惟光は戻ってくると、息を切らしたまま報告をした。

右近うこんごんの中将ちゅうじょう様の御一行とか」

「右近権中将?」

 右近中将は源氏の舅である宰相中将である。

「中将ではなく、ごんと?」

「はい、たしかにそう申されておりました」

 権中将とは仮の中将ということである。恐らく右近衛府は中将が参議と兼任なので、中将職を補佐する意味でもせられた人なのであろうが、それにしてもそのような存在は聞いたことがない。聞いたことがないということは、この春の除目で自分といっしょに任ぜられた新人である可能性もある。

 源氏が歩いて近づくと、車の中からやはり狩衣かりぎぬに身をやつした、年の頃は自分とあまり変わらないか少しは上かとも思われる青年が出てきた。白い顔に笑みを浮かべている。

「これはこれは源氏の君。このようなところでお会いできるとは。いかがなされたのです? 供まわりもわずかでいらっしゃるようだし、しかも徒歩かちで」

 相手は自分のことを知っている。ゆっくりと歩んで、彼は源氏と向かい合って立った。

「たしか御煩いありとお伺いしておりましたが」

「その祈祷のために、この北山の寺へ参っておったのですが」

「ほう、それで御煩いの方は」

「すっかり快復致しました」

「それはよかった」

 本当によかったというふうに、男はにこにこ笑いだす。初対面ではあるのに自分のことをあれこれ知っており、ああでもないこうでもないといろいろなことを言うのではじめは源氏は警戒してしまったが、その笑顔を見ているうちになぜか親しみすら覚えてきた。

 たしかに顔は見たことはあった。除目の折に列にいたのを思い出した。

「このたび、権中将になられた方ですね」

「ええ。兄のもとで、ともに仕えることになりましたよ。今までは右兵衛佐ひょうえのすけでしたけれどね」

「兄? 兄上とは?」

「宰相中将でござる」

 源氏はなるほどと思った。初対面なのに妙に覚えた親近感は、この男が舅の弟であったからだったのだ。妻から見れば叔父に当たる人だ。

「これはこれは」

 源氏は一応の礼をとった。

「私はあなたと、そのような固苦しい仲にはなりたくないのですよ」

 権中将は笑っていた。つられて源氏も、やっと笑みを見せた。舅の弟とはいっても彼の兄である源氏の舅とはかなり年齢は離れているようで、源氏よりは年上ではあるらしいが同世代といってもよさそうだ。同じ身内であり、しかも血の遠近は別として、年齢的には舅よりは自分に近い存在である。

「ところで権中将殿は、今日は?」

 源氏に尋ねられて、権中将は上を見上げた。川沿いの小経に左右から迫る山の峰から、八重桜の花びらが雪のように二人の周りにしきりと落ちていた。

「都の花も終わりましたゆえ、春の名残を求めて」

 風流人なのだ。

 たしかにこの景観のためなら、はるばるやってきてもそれだけの価値はありそうな場所だった。

「いかがです。我々の邂逅を記念して、ひとつうたげでも致しませんか」

 源氏は賛成だった。このまま帰るにはもったいないと思っていた矢先だったからだ。

 すでに川沿いに桟敷さじきが設けられていた。このあたりは都の貴人の物見遊山ものみゆざんも、特にこの季節や紅葉の頃には多いので、常設されているのであろう。

 宴になると聞いて、僧都は遠慮して帰った。彼自身は名残惜しげに源氏の再来を請うと言った。源氏もそれを約したが、あえてあの少女のことは話題に出さなかった。

 花びらの中で二人の貴公子も随身ずいじんたちも行く春を惜しんで杯を重ね、歌舞も催された。もしかしたら権中将ははじめからそのつもりでいたのか十分な酒と、都の菓子や料理を持ってきていたのだった。

「笛もあります。琴もあります。さあ」

 権中将は源氏にしきりに杯を勧める。源氏は、従者の一人に権中将の笛を借りて吹かせると、権中将の従者の中から鼓を打つ者が出た。

 やがて権中将は篳篥ひちりきをとり出して吹きだした。舞い散る花びらと楽音、さらに小川のせせらぎという舞台装置の中で、源氏の心は酒とともに酔い、今までに感じたこともなかった安楽観に浸っていた。このまま時が止まれはいいとさえ思った。

「あなたも何かなさいませんか」

 勧められて源氏は琵琶を手にした。それに権中将は琴を和した。初対面の二人とは思われぬほど、その息はみごとに一致していた。

「いや、お見事」

「亡き父院が私に、ひととおりの芸ごとは身につけて下さいましたから」

 源氏は褒められて照れ隠しに、ただ微笑んで見せた。

 宴は進んだ。

 ――葛城寺の前なるや 豊浦の寺の西なるや 榎の葉井に白玉しずくや ま白玉しづくや おしとんど おしとんど――催馬楽さいばらを扇で拍子を打ちながら誦している者の声を背に、二人きりで源氏と権中将は酒を汲み交わした。

「時に源氏の君、宮中のおつとめには精通されましたかな」

 そう言いながら権中将は、酌を勧めてくる。それを受けながらも、源氏は返答に因っていた。中将に就任して半月このかた、はじめは六条通いで心ここにあらず、最近は病のため長欠で、ほとんど中将らしき職を行ってはいない。

