大嘗祭は先送りだから普通の新嘗祭が執り行われ、いつになく静かに秋は冬へと移っていった。

 四宮はまだ、釈然としない様子を見せている。それを慰めるには、源氏自身が無理をしてでも毅然としなければならない。

 そんな折、西宮邸にある来客があった。

 取次の家司の話では左兵衛大尉という低い身分の無骨そうな武者で、かなりの老人だという。

 なんでも源氏の母の亡き更衣との縁者で、源氏の奥方の身内と名乗っているそうだ。なんだか胡散臭そうなのが来たなと源氏は思ったので、源氏は会う気はなかった。こういった類はあまりまともに扱わない方がいいということは、源氏も知っている。

「そやつはどこに?」

「西の門のところで待たせております」

「源と名乗ったか? はい源左兵衛大尉とのことですが、いみなも申しておりました」

 それを聞き、源氏の中で少し弾けるところがあった。しかし、聞いたことはあるような気はするのだが、思い出せない。ただ、どうもその名から漢字にすれば一文字で済みそうな名だ。

 源姓で漢字一文字の諱となると、紛れもなく母や明石の入道の一族となろう。明石入道も五条の伯父も皆そうだし、母の父もひいてはその祖の四条大納言に至るまでみな一字名なのだ。

 それだけが気になったので、源氏はすぐに西ノ対に行って、明石の御方を廂の間に呼び出した。そして、今来訪している者の名を告げて見た。

「兄上です。生き別れになった兄上です」

源氏は驚いた。そういえばかつて明石入道が、都の息子がいるといっていた。源氏が明石から都に戻るときに探してくれと言われていたが、聞いていた役職はすでに辞めた後で見つからず、源氏は探すのをあきらめていたのだ。

 たしかにその時に明石入道から聞いていた名が、先ほど家司から聞いた名のような気がする。

 それが左兵衛大尉という身分の老人になって、今ごろこの屋敷を訪ねてきた。だが、本当にそうなのかは明石の御方の母の尼に面通しをしてもらえばすぐに分かったのだろうが、残念ながら明石の人の母は明石の人が娘とともに宮中に入った時点で、大井の山荘に戻っていた。

 「とりあえず、会ってみましょう」

 明石の御方がそう言うので、源氏も会ってみることにした。

 だが、右大臣の屋敷に左兵衛大尉の身分の人をあげるわけにもいかず、庭で対面するにも西ノ対は四宮もいるので、空いている東ノ対の庭さきに案内するように家司には言った。

 しばらく待たせる形で、源氏と明石の御方はともに東ノ対に渡った。

 庭先にうずくまっている老人を、廂の間に御簾を下ろしてその内側から見た。

おもてをあげよ」

 源氏は御簾の中から立ったまま言った。顔を見ると、たしかに明石入道の面影がある。隣にいる妻に聞いても、首をかしげるだけだった。

「そうだと思えばそうだという気もしますが、なにしろ最後に会ったのはまだ私が幼女の頃でしたから」

 そこで、直接に明石の御方は庭先の老人に声をかけた。

「あなたは兄ですか? 私の名は?」

 庭先の老人が言った明石の御方の実名に、彼女は驚きの声をあげた。間違いなく自分の実名だったからだ。女性の実名など、よほどの近親者でないと知らないはずだ。

「父の名は? 母の名は?」

その問のどれもに対しても、答えは正確だった。

聞いていた源氏は、明石の御方に耳打ちした。

「簀子まで上がってもらいなさい」

その旨を明石の上はくぁにと名乗る老人に告げた。

 本来なら右大臣の私邸に、たとえ簀子にでも上がれるような身分ではない。だがこの男は間違いなく源氏の妻の兄であるようだし、そうなると源氏自身にとっても母方の従兄弟いとこということになる。

