その夜はことの次第の説明があっただけで、散会となった。

 もうすでに対岸の火事ではない。都から目と鼻の先での出来事だ。どの公卿の顔も蒼ざめて、どよめきさえも起こらなかった。

 翌朝も早くから内裏の北の桂芳坊に公卿は集められて、これからのことが議されていたが捗々はかばかしい意見は出なかった。とにかく社寺への奉幣と修法が先となる。征討軍を派遣するにも、それにふさわしい国家の軍勢を都は持っていない。

 誰もが西の方へ意識を向けているその時、慌てふためいて蔵人が駆けこんできた。

「申し上げます」

「何ごとか」

 左大臣が不快そうな顔を、簀子すのこの方へ向けた。

「信濃の国府からの使者が参りました」

「信濃?」

「下総の豊田小次郎が武蔵権守と手を組み、東国にて反乱の挙兵をしたとのことでございます」

「そうか」

 左大臣が言ったのはそれだけだった。まだ皆の関心はそれでも西に向いている。

 源氏とて例外ではなく、彼の頭の中にはここでも明石の姫のことでいっぱいであった。この信濃の飛駅に関しては先日の常陸国の言上と同内容を告げるものだろう程度にしか思っていなかった。従ってそのことが取り沙汰されることもなく、議は西国の海賊のことすら終わって、臨時の除目のことの方へと及んでいった。

 この場の議で新たなる参議の人員補充の発表があり、老齢の修理大夫が宰相の座に列することになった。あのよぼよぼの爺さんがと、源氏はその顔を思い出してふと心配にさえなった。かの恋多き老婆の源典侍げんのないしの夫である。

 その後、途中で左大臣が体調の不調を訴えて退出したが、議が終わったのは夜半も過ぎていた。そのまま同所に宿直とのいして、早朝に源氏は自邸に戻った。

 何しろくたくただ。摂政太政大臣六十賀宴から続いて住吉参詣、そして昨日のまる一日の議である。少し休まねば体がもたないと感じていた。

 束帯を脱がせて直衣は着ずに、小袖姿のまま源氏は床に入った。とにかく睡眠不足だ。今日は一日寝ようと思っていた。

 少しまどろんだだろうか、すぐに惟光の自分を呼ぶ声で睡眠は妨げられた。

「何だ。今日は寝かせてくれ」

 はなはだ不機嫌な声を塗篭ぬりごめの中から放ったが、惟光はさらに続けた。

「明石入道殿がおいでです」

「またにしてくれと言ってくれ。今日はだめだ。物忌だとでも言っといてくれよ」

 そこまで言ってから、源氏ははっとした。

「え?」

 寝気はいっぺんに覚めた。激しくその上半身を、源氏はしとねの上に跳ね起こした。

「今、何と!?」

「明石の入道殿です!」

 音をたてて妻戸が開けられた。

「今、どちらに?」

「東ノ対にお通ししてあります」

 源氏は大声で女房を呼び、急いでその身に直衣を着けさせた。

 御無事だったか――もしかして姫もともに?

 そのようなことを考えながら、源氏は東ノ対への渡廊を急いだ。

 源氏が入ると、入道は平伏した。

「叔父上。舅殿。お顔をお上げくだされ」

 入道はゆっくりと顔を上げた。確かに明石の入道の懐かしい顔が、そこにあった。しかしそのような感興に浸っているいとまは、源氏にはなかった。驚きの方が先にきてしまっている。

 部屋にいたのは、入道とその妻と思われる老婆の二人だけだった。ものすごく不吉な予感が源氏の中で渦巻いた。とにかく、絶対にただ事ではない。

 さらには入道の顔も引きつっていた。

「どうなされました」

 慌てて源氏は尋ねた。入道はすぐには答えず、その瞳に涙を浮かべている。

「ようやくたどり着きました。昨夜都へ入ったのですが、夜分にもと思いまして羅城門の軒下で一夜を明かしました」

 どう見ても乞食の僧としか見えない姿だ。法衣は破れて泥だらけであり、顔すら真っ黒になっていた。隣の入道の妻と思われる人は、やはり汚れてはいるが貴人の女の小袿こうちぎ姿だった。だが紅袴はつけず、下半身は小袖のみというあられもない姿だった。明石では御簾越しにしか源氏はその姿を拝してはいない。

