午後からはまたひじりの修法があった。

 しかし源氏は僧坊のことばかりを考えていた。僧坊にはまだ、あの姫君がいるだろう。もしいるとするなら、同じ屋根の下に泊まることになる。

 源氏はまたもどかしくもあった。妙齢の娘に対してなら、いろいろと恋の手管というものがある。しかし、相手は幼女だ。だから彼女への自分の感情も、決して恋愛とは言えまい。では何なのか――その答えは分からなかった。

 源氏は夕刻が待ち遠しかった。寺の境内や裏山などを従者とともにそぞろ歩きし、彼は夕刻になるのを待った。

 九十九折つづらおりの坂を降りて小柴垣の脇を抜け、僧坊の入り口に立ったのは、ちょうど昨日あの少女を見かけたのと同じ時刻であった。

 僧坊の正面には、大きく「紫雲亭」と書かれた額が下がっていた。

 迎えに出たのは稚児(子供の見習い僧)ばかりで、女気はなかった。

 まずは夕餉となり、源氏には僧都が直々に相手をした。従者たちも別室で、稚児の接待を受けていた。

「あの、この僧坊は紫雲亭とおっしゃるのですね」

 源氏の問いに僧都はひとしきり笑ったあとに言った。

「拙僧が名づけたのですよ。これには少しいわれがございましてね」

「はあ、どのような」

「実は拙僧は昔、比叡の山におったのですが、その頃に一乗止観院で五堂会がありましてな、その日のことですよ、比叡の山から見ましてちょうど西の方に紫色の瑞雲がたなびいておりまして、その元地がこのあたりということだったんです。そこで拙僧はこの寺へ参ってみると、すでにひじりのお寺が山の上にございまして」

「それで、紫雲亭と」

「はい。すでにお寺はあるのなら、拙僧はせめてその山麓にでも紫雲をたたえる御堂をと思った次第でございます」

 源氏はもう一度、室内を見まわしてみた。あかぬけた様子に、こぎれいに整理されていた。

 出されていた食事も、とても山寺の僧のためのものではあり得ないものだった。源氏には酒までついていた。もっとも僧都には、それはなかった。

「ところでこの僧坊には、まことに僧都様と稚児たちだけでお住まいでございますか?」

 僧都の眉が、少し動いた。源氏はしまったと思った。

「あ、これは不躾なことを申しました。お許し下さい」

 しかし彼は、この屋根の下に尼と女房と少女たちがいたことは知っている。いや、少なくとも昨日の暮れまでにはいた。

 僧都は笑みを返してきた。源氏はそれで少しは安堵した。

「さすがお若い貴公子であらせられるお方。勘が鋭いとでも申しましょうか。しかし、本当のことを申し上げれば、がっかりなさることでしょうな」

「は?」

「拙僧の妹の年老いた尼がおります。やはり身体がすぐれぬとみえて、こちらに養生に参っておりますが。それにおつきの女房が二人はかり。これらとて、あなた様よりかはすっと年上の方々にございます」

「尼上様に、女房がおつきで?」

「いや、これはちょっと、わけがありましてな」

 僧都は口こもった。何か言いにくそうである。そこで源氏の方から、探りを入れてみることにした。

「妹御の尼上様は、娘御がおありでは?」

 あの少女はたしかに、少し尼君に似ていた。血縁がないわけはないだろうと思ってのことだった。しかしまた僧都の眉が動いた。

「あ、これは、昨日の夢でそのように見ましたもので」

「夢ですか」

 幾分落ち着いた様子をとり戻して、源氏の言い訳を真に受けたようで僧都は語り続けた。

「娘、つまり拙僧にとっては姪ですが、おることはおりました。さきの常陸介との間の娘でしたが、さる高貴なお血筋の方がかよってこられるようになりまして……」

「高貴な方?」

「はい。ところがそのお方も通って来たり来なかつたりで、どうせ一時のお遊びのおつもりだったのでしょう。そのうちにそのお方の北の方から恐ろしい脅しの言葉を、出入りする女を介して言ってよこしたのですよ。姪はそれから心苦が重なって、そのお方は恋しいわ、通っては来ないわ、その方の北の方は恐ろしいやで、そしてとうとう病になって亡くなってしまいましてね」

「それは、お気の毒な」

 僧都は涙ぐんでいるようだった。

「で、その方に忘れ形見は?」

「八つになる女の子がひとりおります」

 それだと、源氏は心の中で叫んだ。あの尼にとっては孫娘だったのだ。道理で似ていたはずである。十歳くらいだと思ったが、実はまだ八歳。源氏よりちょうど十歳年下だ。

 女房たちはその守り役なのだろう。

「僧都様!」

 源氏の頭の中は真白だった。思わす膝を進めて肩で息をしていた。

「その姫君のお世話を、私にさせては下さいませんか。不躾は重々承知です。しかし今のお話を伺って、お見捨てになるわけにはいきません」

「源氏の君様」

 急に僧都の口調が厳しくなった。

「お戯れも、度が過ぎましょう」

「戯れではございません。み仏のみ名にかけましても」

 しばらく沈黙があった。

 源氏は僧都の機嫌をそこねたのかと思って、申し出を少しだけ後悔した。しかし、彼は自らの中よりほとばしる力によって、気がついたら申し出ていたのである。とめようとてとめられないことだった。