「まさか我が妹が今をときめく右府様の奥方になっていようなどとはつゆ知らず、両親も明石にいるものとばかり思っておりました」

源氏も、明石の御方の少し後ろに座った。

「しかも私の叔母が宮中に入っておられたことも、最近知ったのです」

 源氏の母の入内など、ずいぶん古い話である。無理もない。隣にいる妻さえも、明石で初めて会った時には自分の叔母が帝の更衣であったことを知らなかったのだ。入道は何も話さなかったらしい。

「私の従妹いとこの夫で、懇意にしている者からその事実を聞いて驚いてまいった次第です」

そして、御簾越しに源氏の方に向かって、老人は言った。

「右府様に申し上げます」

本来ならば左兵衛尉などの身分なら、庭先から家司を間に入れて右大臣とは話さなければならないものだ。だが従兄弟なので源氏は直接声をかけた。

「急にあらたまって何ですか?」

「右府様!」

老人の口調が厳しい剣幕のようになった。

「なんだか穏やかではないような……」

「恐れながら申し上げます」

 左兵衛尉は頭を下げ、激しい口調のまま源氏に言った。

大臣おとどは、今の状況に甘んじておられまするのか」

 この老人は年は源氏よりも下のようだが、いくらも違いはしないであろう。そして従弟であるだけでなく、源氏にとっては義理の兄でもある。一途さと無骨さの点では、父である故明石入道そのままだと源氏は感じていた。

「話は従妹の夫から伺いました。今の状況では妹が気の毒すぎます」

 明石の御方の生んだ娘の夫の四宮が、東宮になれなかったことを言っているらしい。だが、娘はあくまで世間では紫の上の娘ということになっている。真実を知っているということは、よほどの近親者の証拠でもあった。

 まさしく明石の入道が自分に詰め寄っているという、そんな錯覚さえ起こしてしまう。入道が生きていたらやはりこのように自分に詰め寄ってきただろうかと、ふと源氏は思っていた。

「兄君。お控え下さい!」

 明石の御方が自分の兄を一喝したが、左兵衛尉は止まるような勢いではなかった。だが、源氏は言った。

 「許してくれ……」

 驚いたような顔で、明石の上は源氏を見た。左兵衛尉は全身を震わせ、顔をこわばらせていた。

「私は……このままでは……、私と近しい大臣おとどのためにも……このままでは……」

 すくっと左兵衛尉は立ち上がった。

「本日は、これにてごめん!」

 それだけ叫ぶと、左兵衛尉は足早に階を降りて門の方へと庭を歩いていった。


 自邸ではそんなことがあった後も、宮中でも源氏はただ息苦しさを感じるだけとなってしまった。先帝の御世と比べれば、こうも短い間に雰囲気が変わってしまうものかと驚かされる。以前とは全く別の場所にいるようであった。

 この頃の公務は伊勢斎宮の退出・帰洛についてであったが、それを含めて一切を源氏は一条中納言に任せていた。源氏が自ら朝政を聴くこともなくなっている。

 さらに源氏は大臣の特権で、参内せず自邸で公務を処理することも多くなっていった。そうはいっても公用の来客も多いので、自邸でのんびりとくつろぐという訳にもいかない。

 そんな来客の中に一条中納言もいた。だがこの日の用向きは私事わたくしごとで、自分の娘を新帝に入内させたいという相談であった。中納言の娘といえば源氏の長男の妻の妹ということになるが、それをあの帝のもとに嫁がせるというのである。源氏が目を丸くしていると、同行していた中納言の弟の頭中将が、兄の胸中を代弁した。

「兄上は、東宮妃に関白殿か小一条殿のお身内が入られたらと、それを懸念しているのです」

 東宮になった五宮はまだ童形で当然ながらまだ妃はいないが、加冠と同時に妃は決められるはずである。今はまだ白紙の状態である東宮妃について、関白側が関心を持っていないわけがない。

