9
そのまま日が暮れるまで、薫は庭にいた。
その間に、女は奥に入り込んでしまった。やがて薫は女房の給仕で夕餉をとり、それが終わった頃に格子が下ろされ、大殿油が灯された。そのあとで少し酒を飲み、薫は女房に聞いていた妻の寝室へと向かった。
まるでそれが自然の振る舞いであるかのように感じられたのは、薫本人にとっても不思議だった。中へ入ると、すでに女房たちはいなかった。
「なんと呼びましょうか?」
女ははにかんでうつむいていた。
「そうだ。兵衛の君と呼ぼう」
その父が右兵衛督だったからだ。しかしこれでは、妻というよりまるで女房の呼び名のようでもあるが、それでも女はうなずいた。
やはりこの女は妻だと、薫はもう一度自分に言い聞かせた。灯火の中、二人きりの部屋で、直接に向かい合って小袖姿で褥の上に座っているのである。妻以外の何ものでもない。
「今夜、あなたをはっきりと妻だと認識したいのです」
こんな言葉をここに来て言うことになろうとは、出かけるときは予想もしていないことだった。成りゆきといえば成りゆきだが、かねてから考えてきたことを実行することにもなるともいえる。
相手が妻なのだから、ことに及んでも仏道に反する
薫の手で、油が消された。そして兵衛の君を抱き、髪の香を味わったあと、二人で横になった。
兵衛の君はすべて薫のなすがままだった。自らは身動き一つせずに、ただ人形のように薫に抱かれていた。だから今度は、薫は女体の隅々までじっくり探検することができた。だが年がいっている分だけ体は固く、胸もさほど豊かではなかった。そしていざという時、女はどうしても痛がって、薫は結局遂げられなかった。
翌朝、まだ明けきらぬうちに、薫は格子を一カ所だけ押し上げて庭を見た。背後には兵衛の君が立って、同じように庭を見ていた。
「ずいぶん、きれいにして頂いて……」
「妻の家だからね。当たり前だよ」
「正直言って私、今までは自分は何なのだか分からなかったんです。父も母も亡くし、一人でこのお屋敷に住んで……。私には夫君がいてこうして生活の面倒を見てくださっているんだと、女房たちはそう言ってましたけど、なんだか実感がわかなく……」
「本当に、済まなかった」
「昨日はびっくりしました。夫君がいらっしゃいましたって急に女房に言われても、何が起こったのだか分からずにいたんですよ。しかも、その夫君というのが、こんなにも私にはもったいないようなお方だったなんて知りませんでした」
昨日の緊張でこちこちになっていた女とはまるで別人のように、今朝の兵衛の君はよくしゃべった。
「これから確かに、あなたは私の妻だ」
「はい」
もうすっかり、心は打ち解けていたようだ。宇治の大君のときはあんなに苦心惨憺しても結局は心を開いてはくれなかったのに、この女はたった一晩で、しかも実際の行為には及べなかったにしても、名実ともに薫の妻となった。まるで十七年間ずっと添い続けてきたような気さえする。やはり形式の上でだけでもずっと妻であり続けた女性は、やはりどこか違うのだ。
だが、薫がこの女に愛を感じたといえば、それは嘘になった。あるのは十七年も名目上とはいえ妻であり続けたという連帯感だけで、それを愛と名づけるわけにはいかなかった。心の激しい鼓動も、燃え上がるような熱い思いも、薫はついに兵衛の君には持ち得なかった。
だが、それでいいと、薫は思っていた。年増であることも、そこそこの容姿も、それが自分にはいいことだと薫は思っていた。
もう若くはなく、大君が死に中君も手が届かない人になった今、自分の人生において熱く燃える恋など二度とないだろうと思っていた薫にとって、ふさわしい相手だと感じていた。あくまで、自分の身を固めるための存在である。
その晩も薫は、七条まで行った。こうなったら、少なくとも三日間は通ってやろうと思った。三日通いして、正式の夫婦となるのだ。だからといって、三日目に
もう自分は独り身ではないと、はっきり認識するためだ。
その日の夜、やっと女は薫のものになった。行為自体が人形を抱いているように味気ないものであったのは昨夜と変わらなかったが、別に快楽を求めることが目的ではないし、これまでも女性経験が乏しかった薫はこんなものだと割り切っていた。
そして三日目の夜が来た。三日夜の餅はいらない。それはもう、十七年前にすでに食している。あとは露顕の儀の変わりに、兵衛の君と形式上だけではなく実質上も夫婦になったことを人々にも認めさせねばならない。
