第2章 若紫

 源氏は瘧病わらわやみにかかっていたのだった。

 どんな加持祈祷も全くその効験しるしを現さなかったが、それは当然だと宮中から遣わされた内薬正は言った。

「この病はものがかかわるものではのうて、蚊が運ぶものなのでござる」

「蚊?」

 源氏は首をかしげた。今は発熱はしない時刻であるので、寝殿で内薬正と対座している。こうしている限り、全く常人とかわらぬ源氏であった。

「蚊と言われても今はやっと冬から春になったばかり、蚊などおらぬではありませんか」

「いや、夏に蚊によって運ばれてから、数ケ月は潜伏しておるのでござるよ、この病は」

 源氏はそのような、唯物的な診断みたてにはどうしても同調する気になれなかった。

 何か自分の中の暗いわだかまりがかたまりとなって、この病を呼んだのではないかという気がしていた。

 何もかもが暗い。

 たとえ快晴のもとの花の咲きわたる盛りを見ても、今の彼には暗い景色に見える。暗い心は物の怪を呼びやすい。つまり、暗い想念は邪霊と調が合いやすく、霊の交流交感が起こってしまう。源氏はその方の考え方に、むしろ同調したかった。だから内薬正が調合しておいていった薬物も、一切口にするつもりはなかった。

 同じ日の午後、頭中将とうのちゅうじょうからすでに宰相中将になっていた舅が、自ら二条邸を訪ねてきた。それは初めてのことであった。そろそろ発熱する頃であったので少し不安ではあったが、それでも彼は舅を寝殿へ迎え入れた。

「やはりお顔色がすぐれませぬな」

 と、宰相中将は言った。

「それよりも、このたびはわざわざのお渡り。また宰相(参議)になられたお祝いの宴にも失礼致しまして」

「いやいや、婿殿は病の身でござったのであるから、致し方のないこと。気にしてはおりませぬ。……ところで」

 宰相中将は、膝を少しだけ進めた。

「瘧病とかで。娘も心配しております」

「はあ」

 源氏にはその言葉は真実とは思われなかったが、とにかく聞き流しておいた。

流行はやりましたのが昨年の夏でしたのう」

「はあ。何でも蚊が運ぶと聞きましたが、この季節に蚊なんて……」

「ところで」

 宰相中将は、少し声を低くした。

「瘧病にはよく効く修法すほうをされるひじりを、まろはよく存じておるのですが」

「修法ですか」

 修法はもういいという感じだった。あらゆる加持祈祷させていた。しかしいずれも効験はなかった。

 かといって、唯物的な薬物に頼る気もしない。

「昨年の夏の流行の時も、すいぶんと救われた人があるのですぞ、その聖のお蔭で」

「しかしもう修法は」

 宰相中将は大声で笑った。

「万事この舅にお任せあれ。すぐにでも招いて進ぜよう」

「招くとは?」

「いささか遠い北山の寺におりますので」

「北山の? 何という?」

 寺の名を聞いた時、源氏は思わす苦笑した。それは今の自分の暗い心持ちを暗示しているような名だった。たしかに遠い寺だ。北山とはいっても、ほとんど都の外である。

「とにかく、万事お任せあれ。この病は放っておけば胸が腫れ、また頭にも支障をきたすといいますぞ。早く手を打たねば。宮中への出仕もこう長く休みましては」

 それは、源氏にとっては痛いところだった。こんな長欠は新人の中将としてはまずかろう。ましてや発熱時以外は何ら普通の生活をしているのに、病と称しての長欠はばつが悪くもあった。

 その後しばらくして宰相中将が退出した直後に、悪寒とともにいつもの発熱が始まった。

 言いようもない苦しさの中で、このまま死んでしまうのではないかと源氏は思っていた。発熱のたびに思うことだが、どうしてこのようなことになるのかといつも自分の運命を呪う。死んだあとのことまで考えてしまう。自分の後の世のこと、それから死んだあと残される者たちのこと。そして何もかもが嫌になり何がどうなっても、もうどうでもいいとなげやりにさえなってしまう。そしてその後、一種の諦観さえ生ずる頃に、激しい震えと発汗とともに熱は下がるのである。

 翌日、北山の聖からの使いと称する者が、直接源氏の邸を訪れた。おそらくは舅がすでに出してくれた招請への返事であろう。それによると自分は老体ゆえ、自ら都までは行くことはできないとのことだった。

