出発の時は、まだ空は薄暗かった。

 源氏は眠かった。充分に眠っていない。

 このたびの住吉詣は須磨、明石における願ほどきであり、さらに朝廷の名代という公的任務も兼ねているので妻はおいていくことにした。

 源氏は車で、若君も同乗していた。家司も皆飾りたち、総勢五十人ほどでの参拝だった。特に共に須磨、明石と源氏と生活をともにした家人たちは、威風堂々と源氏の車の前後に馬を並べているのだった。

 大山崎を過ぎて摂津との国境くにざかいを越えると、懐かしい須磨と同じ国に入ったことになる。

 その摂津の国の入り口で、一団の兵が待ちうけていた。摂津の国府の兵だ。その一人が走り寄り、源氏の郎党の一人に何やら告げている。それが伝え伝わって源氏が惟光から聞いた内容は、わざわざ国司の兵を源氏の一行の警固にと、須磨で世話になったあの摂津守が遣わしてくれたのだということだった。

 確かに物騒な世の中だ。しかし今は源氏は中将ではないので、武装した供である随身は伴ってはいなかった。国司にはあらかじめ住吉参拝のことは知らせておいたので、摂津守が気をきかせたくれたようだ。

 源氏は車の中で、あの須磨の浅茅生あさじうの宿でまみえた摂津守の顔を思い出し、ひとり微笑んでいた。

 二人で車に乗れば、前方の左右の壁に背を向けて、向かいあって座るものだが、二人というその相手がわが幼子なので、源氏は同じに横に並んで座っていた。我が子が誕生してから初めて、こんなにも長くしかも二人きりで過ごす親子水いらずの時間だった。我が子と接して源氏は、自分は父親なのだとしみじみ感じていた。

 昼過ぎには淀川を渡った。舟もすべて用意されてあった。対岸で舟から降りると、また国守が用意していた車に乗りかえて南下する道を行く。やがて海沿いに出た。海岸線との間には松林が続き、その向こうに水平線が見える。松林の向こうがすぐに波打ち際になっているのではなく、しばらく沖合までは葦が群生している。海はその向こうだ。葦の群生の中には時折、航路の目印である杭――澪標みおつくしが立っていた。

 源氏は右側面の物見窓の御簾を巻き上げ、そんな光景を息子に見せた。空はよく晴れている。

 幼子おさなごには何もかもが珍しいようで、窓枠に両手をあてて立ち、輝く瞳で窓の外を、もう言葉も出ないほど無心に見入っていた。源氏にとっても久々に見る海だ。明石ほど強くはないにしても、漂ってくる潮の香りに胸が熱くなってくる。この海の向こうに明石があるのだ――このまま住吉から船出して明石へ行ってしまいたい衝動にもかられる。

 沖合に舟が見えた。自分たちと同じ方行へ進んでいる。漁船ではなさそうなので、自分たちと同じ貴人の住吉詣の舟だろう。その舟が見えるや否や、源氏の胸はまた高鳴った。

 自分が明石から難波津まで乗ってきた舟ではないか。すると明石入道所有の――もしかしたらあの舟に、明石の姫君が――。

 源氏は思わず苦笑した。あの手の舟は所有者によってそう特微があるわけではない。自分の思い入れが、何でもかんでも舟といえば明石の舟に思われてしまう。しかも、あの姫君が乗っているのを妄想してしまうなど……。病気だと、源氏はもう一度苦笑をした。

 急に前後の従者たちの間で、ざわめきが起こった。

「何事か、車を止めい」

 源氏は命じた。

「光の君様、あれを」

 惟光が車のそばに寄ってきた。物見窓に近づいて息子の頭越しに外をのぞいてみると、惟光は海の彼方の一角をさしている。ここの海は大きな湾であり、水平線にはまわりこんだ陸地が、薄ぼんやりと細く横たわっていた。その、惟光が指をさしている一角から、煙が立ち上っていた。

「何だ、あの煙は」

「あんな遠くですから、塩を焼く煙などは見えようもないでしょう」

 ここから見えるのは小さな煙の筋だが、この距離ではたしかにひとつの町全体が焼かれているに違いないと思われた。

「海賊…」

 それだけ言って、惟光は絶句した。

「あれは芦屋のあたりです」

 親忠が口をはさんだ。源氏はしばらくその遠くの、小さな煙の筋を見つめていた。朝忠はまだ、惟光に言った。

「海賊は伊予にいるんでしょう? まさかここまでは……。あれは恐らく失火による火事でしょうな」

「とにかく住吉へ急ごう」

 源氏はそう言って、列の発進を命じた。


 住吉大社は海浜の舟着き場から延びる左右が松林の短い参道の奥にあり、参道と平行して人工の運河が掘られ、それが社殿の手前で直角に折れて横たわるので、人々は橋を渡って参詣する。

 源氏一行はまず社殿に幣を奉じ、願ほどき並びに東西兵乱鎮圧の祈祷を受けた。

 社殿は三つあって、それぞれで同じ祈祷が繰り返される。そして供物を山と積んだあとに、奉納の舞となった。

 そして直会なおらいの宴となり、摂津守が直々に饗応に出た。あの海道で見た舟らしきものはどこにも見えず、その乗人らしき人の参拝もないようであった。

 外では遊女の舟が客を引く声がしきりに聞こえ、源氏の郎党も国司の兵も、それ応じているらしい様子も伝わってくる。彼らにとってこれを最大の楽しみとして、ここまで来たのだろう。

