貴婦人はただ、彼に背を向けていた。裸の背中は小刻みに震えていたが、それでも泣いているわけでもなさそうだった。

 源氏は何か近寄り難い感を抱きつつも、ゆっくりとその背中へ這っていった。突然に御息所は振り返る。泣きも笑いもせずに黒く沈んだその瞳は、悲しみの深淵にどこまでも続いているようだった。源氏の心はいつしか砕け、同じ淵へと陥っていくような気がした――。


 はね起きた源氏の顔に、蔀のすきまから朝の光がさしていた。心はまだ夢の続きで、早い鼓動を続けていた。

 六条御息所が夢にまで出てきたのは、はじめてだ。極彩色の淫美な夢だった。やはり昨夜の、御息所のふみが見せた夢だったのだろうか。


  ひとりゐて わびしき世にも たへかねて

    さはもののけにも われはなりなん


 思わず背筋がぞっとする文だった。いつもの華麗な手跡はまぎれもなく御息所の手だが、その歌たるやこれまでの詠みっぷりとはまるで違ったものだった。

 そこには深いため息がこめられていた。父を失い夫を失い息子を失い、そして今や庇護者の一院もそして姉をも失い、何もかもが彼女から去っていく。

 娘だけがほだしとなって彼女の玉の緒をとり結んでいるが、今しきりに彼女は自分に救いを求めているのではないかと、朝のぼんやりとした頭で御帳台の中にいたまま源氏は考えていた。しかも彼がすでに与えている物質的経済的援助を求めているのではないという。そんな彼女の悲痛な叫びが聞こえてくる。

 今、すべてをかけて自分を必要としている女がいる。自分を頼っている女がいる。このままいけは、彼女はその人格が破壊されてしまうのではないかと、文をもう一度読み返して源氏は思った。今度ばかりは「もう、たくさん」とは思えなかった。今朝の夢見がそう思わせたのかもしれない。

 家司が格子を上げにきた。すぐに廂まで出て、立ったまま源氏は惟光を呼んだ。

「ただ今!」

「内裏に使いをやって假文けぶみ(欠勤届)を提出してくれ。夢見のせいで今日は物忌となったので、出仕はできぬとな」

「御意」

「それからすぐに、車を出してくれ」

「はあ?」

 惟光は怪訝な顔をした。

「物忌とおっしゃいましたのに、車を出せとは……」

「いいから」

「は、はい」

 何かを納得したように、惟光はうなずいた。

「しかし、こんな朝っぱらから……」

「いいから」

 源氏はもう一度そう言った。供は惟光と牛飼童のみであった。

 ――六条へ行こう。

 源氏は決心をした。決して御息所へ逢いに行くのではない。自分が命じた屋敷の普請や庭の手入れなどを見分に行くのである。車の中で彼はしきりに、そう自分に言いきかせていた。

 東洞院を南から上ってくる車があった。見覚えのある車だ。すれ違いがた相手の車は、その牛をとめた。

 物見窓からのぞいたのは、頭中将だった。

「これはこれは、妙なところで」

 源氏が声をかけると、頭中将は照れもせずに笑っていた。

「おかしいな。内裏とは反対の方角へ向かっているなんて」

 この男には何も隠しだてはできぬと思ったが、ただあからさまに打ちあける気には、まだ源氏にはなれなかった。

「浮いた話ではないよ。所用でね」

「どうかな。しかし方向が方向だからね、信用しないでもないけど」

「君こそ」

 やはり遠慮があって、源氏はその先は聞けなかったが、頭中将はさらに声をあげて笑った。

「私は出仕するところだ。私の屋敷は九条なのだよ。遠距離通勤者なんだ。同情したまえ」

 それは源氏にとって初耳だった。九条などという地の果てに、貴人の邸宅があるなどとは思っていなかったからだ。しかしそう言われてしまえば、何も言い返すことはできない。

「では、宮中にはよしなに言っておくよ。朝っぱらから楽しんできたまえ」

「違うと言うに」

 頭中将の高らかな笑い声とともに、彼の車は動き出した。

「源氏の君」

 やはり動き出したこちらの車の中に、惟光が声をかけた。

「頭中将様はたしかに九条にお屋敷がありますが、どうも怪しいですよ」

「どういうことだ?」

「私、ずっと前方を見ておりましたが、あのお車は途中のお屋敷より出てまいりました」

「そうか」

 源氏は鼻で笑った。どうでもいいことだ。車が高辻小路を越えた頃、また惟光の声がした。

「この屋敷でしたよ」

 物見窓から見ると、惟光は大路の右手の屋敷を指さしていた。木立もこんもりと繁り、築地塀ついじべいも傷んでいて、あまり手入れも行き届いていないような屋敷の様子だった。

