第2章 橋姫
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その頃、世に忘れられたようにひっそりと山奥で暮らしている一親王がいた。
薫も噂はかねがね聞いてはいたが、はっきりとその名を耳にしたのは、冷泉院にてある阿舎利からだった。薫の父の光源氏が晩年を暮らしていた嵯峨の御堂の僧で、父の最期を看取ったうちの一人でもある。その阿舎利が時おり冷泉院に顔を出して院に経典の講義などをするようになったのも薫のつてであった。だから阿闍梨の院への御進講の時は薫も寝殿へと招かれ、同席するのが常となっていた。
その日は阿闍梨の出入りが始まってからもう数回にわたっており、阿舎利はすでに院ともすっかり打ち解けて、親しくお話するようになっていた。院は御年三十六歳で、本来なら働き盛りとして政治の中心にもあっていいようなお方だ。それが静かな余生を送っておられる。その院の御子には、十九歳というの若さ絶頂の今の帝がおられる。
「院の仏典に対するご造詣は日増しにお深くなるばかりで、形ばかりの僧であるわが身は恥じ入るばかりでございます」
そう言う阿舎利の顔で、白い眉が動いていた。院は少しだけお笑いになった。
「それは誉めすぎではないかな?」
「いえいえ。本当にもったいのうございます。そうそう、もったいないといえば、前左大臣の中務卿の宮様ですな」
前左大臣が宮というのも奇妙な話だが、居合わせた人がすべて実情を知っているので誰も怪訝な顔はしない。
「今では嵯峨の我が御堂に程近い亀山の山荘で、ひっそりと暮らしておりまする」
「私の叔父宮様ですね。あまりお目にかかったことはございませんが」
「実は拙僧、実はその小倉山の麓の亀山の山荘にも時おり招かれておりまして、聖教を講じ申し上げておりますが、なになに、拙僧の方が本当に恥ずかしくなるくらいの方でして」
「書をよくし、詩文の才にも恵まれておられるとは伺っておりますが」
「今ではむしろ、仏道への御造詣が深くていらっしゃいます。まるで『俗聖』とでも申しましょうか」
俗聖と聞いて、それまで黙って阿闍梨と上皇の会話に耳を傾けていただけの薫もふと意識を向けた。俗の身ですでに心は聖だということを耳にして、急にその宮への関心がわいてきたのである。
「阿舎利殿」
声をかけてしまってから院の御前であることに気づき、慌てて院に一礼して無礼を詫びてから、もう一度薫は阿舎利に声をかけた。
「そのお方はそのようなお心がおありなのに、まだ俗の御形のままで?」
「いろいろとしがらみがございますようで」
穏やかに笑んで、阿舎利は言った。薫は少しだけ、身を乗り出させた。
「お噂は耳にしておりましたが、今までどうも詳しい話は聞くことができずにおりました。院の叔父宮ならば、私にとっても叔父御では?」
「その通りだよ」
と、院が口をはさまれた。
「光源氏の君とは母こそ違え、同じ年にお生まれになった
そこまでなら薫も知っている。父が筑紫に流されたあとに左大臣となった小一条殿はすぐに他界し、そのあとに左大臣に上ったのが今話題になっている宮だ。ちょうど薫が十代の多感な時期に、この宮は政界の頂点にいたことになる。
その頃は父も筑紫から戻ってきており、嵯峨の御堂で健在だった。だが当時は左大臣とはいえどもその上にはじめは一条摂政太政大臣が、次にその弟の堀川関白内大臣がいて、それらが実質上の頂点であった。太政大臣は名誉職、内大臣は左大臣より下とはいえ、その肩書きに摂政や関白がついてしまってはかなわない。薫の父が左大臣であった時も上に小野宮関白太政大臣がいたし、現在の源左大臣の上にも三条関白太政大臣がいる。
つまり同じく源左大臣と称された三人が、同じ境遇にあったか現在あることになる。
だが、薫の父は大宰府に左遷された。そして次の源左大臣も今や亀山の山荘で遁世生活を送っている。それを思ってか、その二人の源左大臣の従弟に当たる今の源左大臣はおとなしくしているようだ。しかも前の二人が一世の源氏であるのに対して皇孫賜姓であるから、格がひとつ下がっている。
さて、阿舎利が宮と呼んだ、光源氏と同年齢の異母弟の源前左大臣である。