「それならは、こちらからお行きなさいませ」

 北ノ対より渡ってきた母が言った。

「え? 私が北山へ?」

 母は宰相中将が勧めてくれた話のいきさつも、すべて知っている。

「そんな」

 源氏は躊躇した。それもそのはず、生まれてこのかた彼は、都の都条の外に出たことはないのである。

「そのようなところ、鬼でも住んでいたら」

 源氏はまじめに言ったのに、母は笑った。

なりは一人前ですが、まだ子供ですねえ」

 源氏は少々、むっとした顔をした。

 病を煩ってからというもの、発熱している時でなくてもやたら源氏は機嫌が悪かった。それはかりではなく、京極を出れば魑魅ちみ魍魎もうりょうの住み家と考えているのは、誰しも同じことだろうという反論が源氏の中にあった。

「分かりました。参ります」

 その時は意地もあってそう答えたのだが、あとで冷静になって考えるとそれも悪くないと考えはじめた。御帳台の暗い天井を見つめてのことである。

 祈祷も効かない、薬物もいやだ。この病は自分の心の中にある正体不明のわだかまりが原因だとするなら、日常を離れて北山へでも行ってみると案外いやされるかもしれない。ふとそう思った時、源氏の中ではっきりと北山行きの決心がついた。

 ひじりの祈祷云々は彼にはどうでもよかった。ただ見ず知らずの土地を訪れることによって、それが気分転換にもなり治病に効を奏すればと思ったのである。

 元服このかたわき目もふらす、彼はつき進んできた。心身ともに疲れ果てている。短い期間にいろいろなことがありすぎた。そろそろ休みたいというのも、正直な彼の心情であった。


 出発は三月の晦日つごもりで、本当ならもう桜も散っている頃だが、今年はやっと葉がまざりはじめたばかりであった。天候の不順というよりも、暦のずれのせいだろう。たしかに今年は五月のあとに閏五月が入って、一年が十三ケ月になることも知っている。暦と季節のずれは、閏五月のあとに修正されるはすだ。

 供まわりは惟光をはじめ家司けいし四人のみの、人目をはばかっての出発だった。源氏自身四位の一世源氏にはふさわしくない、ごく地味な狩衣姿であった。もっと身をやつしていたのは惟光だ。彼とて従五位下の身分であり、本来なら馬上で供をするというのもふさわしくない。もう五、六代前の話になるが、ある帝の流れの三世の源氏なのだ。

 早朝に出れば昼前に着くと母も言ったので、二条邸を出発したのはまだ暗いうちだった。大宮大路を上る車の中で、一条を出るまでは源氏は激しい動悸を感じていた。頭も朦朧としている。帰る時にも同じ状態だったら、何のために北山くんだりまで出かけて行ったのかということにもなる。源氏はそのことへの一沫の不安もあり、あえて身分を隠す姿で出発したのであった。

 大宮大路をさらに上り、紫野雲林院のあたりで日が昇った。このあたりまではかろうじて都の風情が残っていたが、そこを過ぎると一面の水田が山の麓まで続いていた。

 源氏にとって何もかもが、生まれてはじめての光景だった。水田にはまだ早芭は植えられす、水がはられているだけだ。それでも源氏はいちいち車の中から、馬で供している惟光に「あれは何?」と尋ねながら進んでいった。水田の狭間に動く農夫たちも都の庶民とはまた少し風情が違って、これとて源氏がはじめて見る人種だった。

「これは誰それの荘園でございます」

 惟光が説明すると、源氏は目を細めた。彼とて荘園を持っている。それとて元服よりも前の賜姓の折に手に入れたもので、彼は自分では実際にその土地を見たことはない。すべては二条邸の政所まんどころが処理している。幼い時からそうだったので、そんなものだと思ってしまっていた。しかし今彼は車窓の外の他人の荘園の実景を見て、自らのそれを頭の中に思い描いていた。

「あれが賀茂の御社やしろもりでございます」

 惟光が指さす方に、たしかに森があった。その名はいやというほど耳にしていたのに、実際に見るのははじめてだった。

 やがて車の両脇に山が迫るようになった。谷あいの川沿いに車は進んでいく。源氏は木々が生みだす空気を、胸いっぱい吸いこんでいた。いつの間にか動悸も息苦しさも、消えていることに気がついた。かなり長いこと車に揺られ、道はどんどんと山あいに入っていた頃、それまで全くなくなっていた人家がわずかばかり見えた。するとひとつの山の麓に寺の山門が突然姿を現した。もう日は、中天近くまで上っていた。

