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よりによって源氏がたまたま
「まさか……」
左京大夫の言葉に耳を疑った源氏は、それだけを言った。やられた!……というのが実感であった。
「今すぐ、ご参内を!」
左京大夫に促されて源氏はすぐに着衣を直衣から束帯に替えさせたが、束帯の着付けは時間がかかる。それだけに源氏にはじれったかった。
参内した源氏は蔵人頭である左京大夫とともに、ことが行われている凝華舎――梅壷へと向かった。内裏の西側の、藤壺のひとつ北の殿舎である。その藤壷から梅壷へ渡る渡廊で源氏たちは小一条大納言の息子、すなわちもう一人の蔵人頭に行く手をさえぎられた。まだ二十代の若者である。その若者が言うには、今は梅壷には誰も入れないとのことであった。
「ただ今、儀の最中でございますので」
源氏は頭に血がのぼるのを感じた。
「私は右大臣だッ!」
「存じております。しかし、儀が始まってしまいました以上は……。すべて関白殿下と、わが父大納言の指示でございますので」
身をかがめながらも、涼しい顔で小一条蔵人頭は言う。源氏の隣にいた左京大夫蔵人頭が、一歩前に出た。
「おのれッ! 何の権限でうぬがッ!」
「お控えあれ。私は蔵人頭ですぞ」
「うぬが蔵人頭なら、私とて蔵人頭だッ! この若造がッ!」
まだ二十代のもう一人の蔵人頭に今にもつかみかかりそうなもうすぐ四十歳の左京大夫の様子だったので、源氏はその袖を握った。左京大夫は、激しく歯ぎしりをしていた。
目の前の梅壷ではすでに儀式が進行しているようで、宣命使の声が聞こえてくる。新帝はひとつ北の雷鳴壷をご在所とされているから、ほんの短い距離の宣命使の渡御だ。そしてその梅壷の主は、四宮と同母弟の五宮――まだ加冠前の九歳の童形の若宮である。
今、梅壷では、その五宮の立太子の儀が執行されていた。これで、源氏の頭の中で描かれていたすべての未来の構図が崩壊した。東宮に立つべきはずの四宮ではなく、それを飛び越えて弟の五宮が東宮になる儀式が推し進められているのだ。無論このことは、源氏にとっても九条家三兄弟にとっても全く寝耳に水であった。すべては小野宮関白左大臣側の策略である。
源氏は笏で、自分の上袴をぴしゃりと打った。
「不愉快だ。帰る!」
確かに源氏にとって、おもしろくない成り行きであった。約一カ月の沈黙のあとでの関白左大臣側の巻き返しがこれだったのだ。
左大臣が五宮を立太子させた理由は分からないでもない。いや、分かり過ぎる。四宮も五宮も同腹で、どちらがいずれ即位しても関白左大臣が外戚になり得ないのは同じだ。だから、四宮立坊を阻止した理由は、四宮妃が源氏の娘であること以外にはあり得ない。
源氏は宮中からの帰りの車の中で涙を流し、ひたすら亡き明石入道にも心で詫びていた。その遺言のすべてが、水泡に帰したのである。
――須弥山を右手で捧げ持ち、山の左から月日の光がさして世を照らし、自分は山の陰で、その光は自分には当たりませなんだ。そして山を広い海に浮かべて、自らは小さな舟で西方へと去っていったのですよ……
遠い記憶の中の入道の声が今、源氏の中に蘇る。結局はその夢も虚しいものとなってしまった。かの老人の孫娘は、もはや国母にはなり得ない。姫は一親王妃で終わる。そして立太子が保証されていた四宮も、一生を一親王で終わるのだ。源氏は自分のことよりも、娘や婿の四宮に済まないという気持ちがいっぱいで、その思いが涙となって頬を伝わっていた。
それからしばらくの間、源氏は物忌と称して参内しなかった。その間に、朱雀院の女一宮が中宮に冊立された。
これは筋書通りであったが、筋書とは全く違う展開として、次期東宮妃として特別に宮中住まいしていた源氏の姫と、それに付き添う実母の明石の御方が宮中を退出して西宮邸に戻ってきた。
もはや次期東宮妃ではなくなったので特例は取り消しとなったのだ。だが、もうひとつの理由もあった。姫は産み月を迎えていたのである。
早速に源氏は、姫が戻った西ノ対へと渡った。久々にこの屋敷に肉親が戻ったのである。母娘は思ったより穏やかな顔を源氏に見せた。
「本当に済まない」
源氏は明石の御方の前に手をついた。だが、明石の御方の方がかえって慌てていた。
「お手をお上げください。殿の責めではございませぬ。すべてが宿世」
相変わらずこの女性は、万事控えめである。
「姫は今でも、紫の上様の御娘と心得ておりますから」
実の娘に対しても、ここまで言う。それが嫌味にも聞こえず、源氏はふと目頭を押さえてしまった。
「すべては、私が至らなかったからだ。いくら右大臣になったとて、私には力がなかったのだ。亡き九条殿が、中宮様が、そして先帝がそれぞれ生きておられたら、決してこのようなことにはならなかったであろうに」
「そんな、ご自分をお責めにならないで」