 一大決心を自分は断行してしまった。あとは相手の出方次第だ。

「分かり申した」

 僧都はまた笑顔をつくった。

「しかし、このことは拙僧の一存ではお答え致しかねます。妹があの姫の後見うしろみでございますれば……。では、拙僧は勤行がありますゆえ」

 僧都は顔こそ笑んでいたが、あきらかに狼狽したふうに立ち上がって出て行こうとした。

「よしなに、よしなに」

 源氏は頭を床にこすりつけていた。

 寝室として通された部屋は九十九折の坂にほど近く、坂の途中にあったほんの小さな滝の音がよく響いてきた。

 その水音を聞きながら、この北山でこんなにも運命の変転があろうとは思い到ってはいなかったことに、ふと思いを馳せてみた。一人の少女との出会い……今、その少女はこの同じ屋根の下にいる。あれほど遠かった存在が、確実に近づきつつある。

 そして源氏は、あることに気がついた。この日は発熱するはずだった日であった。どう指を折って数えても、そうなる。ところが忘れていたうちに、全く発熱することもなかったのであった。気分も爽快だった。

 滝の音を聞きながら、都でのどす黒い悪夢から醒め、新しい夢の中へ入りつつある自分を感じていた源氏の目に、微かに涙が浮かんだりした。

 翌朝さっそく、源氏は尼君への対面を求めた。尼はすでに兄から話は聞いていたらしく、厳しい表情をしていた。

「尼上様の御孫娘のことでございますが」

「そのことなら」

 ぴしゃりと尼は、源氏の言葉をさえぎった。今でこそ老齢の尼君だが、若い頃は充分に美人であったであろう面影を残している。

「ひとつ、源氏の君様にお伺い致したいことがございます」

「なんでございましょう」

 姫の世話をさせてもらえるなら、何でも来いという心境だった。

「源氏の君様は、あれの年齢を勘違いされているのではありませんか?」

「は?」

「孫の年ですよ。私の孫はまだ、源氏の君様のお相手ができるような年ごろではございません。まだ八つなのですよ」

「存じております」

 え?――というような表情を、尼君は見せた。

「一昨日、雀の子に逃げられて泣いているお姿を拝見致しました」

 尼君はしはらく口をぽかんと開けていたが、すぐに気をとり直して言った。

「それならはなおのこと、お気持ちが分かりません。あのような年端もいかぬ娘をお相手にとは、これはもうお戯れとしか」

「いいえ。決してそのようなことでは……」

「では、いかなる所存でございます」

「私は浮ついた気持ちではないのです。それに姫君をそのような好きごとの相手に見ているわけでもないのですよ。何と申しますか、娘、いや妹とでも思いまして、お世話をして差し上げたいのです」

「あの姫には私がおります」

 そうは言うものの、目の前の老尼がいつまで姫についていられるか心もとなった。しかしそれを口にするのはあまりにも失礼すぎた。

「とにかく、源氏の君様は何か思い違いをなされているのですよ。もしお気持ちが変わりませんでしたら、せめて姫がそのような年ごろになりましたらそう、あと四、五年ほどしましてから、もう一度おっしゃって下さいまし」

「違うんですよ」

 らちがあかない、源氏はいら立ちさえ覚えていた。新しい夢の前にこのような思いもかけぬ防御壁が立ちはばかってしまった。すべてが壊れてゆくような気がした。

 しかしこれ以上は、何を言っても無駄のようであつた。

 この日のうちに、源氏は都に戻ることにしていた。僧都がせっかくなので、裏山を歩いて川のほとりへ出てみたらどうかと勧めた。

「裏山の反対側の川べりは、今でもまだ花が満開とか。景勝の地ですし、車は道づたいにそこに回させたらよろしいでしょう」

 源氏はぽっかり穴のあいた空虚な心のまま、その勧めにのることにした。

 牛飼童に従者一人をつけて、車は空のまま山麓をまわる道の方へ向かわせた。源氏たちは人一人がやっと通れる細い道を裏山へと登っていった。僧都も源氏一行に同道した。

 途中源氏は、何度も山の麓の僧坊のあたりを見ようとした。もはや木々に阻まれて、それは全く見えなかった。あの少女ともこれきりになるのだろうかという寂しさが、心の中にある。しかし前世の因縁があれは、必ずまた会えるだろうと、源氏は自分に言いきかせたりもしていた。

 傾斜はかなり急で、源氏は頭と烏帽子の間に汗をにじませたが、すぐに道は降り坂となった。

 木々と草の匂い、土の感触、いつしか源氏の心はそれらのものを楽しんでいた。時折道の行く手を、鹿が横切ったりもした。全く人の手が加わっていない山である。手のこんだ屋敷の庭もそれなりに風情はあるが、こうした人の手が入っていない自然にもそれなりの趣きがあるのを源氏は感じていた。

 やがて一宇の小さなほこらがあった。岩が積み重なつている上にある本当に小さな祠だった。

 一向は手をあわせた。なぜか僧都はそれに向かって、柏手を三つ打ち鳴らしていた。そのあとはさらに急な降り勾配となり、やがて小さな川沿いの谷あいへと出くわした。

 たしかにそこは桜が満開だった。しかし源氏が驚いたのは、あきらかに貴人のものと思われる車が二つあり、従者も大勢いたことだった。源氏の車はというと、それもそこに到着しており、隅の方に小さくたたずんでいた。

「どなたでござろう」

 源氏は僧都に問いかけてみても、僧都は首をかしげるだけだった。

「さあ、拙僧に聞かれましても」

「惟光」

 源氏は惟光に、誰の一行であるか聞いてくるように言いつけた。惟光は身軽に、山道を駆け降りていった。

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