「山門内は急な坂になりますゆえ、車はここまでとか」

 惟光に言われて車の御簾を上げた源氏の前に、木沓きぐつがさし出された。

 あたりをさっと見まわすと、冷たい空気が全身に当たった。山々の常緑樹はその葉の色も鮮やかで、ところどころにある山桜が、ここでは今や満開であった。

 源氏は胸がすく思いだった。

「参ろうか」

 源氏のひとことに、供の者の顔がパッと明るくなった。良清などは涙ぐんでさえいる。

「どうしたんだ、良清」

 源氏が笑って問うと、嬉しそうな涙を浮かべた顔が輝いた。

「いえ。源氏の君様の笑顔を拝見するのは、何日ぶりかと思いまして」

「また、大げさな」

 源氏はもう一度笑うと、山門を入った。その途端に、今度は空気がはりつめた。ここは霊山なのだという緊張が、急に一行を襲ったりした。

 小柴垣で敷地を区切ったかなり大きな僧坊の脇を抜けると、道は急に狭くなった。何同も折り曲がって峰の上へと続いている。

「これが有名な九十九折つづらおりでございますよ」

 惟光が得意げに説明しても、素直に笑顔でうなずく源氏だった。

 一度折れ曲がることに、高度が増していく。今通ってきた道が、すぐ足元に見える。ここには土の道と草と木々があるだけで、玉砂利も香の匂いもない。まだ時折都のしがらみが源氏の頭の中を飛来したいするが、なぜか空々しい。まるで都でのあれこれは別世界での出来事のように思われる。

 登りきったところは山の中腹で、急に視界が開けて御堂がいくつもいらかを並べていた。

 どれもが木立の中に埋もれて建っているという感じだ。

 中央の本堂の前の広場から登ってきた方を振り返ると、たいへん見はらしがよかった。

 空は薄曇りで暗くはなく、太陽が中天で朧気にその存在を主張している。ここから都の方角は山の陰で見えなかったが、谷間の小さな村落のすべてが見おろされて、まるで洲浜のようだ。

 源氏はため息とともに、大きく息を吸いこんだ。

「来てよかった」

 彼のつぶやきには、実感がこもっていた。

「心が浄められていくようだ。こんな大きな景色の中に心を溶けこませれば、ささいなことで悩んでいた自分が小さく見える。人間関係のしがらみなんか、この景色に比べたら小さい小さい」

「でも、源氏の君様」

 惟光が脇から口をはさむ。

「この国にはもっともっと大きな景色がございますぞ。もっともっと高い、天をも突くような山もございます」

「それに、海」

 話に割って入ったのは良清だった。

「海は広うございますぞ」

「海? 私はまだその海というのを、絵でしか見たことがないけれどな」

「絵なんてちっぽけなものに、とても入りきれるものではありませんよ、海ってものは。でももし源氏の君様が海をご覧になれは、源氏の君様に絵心が生じるやもしれません」

「絵心か。悪くないな。亡き父院は私に、ひととおりの芸ごとは教えて下さったからな」

「私の父は昨年の春まで播磨守でございましたから、私もかの地に父を訪ねて参ったことがございまして。まあ、とりわけ明石の浦は、絵に描くのさえもったいないくらいでしたよ」

 良清の父も皇族だったが今は一世の源氏で、光源氏とは従兄弟いとこであった。故院の崩御以来どうも不遇となり、酒にひたり詩作に没頭するの毎日を送っているという。

 源氏は笑った。そしてひとしきり笑ったあと、急に笑みをかき消してため息をついた。

「明石か。私の一生でそんな士地と縁があることが果たしてあるのかな」

 その時彼の顔は、いつもの都人に戻っていた。


 ひじりは源氏自ら来訪したことについてかえって恐縮し、さっそく瘧病に対する修法が始まった。修法は護摩を焚き、聖が真言を唱える。そして源氏の病の気を形代に移してしまうというのだ。その形代を焼く。

 源氏は護摩木の炎を見つめながら、心が冷静になっている自分を発見した。

 今だ、と彼は思った。

 心の中のわだかまりをすべて消去するのは、今しかない。そう思って彼は、自分の心の中を、澄んだ眼で見つめた。

 そこにあるのは、罪――だった。父に後見を仰せつかった女性と、父の遺命以上の関係を持った。しかも相手は亡兄の未亡人。彼自身が意識していない所にそのことへの罪の意識が芽生え、それが正体不明のわだかまりになっていたのだ。

