小鳥の声だけが一響いている。時に夕陽があたりを一色に染め、ほんのりと落ち着いた気分が漂ってくる黄昏時であった。

 ひとつ角を曲がるごとに、僧坊がだんだんと近くなる。それにつれて中の様子もあらわに見えるようになってきた。


 俗人の女房は二人いるようだ。そして庭には子供たちの遊ぶ声もする。皆、女の子のようだった。

「あ、犬君いぬきッ! 何してんのッ! あ! 信じらんない! もう、やだ」

 突然、夕闇みの静けさをうち破るような声がした。子供の声だった。

 すぐに源氏たちの視界の中に、一人の少女が現れた。僧坊の尼のいる方に向かって、庭の中を駆けていく姿は、薄い黄色のお世辞にも美しいとはいえない着物を着ている十歳くらいかと思われる少女だった。

「どうしました? またけんかですか?」

 尼の声がはっきりと聞こえた。少女は泣いているようだ。

「だってえ、雀の子を犬君が逃がしちゃったんだもん。伏籠ふせごの中に閉じ込めてたのに!」

 可憐な声が源氏の心に一響く。大人の中にあって育った源氏にとって、はじめて接する少女であった。続いて女房の声が聞こえた。

「まあまあ、あの雀の子を。犬君ったらいつもそんなそそっかしいことをして、そして叱られるのは私たちですからねえ。かわいくなっていた雀だったのに、烏なんかが見つけたりしたらどうしましょうねえ」

「三の君!」

 女房の声に重なって、びしっとした尼君の声がした。

 今度は源氏が惟光を引いて、九十九折の坂を駆け降りる番だった。

 小柴垣より僧坊の中を見てみる。本来ならこのような垣間見は、中に年ごろの女性がいてこそ風流なものである。しかし今源氏が見ているのは、あどけない少女だった。

「こちらへいらっしゃい。いつまで子供じみて」

 源氏は尼君に言われて縁から上ろうとする少女の顔を、ちらりと見た。尼に似ている。この尼の娘なのかとも思う。しかしその瞬間、源氏の中に衝撃が走った。頭の先からつま先まで、得体の知れない流れが駆けぬけたのだ。

「懐かしい」というのが、この時の源氏の気持ちだった。そして同時に、予感めいたものがあった。しかし、本人が意識していない潜在下に、その流動は走った。この感情は、源氏が生まれてこの十八年の間に由来するものではないようだ。長き転生の過程において感ずる、魂の次元のものであったように思われる。

 今、源氏の心の中の鐘が、一斉に打ち鳴らされた。ところが当の彼はいたって冷静で、そんな自分の感情に当惑さえ覚えていた。

「あなたのお母様は、あなたのお年ごろにはもっと大人でいましたよ。あなたがこんなでは、このばばが死んだらどうするのです。もう私は先は長くないのですから」

 言い聞かされて、少女はちょこんと尼の前に座っていた。

 奥から僧が出てきた。その僧が何か言うと女房たちがあわてて御簾を降ろし、目の前で繰り広げられていた夢幻劇は幕が降ろされた。

 源氏はため息をひとつついた。

「老いた尼と子供じゃあ、色めいたものじゃなかったですな。あの女房とて、とうがたってましたしね」

 惟光が話しかけても「うん」とうなずく源氏は、その相槌に気が入っていなかった。


 夜の床に入っても、源氏には夕方に見た少女の面影がとりついて離れなかった。

 しかし相手は十歳かあるいはそれよりも年少の幼女である。どうかしていると、源氏は自分でも思った。どう考えても恋愛の対象とはなるはすもない少女が、なぜこんなに自分を魅了しているのか分からない。自分にはそのような趣味はなかったはずである。

 ただひとつ言えるのは、可憐な少女の中に今まで自分を苦しめていた年上の御息所と正反対のものを見たということである。熟女にはあり得ない心の安らぎが、あの少女にはあった。

 あの少女は、成長していったそのあとが楽しみなのだと、彼は自分に言いきかせた。

 それにしてもどういう境遇の娘なのだろうかと、そのことが気にかかる。決して賤しい身分ではないようだ。それはあの女房たちのいでたちや、尼君の気品からも分かる。できれは自分の娘として、いや妹としてでも接していくことができないだろうかと、そんなことを考えたりもした。それだけで胸が熱くなり、まだ当分寝つけそうもなかった。

「執着は地獄」と言った聖の言葉が、突然蘇ったりする。しかしこれは執着ではない、そしてさらにこれは決して異常な性愛ではないと、源氏は心の中で締り返した。自分はあの少女の庇護者になり、育ててみたいだけだと。

 それにしても少女を見た時は思わなかったのだが、今にして考えると誰かに似ていたと思う。それが具体的に誰に似ていたのかは、どう考えても分からない。しかし決してそんなことが、少女に惹かれた理由ではないことには自信があった。