「ここに入れて頂くのも、ひと苦労だった」

 さもあろう。供もつれずにこの姿で門内へ入ろうとしても、門番の郎党が許すはずがない。

「うまいぐあいに惟光殿が参られましてな」

 惟光の出勤と出くわしたのは、運がよかったと言える。源氏は身を乗り出した。

「そのお姿はいかが致したのです」

 ほとんど察しはついてはいるが、一応源氏は尋ねてみた。

「やられました。海賊にです。摂津の須岐のあたりから播磨の国府まで、やつらは海岸沿いの目ぼしい建てものには、すべて火を放って略奪していったのです。わしらの屋敷も狙われましたよ。財宝もすべて盗られ、屋敷もことごとく灰塵に帰しました。わしら二人は命からがら逃げだしたのです」

「しかしよう御無事で。御身さえ御健在なら何によりです」

 源氏はすぐにでも尋ねたいことがあった。しかし今、目の前の状況を見れば、尋ねずとも察しがつく。だからあえて尋ねるのが恐かった。

 源氏がひとつため息をついたので、その心を入道の方から察したのか、彼は顔を上げた。

「姫は所在不明でして」

 源氏は胸が破裂した。それでも至って冷静さを装った。

「実はあの海賊の襲撃のあった日、姫は供まわりの女房たちをつれて、住吉詣に参っておったのでござるよ」

「え? あッ!」

 源氏は小さく叫びを発した。あの海道で見た舟こそ、まさしく姫の舟だったのか。自分の参詣を知って遠慮し、自身の参詣は中止にしたのだろう。

「途中に海賊に見つかりませなんだろうかと気がかりで。女だけの舟旅、海賊にでも見つかりましたらどんなはずかしめを受けるか……それに無事に帰りついたとて、もはや屋敷はございません。家人も郎党も女房もある者は殺され、生き残った者も散りぢりになっておりましょう」

 入道は目を伏せた。その妻は始終無言でうつむいている。壺装飾に着替える間もなく、とび出してきたようだ。

「姫は私が責任を持って、お捜し申します」

 源氏は力強く言った。

「頼みます。頼みます」

「私にとっても大切な妻。それにお腹には、ややもおることですしな。お気を強う。とりあえず、お顔をお洗い下され」

 源氏は家人に寝殿に女房を呼びに行かせ、盥水を持って来させた。

「今、お着替えもお持ち致しします。ただ、姑様の小袿はいくらでもございますが、申しわけありませんが法衣の替えはございませんでして、普通の直衣でもおよろしうございますか」

「かたじけない、かたじけない」

 入道は涙声で、それを連発するのみであった。

 その後で源氏はさっそく、五条の右衛門権佐へ使いを走らせた。昼前には権佐自身が、二条邸へとやってきた。

「何だそのざまは。野望を持って任国へとどまるから、そのようなことになるのだぞ」

 顔を見るなり権佐は弟を叱陀した。直衣姿で、それでいて入道頭のままもへんなので烏帽子もかぶってもらっていたが、入道はまさしく還俗したかのようであった。ふだんは官人としてうだつの上がらぬ兄を、受領として成金した自分として少々軽く思っていたらしい入道も、この時ばかりは黙って頭を下げていた。