「そこで兄上がその娘後を帝に、そしてわが娘を東宮五宮にとそう考えまして、大臣のお許しを賜りたく参上したのです」

「私の許し?」

 ここで自分が許したからといってどうにでもなることではないと源氏は思ったが、だからといって拒否する理由もない。

「お願い致しまする」

 そろって頭を下げる兄弟を見て、源氏は舌を巻く思いだった。やはり血は争えず、彼らは策士の子たちである。できればもうそんなことにはかかわりたくない源氏であったが、庇護者として無視するわけにはいかない。

「何とか致そう」

 とにかく源氏はそれだけを言っておいたが、ため息をつきたい気分であった。宮中の後宮争いの泥沼の真っ只中にいる彼らを、少し離れたところから源氏は見ていた。いずれにせよ、四宮も源氏の娘も日陰の存在となっていくのである。


 その年の暮れも押し迫った頃、亡き前中宮に皇太后の尊号が追贈されることになった。

 また、大きな人事異動もあった。関白左大臣は太政大臣に、そして源氏は左大臣になった。そして右大臣にのぼったのは、小一条大納言であった。また、一条中納言も大納言になった。

 同じ頃、新帝も襲芳舎から麗景殿に移られ、襲芳舎には新東宮の五宮が入った。清涼殿はまだ先帝崩御の際の穢が残っており、新帝にお入りいただくわけにはいかない。床板をすべて張り替えてからでないとまずいのだ。

 源氏が聞いた話だと、新太政大臣と新右大臣は即日に任大臣大饗を行ったということであった。先帝の喪中なのにとその無神経さにあきれた源氏は、自らの任大臣大饗は行わず、祝いに来訪した客人から祝辞を聞くのみとした。

 左大臣――その上の太政大臣は則闕そっけつの官で実務のない名誉職だから、源氏は人臣として最高の位に昇りつめたことになる。さらに彼は年官年爵の点で、準太上天皇の待遇を受けている。

 まさか自分がここまで来るとは、源氏は思ってもいなかった。自分が左大臣――その事実を噛みしめ、客も一段落ち着いたところで、源氏は冬枯れの立ち並ぶ庭を端近に立って見ていた。そしていつもの癖で、心の中で亡き紫の上に左大臣就任を報告する。紫の上は、幽界で喜んでいてくれるだろうか……。

 だが当の源氏は、少しもうれしくはなかった。左大臣という地位が、ただただ虚しく感じられる。左大臣となった源氏の上に立つ太政大臣というのが名誉職で実務がないとはいえ、その太政大臣は同時に関白でもある。つまり帝の代理人で、表向きに発せられる帝のご意志というのも、実は関白の考えであることの方が多い。

 おそらく関白は自分の側である弟の小一条大納言を早く右大臣にしたくて自らを太政大臣にして、大臣のポストを空けたのだろう。そうすると自動的に源氏が左大臣になってしまうが、それは仕方がないととりあえずは目をつぶったに違いない。

 だが、その「とりあえず」が恐い。権力闘争の泥沼の中で生き延びてきた彼らの画策は、空恐ろしいものがある。今回のすべては、もしかしたら小一条新右大臣が仕組んだものかもしれない。癖のあるこの男は、九条前右大臣の子息たち以上に策士で、しかも性質たちの悪い策士なのである。


 だが、源氏の方とて黙ってはいない。肩の荷をおろすという意味もこめて、源氏は左大臣になったことを力として一条新大納言の娘の入内を一気に実現させた。もちろん関白太政大臣側にはすべてを秘密裏に行い、源氏に秘密裏に行われた五宮立坊の仇を返したのである。


 先帝の喪のために、節会もない正月となった。もはや源氏はほとんど参内もせず、公務はすべて自邸に持ち込んで在宅でこなしていた。いわば西宮邸で、源氏は政治を執っていたのである。