 今はまだ自分と少女は距離的には近くても、全く別々の時間を過ごしている。その垣根を越えるすべは、全く思いあたらない。このまま明日帰洛してしまえば、互いの生涯に全く何の接点もないまま、永遠に無関係で終わってしまうだろう。しかしそれに対しても、なすすべもない。

 いいかげん源氏は疲れからも、うとうとしはじめた。

「たしか三の君と呼ばれていたな」

 そう思ったのが最後に、源氏は眠りの中に落ちていった。

 翌朝の勤行に、源氏も参加した。しかし今日、この地を離れねばならぬのかと思うと、源氏の心は落ち着かなかった。

 朝餉あさげは、従者たちといっしょにとった。

 二条邸にいたのならば許されるはすもないこの状況に、従者たちは踊りあがった。

 その席へ、聖が突然やってきた。

「源氏の君様。ただいま下の僧坊の僧都様の使いが参っておりますが」

「えッ!」

 源氏はどきっとした。そして叫びとともに箸をとめた。あの少女のいた僧房の僧都……。

 従者たちのいぶかしげな視線が、一斉に源氏へ向けられた。その場をとりつくろうためにひとつ咳払いをして、源氏は惟光に目で合図をした。

 意を得た惟光は、すぐに部屋を出ていった。その間、源氏の胸は高鳴りっぱなしだった。いったいどんな用向きなのだろうと、そのことが心の中で渦を巻き続けていた。

 程なく惟光は戻ってきて、源氏に耳打ちをした。何でも、僧都が挨拶に参上したいとの用向きだったという。

 源氏は胸がますます高鳴った。向こうから話がとびこんできたという感じだ。僧都とかの少女との関係は分からないが、少女は僧都の坊にいたのだ。ゆかりがないわけではあるまい。

「このたびは忍びで参ったゆえ失礼したが、そのうち参りますと、そう伝えてくれ」

 源氏は惟光に言い、そう伝えさせた。

 ところが昼前に、僧都の方から山を登ってきた。供は稚児ちごを一人つれているだけだった。

「これは、これは」

 と、聖が下にもおかぬもてなしをするので、よほどの高僧らしい。源氏は自分の忍びの狩衣姿が、ばつが悪くもあった。

「何でも瘧病とか」

「はあ」

 対座してからも、故院の皇子である源氏の方がかえって圧倒されるような威力が僧都にはあった。

 大らかな笑みがその僧形の中にある。無為にして化せる人だと、源氏はこの時僧都に対して思った。

「病のことは、ここへ来てからなるべく忘れるようにしております。忘れさせてくれるいろいろなこともありましたし」

「ほう、昨日おいでになったばかりで、もう」

「ええ」

 源氏の頭の中に、昨夕の雀の子の少女の姿が蘇る。しかしいきなりそれを切り出すのは、いかにも不躾ぶしつけだと思った。

「とにかく」

 僧都は笑った。

「気を紛らわせることが、何よりでございます」

「はい。こちらの聖様も、執着は地獄だとおっしゃっておられましたし」

「そのとおりですね。この世は写し世と申しまして、すべてが仮の存在、仮の住み家でございます。そのようなものに執着するなど愚かなこと。後の世こそ真の住み家で、この世での心のあり様が、後の世をも決めてしまいます。その魂の状態が後のことはかりでなく、今のこの世にも働きかけておるわけですからな」

「後の世を決めてしまう」

 忘れていたことが、ふと頭をかすめた。罪の意識――罪ゆえに後の世が決まる……源氏はあわてて他のことを考えた。罪ゆえに暗い心になるのは、罪から解放されていないことになる。それでは都にいた時と同じだ。

「拙僧もですな、源氏の君様がおいでと伺いまして、世間で御許判が高くていらっしゃる光源氏様をひと目拝見致したいと思いまして、こうして参ったのでございますよ」

「そんな」

 源氏は照れて笑った。

「これもきっと何かのご縁ですな」

「げに」

 源氏はすべてが目に見えない何かの存在に仕組まれてのことだと、強く感じていた。

「時に源氏の君様。今宵はどうか手前どもの僧坊に来泊しては頂けませぬか」

 また源氏の胸が高鳴った。仕組まれすぎている。源氏はしばらく言葉も出なかった。

「ぜひ、いかがでございますかな」

「え、ええ。こちらこそ、ぜひ」

 僧都はにこやかに笑った。

「おお、よかった。いえ、実は源氏の君様が我われの僧坊を素通りされてこの寺へいらっしゃったと聞きましてな、何か我われに不手際があったのかと心配しておったわけでございましたのですけれど」

「いえ、そのようなこと」

 緊張で源氏は、全身が硬直しているのを感じていた。

「お待ち申しております」

「は」

 なぜか頭を深くたれる源氏であった。

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