そこで薫は、噂を使うことにした。家司たちに、故意に噂をばらまかせたのである。
都では疫病と噂の広がる速さは、加茂の流れよりも速い。
匂宮の子の
「なんでも六の君様のことを断ったのは、その方を本当に愛していたからなのだと、
本当は違うのだがと思ったが、薫はそれは言わずに苦笑しただけだった。
「その方は、摂政の大臣の姪御さんですものね。大臣もご存知でないはずはないでしょうけれど、お忘れになっていたようです。私だって、あなたに添伏の妻がいたことは、すっかり忘れていたのですから」
実は薫自身さえそのような存在を意識していなかったのだから忘れていたに等しいが、そのことは今は言わなかった。
それから西ノ対に渡ると、すでに五十日の祝いの宴の準備が始まっていた。数々の道具類、料理、酒などが参列者の前に並べられる。
匂宮が薫のそばに来た。薫が型どおりの挨拶をしようとすると、匂宮はそれをさえぎってにこにこして座った。
「七条に通い始められたそうですね。どういう風の吹き回しでしょう」
「はあ」
匂宮も知っているということは、当然中君も知っているだろう。これで中君は、ますます遠い存在になる。だがそれは、薫が意図した通りのいい結果なのだ。
その中君が、几帳の向こうに出てきたようだ。
「わが北の方にも、お声をかけてあげてください」
匂宮の方から、薫にそう促してきた。薫は勧められるまま、几帳の前まで行って座った。
「宇治のお堂の方も、つつがなく進んでおります」
「かたじけのう存じます。それよりも、お話は伺いましたわ」
中君の声は、いつになく明るく弾んでいた。だが薫は、わざと小声で言った。
「遠い昔に、親同士が決めた相手ですから。それをふと思い出したまでのことです。本意でない結婚は虚しいですね」
「まあ」
中君も、声を落とした。
「いけませんわ、そのようなこと」
薫は笑ってごまかした。そして、
「若君を、ぜひ」
と言った。乳母に抱かれた若君が、几帳の外に出てきた。
「抱かせて下さい」
薫が抱いても、若君は表情一つ変えなかった。まだ猿のような顔の泡のごとき存在だが、それでも美しいお子であった。元気に手足を動かしている。遠い昔には妹を、さらには赤子の時の匂宮をも抱いたことはあったが、成人してから赤子を抱くのは薫ははじめてであった。やがて、宴が始まった。
薫はそれからは、時々は七条に通うようになった。今までのようなほったらかしというわけにはいかない。いくら通っても愛情は芽生えなかったが、妻も薫も互いに打ち解けて話すようにはなっていた。
しかし、そうたびたび通うわけにもいかない。公務が終わって自邸に戻って眠る日はそれ以前と何ら変わるところはなかったが、心は少しだけ平和になったといえた。
妻の話は母の耳にも入っており、しきりに喜んでくれていた。
「そんな七条などという草深きところに置かないで、この屋敷にお呼びなさい。お二人で、この寝殿に住まわれるといい。母は北ノ対に移りますから」
「とんでもありません。ここは母上のご修行の場として作りましたところで、私など仮に置いておいてもらっているのにすぎないのですから」
そうは言ったものの、妻をこの三条邸に迎えるというのは薫にとって願ってもいない話であった。
夏になれば七条の方角は方塞がりになってしまい、二カ月間行かれなくなる。愛情はなくても憐憫の心はあり、妻をあのようなところに置いておくのはかねてより気の毒と思っていたのだ。自分しか頼る人がいない女であり、しかもそれを今まで放っておいたという自責の念もある。
だが、母の言うような寝殿共床は抵抗があった。そこで薫が考えたのは、三条邸の増築であった。それまで三条邸には西ノ対がなかった。必要を感じなかったので造らせなかったのだが、そのため細殿は寝殿から延びており、その先は釣殿ではなく二条邸に倣って念誦堂になっていた。そこに西ノ対を増築して妻である兵衛の君を呼び入れようと薫は思った。
その翌日から、さっそく西ノ対の新築が始まった。なんとしても、方塞がりになる夏までには完成させたかった。だがそれには、あとひと月しか残された時間はなかった。
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