 そこへ公用の客に混ざって、義兄であり従弟でもある左兵衛尉がまたやってきた。だがこの日は同行者があるということで、簀子には上がらずに庭先に控えていた。

 源氏が端近に出てみると、確かに左兵衛尉の左右には同じような無骨者の老人が二人いた。源氏が簀子に出ると、三人の老人は一斉にひれ伏した。

「家司の殿に申し上げます」

 左兵衛尉はいやにへりくだって、簀子にいる家司に言う。しかし、左兵衛尉ごときが左大臣に対するのは本来ならこれが作法である。

「直答を許す!」

 わざと居丈高に、源氏は言い放った。左兵衛尉もまたわざとらしく恐縮して見せ、同行者が多田左馬助と中務少輔である旨を言上した。

「六孫王源朝臣が嫡男、多田左馬助にございます」

「ん?」

 源氏はふと、その老人に目をとめた。六孫王といえば東国の兵乱の折の武蔵介で、西国の海賊の乱の時には軍功を挙げたものだ。その六孫王はすでに六年程前に他界していたが、晩年になってから源の姓を賜っていた。目の前の老人はその嫡男であるという。すると三世の源氏で、身分が高くないのもうなずける。いわゆる武士階級である。

 そのとき源氏が思い出したことは、先帝の御葬送の折の固関使を命じられたが老齢を理由に固辞した男が、確か多田左馬助という名であった。この男がそうかと、源氏は左馬助をじっと見下ろした。

 それから左兵衛尉を見て、源氏は言った。

「今日は、なぜこのものたちを?」

「左馬助は私と入魂じっこんの間柄でありますれば、以後お見知りおきのほどを」

 なぜこのものを見知らねばならぬのかと源氏は思ったが、あえて黙っていた。

「以前申しました私の従妹の夫でございます」

「従妹とは?」

「五条の右大弁が娘でございます」

 ああ、あの伯父かと、源氏は合点がいった。母や明石入道の兄だ。この西宮邸の地券を持っていたのも、あの伯父だった。あの伯父に娘があったとは初めて知った。その娘の夫が、今目の前にうずくまっている六孫王の子である老人なのだ。

「五条の伯父は久しく会っていないが、まだ健在か?」

源氏はその多田左馬助というものに聞いてみた。

「はい、もうかなり弱ってはおりますが」

 なんという長生きなのだろうと思う。

 そのあと、左兵衛尉の口調が突然変わった。

「つきましては、お願いの儀がありまして参上致しました」

「何か」

「どうかお庭先から物越にでもでも、わが妹の婿殿であらせられます四宮様とご対面賜りたく」

 源氏は急に不安になった。なにしろ以前に来た時のあの逆上ぶりである。

「控えい! 分際をわきまえよ!」

 不安を吹き飛ばさんとばかりに源氏は思い切り怒鳴りつけて、源氏は中へ入った。

 だがそれだけではあと味が悪いので、家司に命じて左兵衛尉だけをひそかに東ノ対へと召した。東ノ対の殿上で源氏は肉親に対する態度に変え、それでも厳かに左兵衛尉に言った。

「いったい、何をたくらんでいるのかね」

「い、いえ、別に……」

「あの左馬助と入魂というのは、どういう訳かね」

 左馬助は源氏にとっても身内人ということになる。

 だが源氏は、左馬助についての噂を次々に思い出していた。かのおぞましき怨霊となった前民部卿の孫娘に、年がいもなく通っている老人がいるという噂を耳にしていたが、それが確か左馬助という官職だったような気がする。

 ほかの人の孫娘ならどうでもいい話として聞き流していたであろうが、前民部卿の孫娘である。前民部卿といえば、源氏が子供の頃に雷公といえば誰もが震え上がったように、このごろではちょっと年いった人ならその名を聞くと怯える物の怪だ。

 そればかりではない。あの顔はたしか小一条新右大臣の郎党の中にいたような気もする。

 源氏は、何かいやな予感を感じた。先ほど対面した時の、あの目つきも気に入らない。

「あの男には気をつけろ」

 源氏はそれだけを左兵衛尉に言っておいた。左兵衛尉は納得がいかないようで、首をかしげていた。

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