その年は、春からそのまま秋になってしまった。夏はなかったと言ってもよかった。

 源氏の手で入道の宮の法要も終えた頃、彼の心は少しずつではあるが落ち着いてきた。

 入道の宮の死に立ち会い、遺体を見てしまったので触穢となって源氏は宮中に出仕できなくなり、しばらく二条邸に篭もっていた。

 秋の雨が降り続く夜に寝殿から庭を眺め、前栽せんざいが雨にしっとりと濡れている様子を見るにつけ、修理大夫や入道の宮など逝ってしまった人たちのことを思ってしまう。

 もはや前斎宮のことは自分一人で考えねばならない。もちろん、自分以外に重要なのは当事者の前斎宮本人の気持ちで、それを自分の思っている方へと向ける必要がある。

 源氏は強制できる立場ではない。しかし時には、ある程度の強制も必要であろう。そのためには、姫にもう少し打ち解けてもらわないと困る。


 源氏は、思い立って東ノ対に渡ってみた。

 いつもは廂の間の、御簾の前に座る。すでに源氏が渡ることは前もって家司が知らせたので、この日もすでに御簾の前に座が用意されていた。だが源氏は御簾を上げて身舎もやに入った。姫君は慌てて、几帳の中へと滑り込んだ。

 いくらなんでもさらに几帳の中まで入るような無粋なことは、源氏はしない。だが姫が入り込む前にはっきりと、そして初めて姫の顔を見た。

 美しい……これほどまでに美しい姫だとは思っていなかった。それに、実に髪が長い。几帳の中に入り込んでも、まだ髪の先は先ほどまで座っていた畳の上にある。

 年甲斐人もなく胸がときめいてしまった源氏だが、とにかく平静を保って几帳の前に座った。まずは何から話しだそうかと、源氏は言葉を選んだ。

「庭の前栽せんざいの秋の花も一様に咲き誇っておりますよ。今年のような物騒な年でも、秋の花はちゃんと咲き頃をわきまえているのですね。またそれがしみじみと感じられたりするものです」

 几帳の中からやはり返事はなかった。姫は源氏の妻とは話も弾んでいると聞いている。だが自分とはまだ打ち解けてくれないようだ。それに、顔を見られたというばつの悪さから、赤面してうなだれているのかもしれない。

「何を恥じらっておいでですか。私はあなたの母君との約束で、あなたを娘として迎えたのですよ。いわば私は父です。父が娘と物越しの対面など、聞いたこともありません」

 その時微かに、衣擦れの音がした。源氏は一つ、咳払いをした。

「秋になるたびに、私はどうしても思い出してしまうある女性がいました。そう、あの野の宮の秋の別れ以来、ずっと……」

 そして今度は、ため息をつく。

「その頃の私はいつも何かに怯えていましたけれど、それでも自分はきらきらと輝いていたと思います。あのころは若かった。どんなに誠意を尽くしても、最後まで真心を受け取ってはもらえませなんだ」

 自分の言っていることがすべて真実かどうかは怪しいが、少なくとも今の源氏の回顧の中ではそれは真実であった。そしてその女性の忘れ形見が今目の前にいて、一人前の女性に成長している。

 源氏はふと、先ほど一瞬だけではあったが見てしまった姫の顔を思い出した。もし自分があと十年若かったら、この驚きはたちまち恋心に発展していた可能性もあると何気なく思っていた。

「申し訳ない。翁の繰り言をお聞かせしても仕方ありませんね。ただ、そのきらきらと輝いていた季節に、今のあなたはちょうどいるのです」

 老人たちからは「若い」とうらやましがられながら、青春の真っ只中にいる若者たちをうらやむという、そんな微妙な年代に源氏はいた。

「あなたのような将来ある身と違って、私はもう春の花や秋の野の風情だけが心を洗ってくれるようになりましたよ」

 源氏は苦笑した。几帳の中からは沈黙だけが漂ってくる。

「あなたにはこれからも、花のある人生を送ってほしいと思います。若い方は若い方とともに、幸福をつかむのがいちばんです。それで、それにふさわしい若い方を私は存じ上げているのですが、どうですか。私にお任せ願えませんか。この叔父を本当の父だとお思いになって」

 さらにまた長い沈黙が続いた。源氏はじっと几帳を見つめ、微かな燭台の火明かりに浮かぶ人影をじっと見つめていた。

「お任せ致します」

 それがやっと返ってきた姫の言葉であった。それだけで源氏は嬉しかった。だが、その言葉には希望が感じられず、諦観の様相も込められているように聞こえた。……もうどうでもいいです。叔父上の好きなようになさってください。私は叔父上が決めた方が誰であれ、その方と結婚します……そんな気持ちが、短い返事にはこめられているようにも源氏は感じた。

 しかし、とりあえずは自分に任された……これは事実である。そしてやっと、姫から源氏に言葉がかかった……これも事実であった。打ち解けるにはあともうひと息と、源氏は話題を変えることにした。