 罪は詫びれはよい。二度と犯さなければよい。大きく息を吸って吐いて、彼の心は澄んでいく。罪は自覚し得た時に、そこからの解脱げだつの道が開ける。罪は恐れおののくものではなく、素直に詫びるものだ。その詫びを形に現すものだ。都にいたのならば決して到達し得なかったであろう鳩地に、源氏は今到達し得た気分だった。

 罪は詫びればよい――誰に? 父に、御息所に、そしてみ仏に。自分の罪はよく分かった。それを詫びる気持ちが何よりも大切だ。あとはお許し下さった方に、どのようにお報い申し上げるかにかかってくる。

 源氏は目が醒めた思いで、もう一度護摩木の炎を見あげた。

 修法が終わって、源氏は庫裡で聖と対座した。従者たちは別室で休ませているので、今は二人きりだ。

「どうですか。一晩泊まっていらっしゃったら」

 聖は気さくにそう勧めてくれた。源氏は快く承諾した。発熱するはずの日は翌日である。翌日になってみないと、修法の効験しるしがあったのだかどうだかは分からない。それは今考えたことではなく、はじめから源氏の思惑の中にあったことで、それゆえに源氏はこちらへ一泊するつもりでここへ来ていた。

「お願い致します。心が晴れるというのは、このようなことなのですね。すべてのしがらみをふり切った気持ちです」

「ときに失礼だが、あなた様はおいくつになられる? お若そうじゃが」

「十八になります」

「お若い」

 聖は目を細めた。老人の彼が、ある種の羨望をその表情に浮かべているのが感じられた。

「瘧病の『わらわ』はわらわの『わらわ』に通じているとも言われておったりしましてね、一人前になるには『わらわやみ』を脱却して、はじめてなれるものでございますよ」

 わらわの病――たしかにそうだ。若さゆえの罪、若さゆえのわだかまり。しかし今自分に要求されているのは、そのような自分から脱却し、汚い意味での大人ではなく、真の意味での成れる人――成人と成長することなのではないかと、すでに老成した聖の顔を見ながら、源氏は考えていた。

「とにかく一泊といわず、何日でも逗留なさって下され。病のことも御公務のことも何もかもお忘れになって」

 そう、公務とさらには政治の世界、その中での人間関係、そしてその上の女性関係の泥沼を、すべて忘れてここにいてみよう――源氏はそう思った。だから彼は頭を下げた。

「かたじけのう存じます」

「病は忘れることが大事じゃ。治そうと思うと、それが執着になる。執着はすればするほど、執着するものは逃げていく。病を治そうなどという執着は捨てて、病のことを忘れてみなされ」

「は、お言葉のとおり」

「執着ほど、恐ろしき地獄の道はござらぬぞ」

 もしかしてこの聖は病だけではなく、すべての自分の心中を見透かしているのではないかと思って源氏は戦慄を覚えた。執着をとり煩悩をとる、そんなことを都では無理で、この自然に囲まれた山奥でこそと、源氏は思っていた。

 夕暮れになって、そんな自然の息吹をもっと吸いたいと思い、源氏は山中を散策してみることにした。供には惟光一人だけをつれて出た。


 本堂の前から眺める景観はぼんやりと霞がかって、都ではあり得ない様相を呈していた。

「そうそう、下に僧坊がございましたな」

 不意に惟光は、源氏に話しかけた。修法に入る前の世間話で、源氏は聖から下の僧坊のことも聞いていた。かの坊は聖の寺とは関係なく、著名な僧都そうづが隠遁している所だということだった。

 二人は何気なく九十九折を、僧坊を見おろす位置にまで降りていった。

 僧坊には尼がいるのが見えた。

「あれ? 僧坊といっても、尼さんの?」

 惟光が首をかしげると、源氏はそれを否定した。

「いや。あそこには僧都殿がおられると聞いたぞ。聖がそう申しておった」

「あッ!」

 源氏の言葉途中で、惟光は突拍子もない声を上げた。

「女がいる!」

 見てみると、たしかに僧坊にはいるはずのない、俗人の女房の姿が垣間見えた。

「行ってみましょう」

 惟光にひっぱられるかたちで、源氏は九十九折の曲がり角を何度もくねって下へ、僧坊の方へと降っていった。

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