「そうよ、お父様」
姫も目に涙を浮かべ、話に入ってきた。その腹部は、もうかなり目立ってきている。
「あのお優しい宮様といっしょになれたことで、私はもう十分。それに、もうすぐ宮様のお子が……。その子が健やかに成長してくださいましたら、もうそれで……」
いつまでも子供だと思っていた姫ももう十八歳で、人の子の親になろうとしている。
その姫の出産があったのは、それから間もなくであった。
男の子であった。すぐに知らせは宮中の梨壷の、四宮のもとへももたらされた。
皮肉なことだと源氏は思う。本来どおり四宮が立坊していたら、生まれてきた子は親王宣下されて、四宮が即位の暁には東宮ともなり、やがては皇位についていたかもしれないお子だ。
だがその可能性が消失した直後に生まれたというのもまた哀れなもので、今や親王宣下さえ状況的に難しい。親王の子が親王宣下を受けたということは先例としてないこともないが、たいていは王という称号で一生を終わるか、あるいは賜姓源氏となる可能性すらある。
それでも源氏のような一世の皇親源氏ならよいが、この子の場合は二世の皇孫源氏ということになるから受領階級に落ちていくことになろう。
時代の流れが皇位と受領階級という天と地のごとき開きを一人の新生児の、そして自分の孫の運命の上にもたらしてしまった。それを思うにつけ、源氏は心が痛かった。
それにしても美しいお子だった。源氏は娘の出産の触穢という口実もでき、さらに参内もせずに自邸にいた。そこへ子供の父親である四宮が宮中を退出してやってきては、そのまま西ノ対に入った。
この身軽さも、もし立太子が実現していたら考えられないことであった。立太子できなかったために四宮は我が子と早くに対面できたわけで、このときばかりは立太子が実現しなかったことが幸いしたといえた。
源氏ゆくゆくこの西宮邸を娘とその夫の四宮に譲ってもいいと思いはじめていた。薫は二条邸の長男のもとに引き取ってもらう。これが紫の上の遺志でもあった。高松邸は女三宮が生んだ姫と、その将来の夫に伝領されることになろう。
塗り替えられた未来の図式も、何とか形になっていった。そのすべては、源氏の心の中で一人で考えたものであった。今まで何もかもを相談していた相手は、もはやこの世にはいない。思えば源氏はこのごろ、めっきり無口になっていた。
そして、時は熟した……と、彼は考えた。出家場所は、嵯峨の御堂が最適であろう。源氏は近々その御堂を預けている阿闍利のもとへ、具体的な出家の相談をしに行くつもりでいた。
ところがそれが実現しないうち、月末になって新帝の即位の礼についての陣定があるというので、源氏はいつまでも自邸に引き篭もっているわけにはいかなくなった。ただ、大嘗祭は先帝の喪中であるので、来年に先送りされることは必至であった。
源氏は議での最後近くの自分の発言の順になっても、ほとんど口を閉ざしていた。何から何までおもしろくないので、発言する気にもならない。自分が言いたいことは、ことごとく一条中納言が代弁してくれる。上卿の関白左大臣は、源氏とは逆に急に生気を取り戻していた。
国家行事である即位の礼は本来なら朝堂院の大極殿で行われるのが普通だが、今回は慣習を破って内裏の紫宸殿で行われることになった。これでは即位の礼が皇室の私的行事ということになってしまうが、この異例の措置も関白左大臣側と源氏側の双方共通の悩みである新帝のご狂疾を考えたら致し方のないことであった。
当日は瓦屋根の下ではなく檜皮葺の殿舎に横幕が張られ、中錦旛も小錦旛も威儀の者も、狭い前庭に並んだ。
この大礼で、源氏は正二位に叙せられた。これで位階の点でも、彼は亡き親友の故・前右大臣と並び立ったわけである。そしてその親友の三男の蔵人頭も、左京大夫から左近衛中将となった。これ以降、彼は頭中将と呼ばれることになる。頭中将――それは源氏にとって亡き親友の永遠の代名詞であるが、かつては長男、すなわち一条中納言が、そして今は三男がそれと同じ呼称で呼ばれる。子たちは、着実に亡き父の足跡を追っているといえた。彼らは、源氏のような失意のどん底にはいなかった。それはそれでよいと、源氏は思っていた。
二人の蔵人頭という異例な事態も、もう一人の小一条大納言の息子が参議となったことで解消された。だがそれは、新頭中将にとっては好ましくない結末ではあった。
それでも父・前右大臣の残像に守られながら、九条家の遺児たちはたくましくも小野宮関白家や小一条家と対抗しようとしている。そして彼らは亡父の親友であった源氏を自分たちの頭目と仰ぎ、好むと好まざるとにかかわらず源氏が彼らの庇護者となっているのだ。そんな状況を思うにつけ、源氏は出家入道のことを考え合わせて気が重くなった。
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