「ところで先ほど、春の花と秋の野の話をしましたけれど、昔からその優劣が論じられておりますね。唐土もろこしでは春を、この国の歌では秋をたたえておりますが、私自身はどちらが優れているか決めかねております。ただ、この邸の東ノ対の庭は姫がお好きなように造って差し上げたいと思っておりますので、どうですか、春と秋とどちらがお好きかお聞かせ願えませんか」

 またしばらく沈黙があり、その後でか細い姫の言葉が返ってきた。

「いずれをとはっきりとは申せませんが、やはり私にとっても亡き母を偲ぶことの多い秋の方が……」

「そうですか。やはり私と心は通じていますね」

「え?」

 また衣擦れの音がした。どうも姫はまだ警戒して後ずさりしているようだ。

「今日は帰りましょう。またいつか、打ち解けてくださいよ。こんな翁でも姫の父君の弟なのですから」

 源氏はそれだけ言って立ち上がると、足早に東ノ対を後にして、そのまま西ノ対に向かった。そして対の上を端近まで呼ぶと、廂の間の格子を一間だけ上げさせた。

「見てごらん。月がきれいだよ」

 秋の庭はほぼ満月に近い月に、見事に照らされていた。今年は閏七月が入ったので、中秋の名月はまだひと月先だった。

 源氏は足を投げ出して横になった。

「もうすぐ秋だな」

 と、源氏はつぶやいた。

「ええ、夜だけは」

「君はどっちが好きだ?」

「え?」

「春か秋か」

「ああ。でも、どっちと言われても」

「東ノ対の姫は、秋がお好きだそうだ」

「いらしてたんですの、東に。さあ、でも、私は……」

 妻は小首を傾げた。

「前斎宮様は秋……、そこしうらめし、春山われは」

「万葉集ときたか。でも、そこしうらめしとは、この場合は? それに、春と秋が逆になっているな」

 源氏がおどけて笑うので、妻も源氏のそばに座って口元をほころばせた。

「殿と初めてお会いしたのは、北山の春でしたから」

「だけどよく勉強している。感心するよ」

「万葉集くらい」

「真名でか?」

「仮名で」

 身をすくめた妻を見て源氏は声を上げて笑ったが、すぐに立ち上がって庭を見た。

「修理大夫殿が亡くなったし、三条の尼宮も逝ってしまわれた。修理大夫殿は出家もできずに気の毒だったよ。私も今は官職があって身動きがとれない。できれば何もかも捨てて、仏行に明け暮れる仏弟子になりたいものだけれどな、君をおいてそうなるわけにもいくまい」

「また、何をおっしゃいますの、仏弟子なんて。殿はこれからご活躍なさる方ではありませんか」

 妻は源氏が出家を口にしても全く本気にはしておらず、ただ笑っていた。

 その晩、源氏は久々に妻を愛した。


 大井の山荘の方へはしきりに便りだけは出しているが、源氏が自分自身が行くのはかなり困難であった。行くとすれば御堂における不断の御読経にかこつけて行くしかないのだが、それを口実にしたとてそうそう宮中への出仕を休めるものではない。何しろ権中納言ともなれば、今まで以上に席が温まる暇もないのだ。さらに兼任の右衛門府の長官としての職掌も、忙殺に近い状態であった。

 そちらの実務はすけに任せておけばいいのだが、源氏の性分でついつい口を出してしまう。官人はたいてい昼には宮中を退出するが、源氏が退出するのはいつも暗くなってからであった。

 疱瘡も近隣の国ではかなりも猛威を振るっているようだ。いつ都に入ってこないとも限らない。


 数日後にようやく源氏は何とか口実を作り、嵯峨へと赴くことができた。

 形ばかりの御堂での行いも終えて、そさくさと山荘に向かう。仏行を口実にするなど仏罰のほども気にかかるが、源氏はあえてその気持ちを抑えつけた。

 山荘はこのような士地だからこそ、かえって都の中の屋敷よりも風情が感じられる。竹林や松林に囲まれ、見下ろす大堰川と嵐山など、まるで箱庭のようだ。紅葉にはまだ早いが、洛中よりも明石に近い土の香りのする風が吹いているような気がする。

 こんな雅の中に自分を待つもう一人の妻がいるというだけで、源氏の心はときめいてしまう。姫とて恨み言もあろうが、それは全く口にしない、そんな性格なのだ。それだけに余計に同情心がつのり、愛する手つきにも心がこもって、合わせる肌は熱かった。

 翌朝、源氏は郎党の一人を西ノ対に走らせた。宮中へ病のためという休暇届を、家司に出させるためであった。

「よろしいのですか」

 姫はかえって恐縮していたが、決して恨み言を言わない優しさがある反面、都の高松邸へ移ることは断固拒否する頑固さが一人の人間の中に同居している。かつて明石で最初にあれだけ源氏を拒んだのも、その頑固さのためであった。

「私にとっても明石での暮らしは、かけがえのない思い出だからね。それを偲ぶことのできるこの場所は、私とて気に入っているんだよ」

 と、源氏はあえて姫の頑固さに合わせるようなことも言った。

「私の心も、明石にいた時のままです」

 心を一つにした二人は、格子を上げた窓から眼下の大堰川の深緑のよどみを見つめていた。


(つづく)

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