「私もねえ」

 源氏が答えなくても、権中将は勝手に喋り続ける。

「はじめて宮中に出仕した頃は閉口しましたよ。どんなことに関してもまずは先例としきたり――宮中を動かしているのは、この二つですよね。いや、動かしているんじゃない。動かないようにしているんですよ、この二つが」

「はあ」

 はじめて中将の職についた源氏と違い、権中将には前職がある。その先輩の言葉は、時々彼の頭の上を飛んでいってしまう。

「そう感じたことはありませんか」

「はあ」

 源氏にはまだよく分からなかった。

「でもねえ、今はもう違うんですよ」

 権中将もかなり酔いがまわっていた。

「私は私なりに考え方を変えた。先例やしきたりに縛られて生きるのはごめんだ。そこで私はね、自分が先例としきたりの権化ごんげになろうと決めたんだ。どうです、源氏の君」

「はあ」

 全く分からない。分からないなりにも、ここはうなずくしかない。

「いっしょにやりましょうよ。私とあなたが組んで、先例としきたりの権化になってやりましょうよ」

 またもや源氏は返答に因っていた。話が分からないとは、体面上決して言えることではない。

「私はそれらについて、父の左大臣から教命を受けております。もちろん兄もでしょうけれど、父は兄よりも私の方に一目置いている……これは絶対だ。それに源氏の君も、御父君より賜られたのは芸ごとはかりではないでしょう」

 さらに源氏は因って、話題を変えることにした。ますは権中将へ酌をする。

「ところで、そんな宮中から逃れて、こういうところで宴をするのも趣きがあるものですね。権中将殿もそれを求めていらっしゃったのでは」

 含み笑いをしたあと、急に権中将は目を伏せた。

「愚か者の話を、しましょうか」

 急に権中将の態度が変わったので、源氏は少しだけ身を硬くした。

「私がまだ加冠から間もない頃でしたから、今から八年くらい前だったかな、ほんの遊び心で通っていた女がいたんですよ。でもはじめは遊び心でしたけど、だんだんと情が移ってきましてね。それでもしはらく行かなくても恨みを言うわけでもなく、私だけを頼っているふうなので、見捨てるわけにもいかなくなっていたちょうどその頃にですね、私に内緒で私の妻がひどいことを言って、その女を脅したらしいんです。もっともあとから聞いた話ですけどね。でも、その後ぷっつりと、その女は消息を絶ってしまったんですよ。あちこち捜させましたけど、とんと消息は分からずじまいでして。今どうしているやら。生きておれは苦労もしているであろうし、まず生きているのかいないのかもわからない」

 権中将は他に視線を向け、ため息をひとつついた。どこかで聞いたような話だと源氏が思っていると、権中将はそのままつぶやいた。

「もう八年もたつというのに、まだその女を忘れられないなんて。自由に会えた時にもっと大切にしていればよかったと、そう思うことしきりですよ」

 源氏もしばらく、視線をそらして下を見ていた。権中将はおもむろに顔を上げた。

「それで、実はですね。その女との間には娘も一人できていたのですけれど、その娘がこのあたりにいるのではという話がありましてね、とにかくゆかりだけでも求めてというのが、このたびここへやってきたわけなんです」

 思わずあっと叫びそうになるのを、源氏は扇で口を抑えてとめた。

 僧都が言っていたあの少女の父の、さる高貴な方とは……今、目の前にいる権中将……?

 源氏は目を見開いた。

「どうか、されましたか?」

「あ、いえ」

 源氏は少女のことが喉元まで出かかったが、抑えた。権中将にあの少女の前で父親の名乗りをあげられたら、少女を引き取って育てたいという自分の願望が水泡に帰す。酔った頭の中でも、瞬時にそのことがひらめいたのだった。

 権中将は、もう一度ため息をついた。

「私にとっては三番目の姫、つまり三の君を探しての旅でしたが、まあ、いい。ここであなたとばったり会って宴となったということは、このまま帰れとの神の思し召しでしょう。娘はここにはいなかったのですね」

 源氏はもどかしかった。言おう、いや言ってはならぬ。その葛藤の中で、源氏は手酌して杯を干した。

「おやおや、これは義理を欠きました」

 慌てて権中将が酌をし直す。

「ま、宿世があれは、お会いできるでしょう」

 今はそう言っておくのが源氏には無難だったが、それでもうしろめたさは残っていた。

 そろそろ帰るという頃になって、源氏は惟光を呼び、帰りの仕度を命じた。

「牛飼を呼んで、私の車と権中将殿の御車についておくように言っておけ」

 言ってしまってから、源氏ははっと権中将を意識した。

「あ、牛飼じゃない、牛付だ」

 権中将は何かにぴんときたらしい。

「源氏の君はいつも、牛飼を牛付と?」

「あ、いえ。ここは舅殿の弟御の御前でしたので」

 権中将はひとしきり笑った。

 実は源氏の舅の宰相中将の幼名が「牛飼丸」だったので、小野宮家では今でも牛飼を牛飼とは言わずに牛付という。それを思ってのことであったが、権中将はそのような気違いは自分には無用だと言った。

「申しておきますが、兄は兄、私は私です。私をあの兄の弟として見るのは、おやめ下さい。兄とは違うんです、私は。兄とは母も違いますし。だから、これからは一対一の、男と男としてつきあいましょう」

 権中将はそう言って、源氏に軽く頭を下げるのだった。

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