8
世はまさしく、春爛漫であった。しかし人の心の中まで春と同化するとは限らず、自分が思い立ったことを考えているだけで薫の気は滅入っていった。
新しい恋も面倒だが、自分の思いつきもなかなか面倒なことだった。このまま何もしなければ、今まで通り何ら変わることもなく無事平穏に時は過ぎていくはずだ。そんなことから、薫の最初の思いつきは薄らいでいった。
ところが、家司をつかまえて妻への経済的援助の話をしているうちに、ふとその屋敷が七条にあることを知った。そこで何気なくその所在地を聞き出し、それがきっかけで薫はようやく重い腰を上げる気になった。とにかく屋敷だけでも見ようと、車を出したのである。
夜だといかにもという感じだったので、薫はわざと昼過ぎに出かけた。車は高倉小路を下がる。五条を過ぎたあたりから邸宅はほとんどなくなって民家ばかりとなったが、その頃から路上に人があふれるようになった。宇治へ行くときよりももっと少人数の供しか連れていなかったし、当然のこと前駆などもさせていなかったので、そんな道を進むのは難しかった。
薫はその車の中で、自分の妻であるはずの人のことを思い出そうとしていた。だが、顔すらも全く思い出せない。
初めて会ったのは、自分の加冠の日の夜である。その時点ですでにもう、妻の父の右兵衛督はこの世の人ではなかった。そのすべては当時嵯峨の御堂で修行生活をしていた父の光源氏と、その親友であった九条前右大臣の長男の一条摂政、つまり今の摂政太政大臣の亡き兄との間で決められたことだった。
妻の母親は、その一条摂政の娘だったこともある。その一条摂政は、確かその年のうちに亡くなったのだった。もうかれこれ十七、八年も前のことになる。
もっとも、加冠の夜に薫は妻と添い寝した。女房が並んで寝ている新郎新婦の上に二人用の
それからというもの、薫はその女を妻だと意識せずにきた。仏道修行の前では、女は敵だと思っていた。当然、今に至るまで、その女との直接の接触はなかった。
だから、その女の屋敷に向かっている今も、薫はまるで敵地に乗り込むような心境だった。
「こちらでございます」
薫の思考を打ち破るかのように従者の声が窓の外からして、一気に現実に引き戻された。薫は身をくねらせて、車の前の御簾の内側からその屋敷を見てみた。
そして、驚いた。四分の一町のその屋敷は、これでも本当に人が住んでいるのかと思われるほどであった。
ひどかった。いくら妻と意識はしていなかったにしても、金銭的援助は絶えず行ってきたはずである。それが築地は至る所で崩れ、門でなくてもどこでも出入り自由の状態で、その中は草が生え放題になっており、去年の夏草が枯れ草となっていまだに積まれていた。
薫は供の一人を呼んだ。その供はこの屋敷への援助を担当させていた家司だったから、直接咎めるのに都合がよかった。
「このような状況であることは、たびたびここを訪れているそなたなら知っていたであろう」
車の後ろに控える家司に、薫は車中の御簾の中から言った。
「なぜ知らせなかったのかね」
「はあ。殿はこの屋敷のことは政所にお任せきりで、さしてご関心はないのかと思いましたので」
それは道理だ。これ以上咎めたら、この男がかわいそうであった。
「分かった。とにかく、先方に私の来訪を伝えてくれ。そなたならこの屋敷のものとも顔見知りだろう」
この屋敷の政所も女房も、すべて薫の屋敷から派遣したもののはずだ。
家司は庭の築地の破れから、中に入った。どうも、いつもそうしているらしい。本来なら、屋敷の様子を外から見て、薫は帰るつもりであった。だが急に、中に入ってみようと薫は思ったのだ。
「沓を持て」
と、薫は残った従者に命じた。牛がはずされた。そのまま薫は、路上で車から降りることにした。車に乗ったまま門から入れば、門が耐えられるかどうか心配だったからである。
