳母をよそに、姫のいる方へ歩いていった。

「お父様とは、お会いになったの?」

 少女は何も答えず、乳母のいる御簾の中へ駆けていった。乳母は少納言と呼ばれていた。夫か父か、縁者が少納言なのだろう。

「ねえ、もう寝たい」

「こちらへいらっしゃい。私の膝の上で休まれるといい」

「このとおり、ほんのお子様なのですよ。よくご覧になって下さったら、お心もお変わりになるでしょう」

 乳母が少し姫を源氏の方へおしやったので、源氏は御簾の中へ手を入れてみた。すぐに少女の髪が手にふれた。思いきって、少女の手を握ってみる。その手は急に引っ込められて、少女はまた自分の乳母のもとへ戻っていった。

「眠いって言ってるのに」

 乳母は笑っていた。ところが源氏は遠慮もなく、御簾をかきあげて中へ入っていった。

「ま、なんと、源氏の君様!」

「人見知りをなさいますな、姫様。私こそがあなたをいちばん大切に思っている人なんですよ。そんなに恐わがらないで」

 慌てふためく乳母をよそに、源氏が姫に優しく問いかけても、姫は乳母の後ろに隠れてしまっていた。無理もない。はじめて身内以外の人に声をかけられたのであろう。

「源氏の君様、どうか落ち着いて下さい。この姫様はまだそのようなこと、お分かりにはなりません」

「私は落ち着いているよ」

 源氏は笑って、うろたえている乳母を見た。

「別にこの姫に悪戯や変なことをしようっていうんじゃない。私の本心を分かってもらいたいね。ま、論より証拠」

 源氏は姫の肩に手を置いた。そしてあれよという間に、さっと姫を抱きあげてしまった。折しも外の雨は激しさを増した。雪が雨に混ざっているようである。

「こんな淋しい夜に、あなたがただけでこんな広い屋敷にいては心細いだろう」

 姫を抱きかかえながら、源氏は乳母に言う。たしかに風も強くなり、女だけ少人数では耐え難い夜であった。

「格子を下ろせ。女房たちは皆、そばに控えていよ。今日は私が宿直する」

 源氏はそのまま、姫の御帳台に入った。

 少女はもう言葉も出ないというふうで、ただ源氏の腕の中で小さくなって震えていた。暖かいぬくものが感じられる。まだ異性ということを意識してはいけない小さな存在なのに、その黒い髪のつやは充分異性であった。

 源氏は単衣で少女をくるんで、直接は肌に触れ合わない状態で抱いて寝た。恐ろしがっている様子が、かえっていとしく思われる。

 外は風がますます強くなり、下ろした格子に雨を激しく叩きつけていた。

「恐がらないで。外はもっと恐いよ。こんな時に私がいてよかったって思いなさい」

 少女は黙っていた。御帳台の外の灯りが消されたが、それでは少女が余計に恐がると思って、源氏はすぐに声を出して再び灯りを点けさせた。

「私の屋敷にいらっしゃいよ。すてきな絵もたくさんあるし、お人形遊びもできるよ」

「お兄さまの、おうちに?」

 やっと少女は、口をきいてくれた。

「そうだよ」

 源氏は笑った。その時、ほんのわずかだが少女も笑ったような気がした。

「私の家で、お正月を迎えましょう」

「少納言もいっしょ?」

「もちろんですよ」

「犬君もつれていっていい?」

「犬君?」

「北山で会った、お友達なの」

 はじめて彼女を見た時、たしかに数人の同じ年ごろの子供たちと遊んでいたのを、源氏は思い出した。

「いいですよ」

 姫はそれでも、まだ深刻そうな顔をして黙っていた。この年ごろでもこの年ごろなりに、いろいろ考えていることはあるのだろう。

「お父さまのおうちへ行くのと、私のおうちとどちらがいいですか」

「お父さまなんて、大嫌い!」

 意外な答えだった。しかし今まで姫を放っておいた父親に、姫がなつくわけもなさそうだった。

 この子は親の愛に飢えていると、源氏は思った。

 尼君や乳母からは大事に育てられたであろう。しかしその愛情も、やはり実の両親とは同じではあるまい。少女とて機敏に察しているはすだ。それに尼君も乳母も女性だから、それで母の愛の代用には幾分なったかもしれない。しかし、そしてだからこそこの子は父親の愛に飢えているという気が源氏にはした。

「そんな嫌いなお父さまのことは忘れて、私をお父さまと思って下さってもいいんですよ」

「でも、お兄さまはお兄さまで、お父さまじゃないじゃないわ」

 頭のいい子である。源氏はそのおもざしを見ているうちに、どうしてもこの子の成長した姿を見たく思った。今、腕の中の少女もさることながら、この少女が一人前の娘になった姿に、ひそかに思いを寄せていたのである。

「決めた」

 源氏は心の中でつぶやいていた。

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