光源氏が筑紫に下向した頃は大納言で、今の東三条右大臣の次男の現左少将の加冠役をも務めた。だが六十の老境にあってから急に源姓を停止され、親王宣下されたのである。これで左大臣でいることはできなくなり、一品中務卿に
賜姓源氏が源姓を削られて親王宣下され、再び臣下から皇族に加えられた先例はある。薫や冷泉院の曽祖父の法皇がそうだ。だがその場合は親王宣下と同時に皇太子となって、やがて即位した。
それにひきかえ前右大臣は中務卿という冗官に甘んじることになった。すべては、あの小野宮一族の策略である。その証拠に、即日次の左大臣になったのは、今の三条関白だ。つまり、光源氏や九条前右大臣の政敵だった小野宮前関白の次男である。
その中務卿宮の邸宅が、この年の正月に火災で全焼した。そこでその宮の次男の民部大輔が所領している亀山の山荘に宮は移り住んだのである。それで程近い嵯峨の御堂との間に行き来が生じたというわけである。
これまでも冷泉院に顔を出していた阿舎利の口からこの日初めてその宮の名が出たのも、こういういきさつからであった。
「亀山へのお移りを機に中務卿の職をも辞せられてまして、今では宮は全くの世捨て人のようになられてございます」
「では、供回りなどは」
「わずかな家司と女房たちのみでして」
「そんな山奥に、身よりもなくお一人で……」
「いえ」
阿舎利は首を横に振った。
「姫君が、お二人おいでです」
宮は薫の父の光源氏と同じ年だ。光源氏は今生きていれば七十三歳になっているはずだから、宮も七十三歳だ。その姫なら、幼子ということはないはずである。
「なにしろお年を召されての姫御ですから、片時もおそばをお放しにならずにおられるようです。太郎君や次郎君の母御とは縁遠くなられまして、宮様が四十をお越えになった頃に召された女性が今の姫様方の母上でございます。下の姫の
数は少ないではあろうが、現実的にあり得ない話ではない。現に薫の妹などは、父の五十二歳の時の子で、そのときその母は十六歳だった。
「幼い頃から宮様は姫様方に
それは大げさだろうと薫は思ったので、少し笑った。院もお笑いになっていた。姫たちは女房がついているとはいえ、肉親としては宮の男手ひとつで育てられたことになる。しかし姫のことよりも、薫の関心はその宮の仏道への造詣の深さという話に向いていた。
「本当にお気の毒と申しますか、その姫様方がおありのゆえに仏弟子にもおなりになることができずにおられるのです。拙僧がしがらみと申しましたのは、そのことでして」
「その姫たちを」
院が、お言葉をはさまれた。
「わが養女として迎えてはどうだろう。私の従妹ということになるし」
「さあ、果たしてそれは……」
阿舎利はそこまでは言ったが、その先は言葉を濁した。いくら今は完治しているとはいえ、昔日の御狂疾の記憶は人々の間からは消えていない。
「こう申すのも失礼だが、叔父宮様も御先永くはなかろうに……」
院は不服そうであったが、薫の方は別のことを考えていた。先が永くない人なら、一日も早く会っておきたいと思ったのだ。そこで、阿舎利の方へと薫は体ごと向きを変えた。
「お願いでございます。どうか、宮様にお伝えください。仏道を極めたいという気持ちは、私は幼い頃から持っておりました。ただ、公私ともに多忙なのにかまけて、経典を読むことすらおろそかにしてきてしまったのでありますが、こんなに素晴らしい方がおいでと伺って、どうしてもお会いしてお教えをいただきたいという気になったのです。どうかこのことを、宮様にお伝えしていただけませんか」
阿闍梨は微笑んでうなずいていた。上皇からも、直々のお手による御文が託された。
次に阿闍梨が冷泉院に来る日が、薫には待ち遠しかった。次第に季節も、春たけなわとなってくる。
ついにその日になり、阿闍梨はやって来るなり薫の顔を見て相好を崩した。
「いやあ、宮様が、大変にお褒めでしたよ。だいたい道心というものは何か人生でつまずいた時に起こるものなのに、お若い方が感心だと。それで、御自身も老い先長くはないが、よき法友を見つけたとお喜びで」
「そうでしたか」
薫の心の中は、春の陽ざしがさしたように暖かかくなった。うれしくて、飛び上がりたいような気持ちが、その満面の笑みの中に現れた。さっそく薫は、宮へと文をしたためた。
そして薫はその喜びを誰かに伝えたく、久々に二条邸の匂兵部卿宮を訪ねた。