「いやあ、お懐かしうござる」

 久々に会う摂津守は変わっていなかった。変わったのは源氏の方だ。この前の対面は須磨のあばら屋で、源氏は落人おちうどだったのだ。

「やはり時が来れば必ず、なるようになるものでございますな。あの折とは天と地の差の今日の晴ればれしい御参詣、涙が出るほどの思いでございます」

「いや」

 照れ隠しに少し笑って、源氏は頭を下げた。今日の威光はいい。しかし目の前の男には、あの須磨での佗暮らしを目撃されているのである。事実照れくさかった。

「あの折といい、そしてこのたびといい、数々ならぬお心遣い、こちらこそ恐縮に存じます」

 源氏は頭を下げた。摂津守の方がかえって恐れた。そして慌てた。

「もったいない。お顔をお上げ下さい」

 確かに今の源氏は、目の前の男に対してもっと威丈高にふんぞりかえっていい身分なのである。

「あの折は失礼した。貴殿が都へお戻りになっている間に、挨拶もできずに明石へと移ってしまったからな」

「ええ。父の服解ぶくげで都に戻り、翌年に復任致しましたる時は、源氏の君様はもう播磨の方に。しかしこのたびは、住吉の神もことごとく源氏の君様にお味方されたのでございますな。で、実は、私もそれにあやかりたく」

 いやに微笑んで、摂津守は一礼した。源氏の眉が少しだけ動いた。

「実はそれがし、来年の春には受領の任期も果てることになりまして」

 そのひとことで、源氏は摂津守の言わんとしていることがすぐに分かった。続いて目の前に並べられた砂金、絹、そして馬の頭数が書かれた目標を見て、分かったことが裏付けされた。

「心ばかりのものでございますが」

 まずは源氏は、少しだけ苦い思いになった。しかしいつまでもその思いのままでいるほど、もはや彼は子供ではなかった。逆に、くすぐったくあった。

 摂津の守は自分より六、七歳は年長であろう。その人からぺこぺこ頭を下げられている。それだけなら皇親源氏の彼としては、幼い頃から慣れていた。しかしこうして進物まで山と積まれた。それらが贈られる立場になった。一人前の大人として認められている――それだけでなく政府高官の一人として頼られている。さらには、須磨にいた時とは強弱の関係が逆転していた。それが源氏にとっては、くすぐったくもあったのだ。

 だが、懐かしさと親しみの情で見ていた摂津守の顔が、急に疎遠に感じられたのも事実だ。だから源氏は急に態度を変えた。

「かたじけなく思う。よきに取り計らうゆえ、心強く待たれるよう」

 高飛車な源氏の言に、摂津守は満面笑みで平伏した。

 宴が始まった。楽が奏でられ舞いが舞われる。源氏と主だった家司たちに、酒肴が運ばれた。自分が国政を動かす公卿の一人だと源氏がはっきりと自覚したのは、この時をもってはじめとすると言ってもいいかもしれない。しかしまだ彼は、日本国家の頂上中の頂上の上達部には属しているが、その上達部の中では底辺にいるにすぎない。

「御注進!」

 けたたましい声が、楽と舞の興に水をさした。国司の郎党だった。摂津守は露骨に不快の表情を見せた。

「場所柄をわきまえよ!」

 大声で叱責したが、郎党は蒼ざめた顔のまま、控えていた国司の役人に何かを告げていた。

 それを伝え聞いた摂津守の顔色は、見る見る変わっていった。

「しまった」

 と、ひとことつぶやいてから守は源氏の方に向いた。

「げ、源氏の君様!」

 その唇は震えていた。

「伊予の海賊が、伊予の海賊が…」

 源氏も思わず身を乗り出した。

「上洛途上の備後介殿をわが領内の須岐駅で襲い、介殿を捕獲してその御子息を殺害したと、今」

「え?」

 さきほど見た煙は、やはりその合戦の煙だったのだ。もれ聞いた家司たちも、皆動きを止めていた。楽も鳴り止んだ。

「海賊がここまで」

「そればかりではなくて、海賊の他の一派は播磨国の国府を襲い、その介殿をも捕えたとかいうことで」

 源氏の頭に、巨大な岩石が落ちた。視野の中のものは、見えていて見えなかった。心眼は盲目になっていたのだ。

「まろがうかつだった。国府の兵もここへすべて集め、今は国府はからだ。やつらはその拠をついたのだろう」

 そんな摂津守の言葉も、源氏の耳には入っていなかった。

 全身が震えてきた。摂津を襲い、播磨国府を海賊が襲った……摂津と播磨の中間には明石がある。海上からでもあからさまに見える、あの明石入道の豪邸……無事であり得ようか。

 源氏はしばらく呆然と、目の前の虚空を見つめていた。やがて膳の上の杯を一気に干して、彼は立ち上がった。そしてすぐに大声で叫んだ。

「明石へ行く!」

 そのままふらふらした足どりで、源氏は二、三歩前へと進んだ。惟光と朝忠が慌てて飛び出し、源氏を押さえた。

「お気持ちは分かりますが、ひとまず都へ戻りましょう」

 沈黙のあと源氏はゆっくりうなずき、その場へへなへなと座りこんだ。


 一泊の予定を変更して、一行は都へと急行した。

「若、急ぐゆえ揺れるから、父によくつかまっておれ」

 源氏は車内で我が子に言いわたしたが、若はすぐに眠りについた。

 源氏は気が気ではなかった。明石の入道邸は、そして姫は……。無事でいてくれ――源氏はただそのことだけを祈っていた。


 夜になって二条邸へ戻ると、留守の家司から摂政太政大臣の緊急の召集があつたことを告げられた。知らせは都にも達していたのだ。召集されたのは宮中ではなく、太政大臣の小一条邸だった。ほとんどその足という感じで、そのまま車を源氏は小一条邸へ向かわれた。

 南面へ源氏が通されると、ほとんどの公卿は集参していた。源氏が最後の遅参者であるようだった。

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