「いずれも前世の罪業の報いよ。で、そなたはしばらく、こちらに世話になっていてくれよ。わしは推問使として、いつ東国へ行くか分からぬからな」

 東国の状況がここまではっきりした以上、推問使の必要性に源氏はふと首をかしげる思いだったが、権佐はその源氏へと視線を向けた。

「光の君様、それでよろしいでしょうか」

「もちろんですとも。なにせ舅御ですから」

 そのあとで源氏は惟光を呼び、入道のことを全家司・家人に伝えるよう言いわたした。叔父であり舅であるのだから家人として使うわけにもいかない。あくまで客分として東ノ対にいて頂くという旨だった。

「すまぬのう」

 入道は権佐が帰ったあと、部屋の調度、東ノ対付きの女房や家人の手配などをした。入道は何度も源氏に詫びていた。そして言った。

「嵯峨野の近くの大井の地に、わしの山荘がある。そこを調べて修復させたら、すぐにでもそちらへ移るゆえ…」

「しかし、地券は?」

「焼失した」

 これでは話が難しくなる。

「お気になさらずに。大井の地では少々御不便でございましょう。この際本当に還俗なされて、官に就かれては?」

「いや、この年ではのう」

 入道は苦笑したが、源氏は本気だった。

「卑官にはおつけ申しません。私が取り計らいましょう」

 二人の会話は一見弾んでいるようではあったが、その互いの心に姫の安否への心づかいが、黒い影を落としていた。

「娘はなんでよりによってあの時に住吉に……」

 そう言ってふさぎ込む入道だったが、源氏は静かに言った。

「いやむしろ、住吉の神のお導きでは? もしあのお屋敷にそのままいて海賊の襲撃に遭ったら、命もなかったかもしれないのでしょう? いなかったからこそ助かったという状況かもしれません」

 源氏の言葉、ひと筋の希望をもたらすものだった。


 その晩久々に源氏は、西ノ対の妻のもとへ渡った。

「淋しかったろう。ごめんな」

 何かを警怪するように優しく源氏は語りかけたが、妻はさほど機嫌をそこねてはいなかった。

「だって、ここにいたって聞こえてきますのよ。今、世の中がどんなに大変なことになっているか。殿もほとんど、お休みになっていないのでは?」

 確かにそうだった。今日一日寝ようと思っていたのに、入道の来訪でその予定は潰れた。

「世の中は大乱れだけどね、私の心は平和だったのだよ、あなたに対してはね。それで安心しきって足も遠のいていたんだ」

「お上手ないいわけ」

 妻はクスッと笑った。しかし源氏は真実を言ったつもりでいた。本当なら別の二、三カ所にも妻を持ち、夜な夜な選んで通うのが世間一般の男だ。しかし自分は違う。妻は同じ邸内にいる。他に通うところも皆無だ。だから心は平和だった、昨日までは……。

 それが平和ではなくなった。家政機構には知らせても、肝腎の妻に何も知らせないわけにはいかない。

「実は今日、ある老夫婦を客人として、東ノ対にお迎えしたよ」

 明石入道のいきさつすべてを妻に話した。もちろん妻に異存のあるはずはない。問題はその先だ。

「それだけでなくて、私はあなたに打ち明けなければならないことがあるんだ。実は……、今日迎えたのは、私の舅なんだ。私は明石で妻を迎えた」

 文では知らせていたとはいえ、あらためて直に言われたこのひとことがどのような衝撃を今目の前にいる妻に与えるか、源氏は充分に納得していた。

 果たしてその体は、小刻みに震えていた。

 だが状況は今源氏が話した通りである。明石の屋敷はすべて焼かれ、命からがら入道夫妻は都へ逃げてきた。さらに源氏は今明石の姫が身重な体のまま、行方不明になっていることも話した。

「許してくれ」

「いいえ」

 真顔で妻は言った。

「おかわいそうな方じゃありませんか。このような事件が起こる前に殿が打ち明けられたのでしたら、正直言って少しは殿を恨んだりもしましたでしょうけれど、今となってはそのようなかわいそうな方を恨む心はございませんよ。ぜひ御無事で都に来られたらいいですね」

「あなたは優しいひとだ」

 源氏は力強く、姫を抱きしめた。

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