「ふうん、俗聖ねえ。そんな仏臭い爺さんと
出鼻をくじかれた。
「その爺さんに……」
親王をつかまえて爺さんとはとも思ったが、匂宮とて親王だし、人の耳もないからと薫は納得していた。
「その爺さんに妙齢の姫でもいるというのなら、話は別ですけどね」
姫がいることはいる。しかし、妙齢かどうかは分からない。だがそのようなことには関心がないし、また、ないと思いたい。ないのだ。だから、
「それは……、知りませんけどね……」
と、薫は言っておいた。
「そんな爺さん相手にしていないで、兄君ももう身をお固めになったらいかがです?」
「宮様。そのお言葉は、そのままお返しいたします」
「いや、私はまだ若い」
「私は若くないのですか? 嵯峨の御堂の阿舎利も私のことを若いと言ってくださいますよ」
「そりゃあ、老人から見ればの話でしょ」
匂宮が笑うので、仕方なく薫も笑った。庭には紫の母が残していってくれた桜が満開だった。それを見ながら、薫は考えていた……自分が仏道を求めるのは、老人の厭世趣味とは違って、究極の真理を追究したいからだ。そのためには、女との色恋沙汰など煩悩となる……と。
薫に妻はいることにはいるが、それは加冠の時の添伏として彼の意志とは関係なく親たちが勝手に決めた相手だ。何の情もない。はじめは一応夫婦の関係も持ったが、今は足も遠のいている。
またその妻の父は故人であり、その実家からの経済的後見も望むすべもなく、今では逆に薫の方が経済的援助を与えている状態である。それも政所の家司任せで、薫自身が先方に出向くこともない。こんな状況だから、子も当然いない。
薫は視線を室内の匂宮に戻した。この若者には、そんな自分の内心を口が裂けても言えない。鼻で笑われて、どんな
「兄君はまさか、世を捨てて形を変えようなどと思われているんじゃないでしょね」
何も言わなくてもこれだ。
「いや……まさか」
薫は否定した。それは匂宮の「世を捨てて」という部分が肯んじ得なかったからである。
「なぜ、そのようなことを?」
「今年は春から、出家が流行っておりますからねえ。まさか兄君までもがって、ちょっと心配したんですよ」
確かに正月以来、先帝の皇女の一品内親王が落飾したのに続いて、右衛門督の母で九条前右大臣の従妹が浄土寺で尼となり、また冷泉院の弟のすでに入道していた新院も東大寺で具足戒を受け法皇となられた。さらには権大納言の子息の侍従、能書家の大内記が相次いで出家している。こんな出家の流行は、これまでにも珍しいことであった。
「私は絶対に認めませんよ。兄君の出家なんて。だいいち、張り合いがなくなる」
その言葉には、薫は黙って笑っておいた。
夜になって一人になってから、薫は褥の上でまた思考を巡らせた……世間の人は女と睦び、子をなし、幸せになっていく。だが、自分はそんな夢を見てはいけない……。
薫は、ため息をついた。
……自分は、誰が本当の父で本当の母かもわからないのだ。そんな自分には、人並みなことは許されていない。女などを手に入れてはいけないのだ。人並みな幸せは、不要だ。それを捨て得てこそ、捨て得ない凡人が手に入れることはできない何にも代え難い法悦の世界に生きることができる。
いけないんだ、いけないんだ……薫は、心の中で叫んでいた。女のことなど考えてはいけないと、自分に言い聞かせる……自分はある意味ではかわいそうだが、そのかわいそうゆえに得られる幸福もある。
自分は完全なのだ。ゆえに、片割れを探す必要はない。自分は独りでいるがゆえに自分なのだ。女と幸せを分け合うことなどあってはならない……。
そう思うと、胸が熱くなった。自分を抱きしめたくなった。自分があれば十分だ。その自分は、そのまま魂がみ仏の世界につながっている。そう思ううちに、喜びのうちに眠気がさしてくる。まずはみ仏と恋に落ちよう……そして、そのような気持ちをともに語り合える人に巡り会えた――それが小倉山の宮である。
早く会いたい。だが、依然として公務も多忙で、なかなか実現できそうにもない。そのようなことを考えているうちに、薫は本当に眠りに落ちていった。
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