「ここは、前常陸介さきのひたちのすけ様のお屋敷ですな。前常陸介様は亡くなられて久しいから、今は空き家ですかなあ。でも、頭中将様はたしかにこの屋敷から……」

「車を停めい」

 前常陸介と聞いて、源氏の心は破裂せんばかりだった。しかもその屋敷から、頭中将は出てきたというのである。

「この屋敷に尼がおるはすだ。行ってわが来訪を告げてこい」

「尼あ?」

 尼に何の用かといぶかしげに惟光は入っていったが、出て来た時は納得顔だった。

「あの、北山の尼君ですなあ。びっくりしました今はかなりお悪いようで、何でももう寝たきりとかで、お会いになるのは無理だと女房を申しておりましたけど、せっかくいらしたのですからとりあえすどうぞとのことでしたけど」

「分かった」

 源氏は車を門内に入れ、案内に従っては母屋の一室に彼は座り、取り次ぎの女房に尼への伝言を伝えた。

「いつの日かお見舞いにと存じてはおりましたが、姫君のことではいつもいつもお断りを賜りますので、ついついはばかられまして」

 まるでわざわざ来訪したような言い方をすでにできるくらいに、源氏はもう大人だった。相手がそれを信じようと信じまいと、これが社交辞令だと彼は心得ている。

「かたじけのう存じます」

 との返事が、女房を介して返ってきた。

「時に、姫君のお父上は姫君のことはご存じで?」

 源氏は女房に小声で探りを入れてみた。急に女房の顔がこわばった。

「先ほどもいらっしゃいました」

 やはりと、源氏は思った。なんと頭中将は、その娘の居所をすでに突きとめていたのである。先を越されたと、胸さわぎひとしおだ。そこで源氏はすぐに、尼君へ伝えてもらう言葉を告げた。

「姫君の御ことは、今生の縁ばかりとは思えません。深い前世の因縁があったからこそ、私の魂がこのように打ち震えるのだと思われます」

 女房がそれを尼君に伝えに退出する。どうも尼君は隣室にいるようで、女房と尼君のやりとりが聞こえてきたりする。女房が戻ってきて、すでに聞こえていた尼君の言葉をまた伝えた。

「私ももう余命いくばくあるか分かりかねます。お志が変わりませなんだら、あと数年して姫が成長致しましてから、目をかけてやってくださいまし。そう申しておりました」

 その時、けたたましく廊下を走る音が聞こえた。

 小さな足昔だ。

「おはあちゃま! 北山においでなさったお兄さまがいらっしゃってるんですってよ。どうしてお会いにならないの」

 あの姫の声だと、源氏は急に胸の鼓動が激しくなるのだ。しかも北山での自分の来訪を姫は意識していたのだ。尼君のたしなめる声も聞こえる。

「お客人ですぞ。静かになさい」

「だってえ、あんなきれいな人を見たから病気がよくなったって、おばあちゃま言ってらしたじゃない」

 源氏はわざと聞いていないふりをして、女房にささやきかけた。

「あの姫を、姫の父親が引き取るようなことにでもなってしまわないかね」

「いいえ、自分の目の黒いうちは絶対にと尼上様もそうおっしゃっておられます。あの殿の北の方様のせいで、尼上様はご自分の最愛の娘御を亡くされましたのですし、その忘れがたみの姫君さえ今までずっと放っておかれたような方なのですよ、あの姫君の父親は。それを今さら、何だっていうのでしょう」

 女房までもが憤慨しているようだった。頭中将の方の事情も知っている源氏にとっては、この言われようは頭中将に気の毒だとは思ったが、それと同時に源氏の心にしだいに安堵感も広がってきた。

「薄幸な姫君なのだなあ」

 ふとつぶやいてはみせたが、これで頭中将より自分の方が分がいいと源氏は思った。先ほどの尼君の言葉は、自分への姫の依託ともとれないことはない。いや、そうなのだと源氏は思おうとした。

 あとは女房と世間話をして源氏は退出した。すでに日はかなり高くなっていた。

 そのあとの車の向け先について、源氏はしはらく指示が出せずにいた。このまま六条へ向かう気にはなれなかった。薄幸であることは御息所も姫君も同じである。御息所にはすでに経済的援助もしている。そして両者を比べるなら、御息所は過去、姫君は未来であった。過去にひたるより未来に進もうと源氏は思った。

「二条へ戻る」

 源氏はそう下知を下した。後ろ髪をひかれる思いがなかったといえば嘘になるが、彼はその思いをあえて振り切ろうとした。胸の中にあの少女の言葉の響きが蘇り、熱いものがこみあげていた。


 翌日、源氏は出仕した。そして自分が休んでいる間に、宮中にある動きがあったことを彼は知った。そしてそれは、彼にとって大きな動きだった。

 弘徽殿中宮に、皇太后の宣旨が下ったのである。

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