薫は歩いて、その門から入った。中は庭というよりは野といった感じで、足元に黄色い花が咲いていたりする。春の花などという風流なものではなく、それは踏まれても虐げられても力強く咲く野の花であった。
狭い敷地なので、すぐに寝殿に着いた。宇治の山荘の方が、よほど手入れは行き届いていると思われる。ここの寝殿は床も柱もほとんど黒に近い茶褐色と化しており、所々が風化している。
昇ると、女房が二人だけ、手をついて迎え出た。
「お帰りなさいませ」
薫にとって、ものすごく違和感のある挨拶だった。しかし、名目上は確かにそういうことになる。だが初めて来た場所でそう言って迎えられるのは、妙な感じを拭い去り得ない。
薫は南面に通され、主人の座で庭を向いて座った。それでもなぜか、落ち着かずにいる。
しばらくしてから、やっと女が出てきた。女房に、無理やり体を押されてという感じであった。
「御簾か、几帳を……」
「何をおっしゃいます。お方様の夫君ではありませんか」
そんな女房とのやりとりも、薫の耳に入ってくる。
やがて女は薫と直角の向きに座り、手をついた。これが加冠の折に全く指一本ふれなかったまでも隣に並んで寝た女なのかと、薫はつくづくと見た。
だが、どう見てもそこにいる中年女は、人生の途上でこの時はじめて出会った人としか思えなかった。髪も何の手入れもしておらず、飾り気のない普段着の
「顔を上げて下さい」
それでも女は、なかなかその通りにしなかった。しばらくして、やっとゆっくりとうつむきがちに上げた顔は、決して悪くはなかった。
やはりどんなに落ちぶれていても、その辺の庶民の女ではない。一応今をときめく摂政太政大臣の姪なのだ。
だが、美しいとまでいってしまえば誉めすぎになる。なんといっても年がいっていてそれなりの顔をしているが、薫の方もそれには文句は言えない年である。
女は薫の突然の来訪に驚いたようで、おどおどとして落ち着かない様子であったが、それは薫とて同じだった。何とか十七、八年前の記憶を呼び戻してそれと重ねようとするが、どうしてもできない。
「息災ですか?」
とにかく何を話していいか分からなかったので、とりあえず薫はそう切り出した。
「いつも変わらぬ御後見をたまわり、恐縮に存じます」
言葉がたどたどしい。おそらくは女房にこう言うようにと言われたことを、ただ丸暗記で棒読みしているのであろう。それが薫には、少しおかしかった。
それからしばらくは互いに言葉はなく、沈黙が漂った。とにかく、何か話題を見つけなければと薫は焦った。
「放っておいて、すまなかったね」
「いえ」
また、会話が続かない。この女は何なのだと、心の中で声がする。この女は、紛れもなく自分の妻である……しかし、妻といっても違和感は隠し得ない。まるで初めて会ったような女が、しかも御簾越しでもなく直接に目の前にいること自体も妙な感じだった。この女は妻なんだ……と、薫は再度自分に言い聞かせる。
だが、十七年も会うこともなく放っておいた女を妻といえるのかと、別の薫が反論する。頭が混乱した薫は、池もない庭の草の中の木立を見た。庭には所々に穴が掘られている。近隣の屋敷に木を根ごと持っていかれた跡だろう。
「庭も手入れさせましょう。塀も修復させますから」
庭を見たまま、薫は行った。短い返事以外は、女の反応はなかった。薫は女に眼を戻し、少し笑って見せた。
「そんなに固くならなくてもいいのですよ」
薫の気遣いだった。それで女も少し気を許したようで、顔に少しだけ笑みを浮かべた。
そこで薫は自分の供を呼び、三条邸に走らせた。修復の
それから、宮中のことや現在の世相のことなど、薫の方が一方的に女に話しているうちに何人かの匠がやってきて、庭の手入れや塀の修復、建物の修繕などが始まった。薫は庭に降りて自らそれに指示を与えた。何しろ指示をしなければ、何もしない連中なのである。
やがて、とりあえず今できる作業から始まった。
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