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駆け足で梅雨が去っていくと、都は湿気の多い盆地特有の蒸し暑さを呈する。冬は寒く夏は暑いこんな地をよくも都にしたものだと人々は先人を怨みそうなものだが、そのように考える人は至って少ない。なぜなら彼らは都以外の土地を知らないからである。
源氏も、その中の一人だった。
世の中、特に宮中は全体が大嘗祭に向けて動いており、大嘗祭一色という感があった。
「今年は天気も穏やかだし、稲の成長も順調だそうだね」
内裏より左近衛府へ徒歩で向かう途中で頭中将と行き合い、頭中将の方から源氏へそう話しかけてきた。つい先ほどまで、内裏の右近の陣で顔を合わせていた相手である。
「ああ、昨年は天候不順ではらはらだったよ。むしろ今年になってよかったくらいだ。それに今年は君が介となってくれたしね」
源氏は立ち止まって、頭中将の顔を見ていた。
「君はまだ、帰らないのかい」
「いや、左近府近くの陽明門の外に車を置いてあるのでね、左近府に寄ってすぐに帰るつもりだ」
「いいなあ。帰ればすぐに、西ノ対の姫君の御元へだろ。女が自分の屋敷にいれは、便利だよな。わざわざ通わなくて済むものな」
頭中将は笑ったが、源氏の返し笑みは心底からは出ていない。たしかに
「君もせいぜい、浮き名を流したまえ」
だから源氏はそう言って、やっと笑ってみせた。
二人の笑い声を残し、頭中将は職御曹司の南塀の方へ歩いていった。
姫は肌が透けるほどの薄い、
「おや今日はまた大胆な」
「だって、暑いんですもの」
実際この手の単衣は大人でも着する。夫以外の男性の目にその姿を見せることのない女人は、このような格好でいても不都合ではないのであった。
源氏が座ると、姫はもう源氏の直衣により添ってくる。日増しに自分になついてくる姫が、源氏はわが娘以上にいとおしかった。
幼女の単衣に透けた肌を見て欲情するほど、源氏は異常ではない。しかし、自分により添う少女は自分の娘でも妹でもないのは事実だ。
源氏が宮中で宿直をしなければならない時なども急に機嫌が悪くなり、そのまま源氏の膝で寝入ってしまった姫の顔を見て、とうとうその日の宿直をやめてしまったこともあった。逆に源氏は西ノ対に宿直することの方が、かえって多かったかもしれない。姫の寝顔を見ていると、こんな日々をいつまで続けることができるのだろうかと、ふと思ってしまったりもする源氏だった。
入道雲がわきあがり蝉の声けたたましい酷暑の頃に、斎宮の鴨川での御禊があった。この後斎宮は宮中に入ることになる。斎宮は源氏の同母姉なので、母とともに
母も老いた。本来なら髪をおろすことをしきりに願っていた母である。しかし娘が斎宮となる以上その母が僧形では具合が悪い。そのことだけが彼女に出家を思いとどまらせていた。
目の前で展開されているのは、彼にとってめったに見られない行事であった。もっとも肝腎な部分は河原に設けられた帳の中で行われるので、彼の目にふれることはない。それでも先例と習慣の中で寸分過つことなく行われる行事に、源氏は威圧感を感じていた。そしていつか、頭中将がまだただの権中将だった頃に、言っていた言葉を思い出す。
――我われが、先例と習慣の権化になろうではないか――。
ほとんど忘れかけていた言葉を今さらながら思い出し、今度頭中将に会ったらその言葉の真意を聞こうと源氏は思った。
ところがいざ彼と顔を会わせる時は、忙殺の真っただ中である。二人が会う時はそれぞれ中将としてではなく、近江権守、近江介という立場でなのだから、それどころではない。ただでさえ書類の山が二人を圧倒する。
「
頭中将が事務の合間に近江守への愚痴をこぼし、それを源氏が笑ってたしなめる。
「守殿も御高齢だし」
これぐらいが二人の私的な会話なのである。まして蔵人頭、いわゆる帝の秘書長である頭中将は、源氏以上に忙しい。
そのうちに七月、つまり
「もう、そんな頃か」
と、源氏はため息をついてみる。
紫宸殿での相撲を前に、半月ほど前にも滝口で腰袒相撲もあった。しかしこちらは弘徽殿大后も臨席するというので、源氏は参列しなかった。その存在が、まだ見ぬ黒い影となって、彼にのしかかっているのである。摂政左大臣も最近は大后べったりで、その意を伺ってはじめて国政を動かしている始末だ。
相撲に先立ち二日前に
紫宸殿での
そのような日常の中でも、源氏はふとある存在を思い出した。もちろん忘れている時間の方がはるか多いが、その存在とは六条御息所である。
最近はぴたっと文も来なくなった。消息も聞こえない。物質的援助は政所には命じてあるから、彼が忘れていても定期的に届けられてはいるだろう。しかし今や御息所は、源氏にとって過去の存在という感はまぬがれ得ない。ただ彼の性分として、忘れ去ってしまうことはできないのだ。今頃どのように暮らしているのだろうかと、ふと気がかりになる。気がかりになったところで、今さら訪ねていくわけにもいくまい。ここまで無沙汰してしまったのであった。
文も来ないだけに余計気がかりではあるが、何も言ってこないということは息災なのであろうとは思う。だが、そんな気がかりも西ノ対の姫の笑顔を見ているうちに、いつしか消えてしまう源氏であった。
ようやく秋風が吹き立つ頃になった。
すなわち大嘗祭がもう目の前に来たということである。そんな頃に右大臣が亡くなった。三条右大臣と呼ばれたこの人の妹が故一院法皇の女御で、源氏の故父院の生母である。つまり父んの外叔父であったが、もはや六十歳の大往生であるし摂家の傍系ということで、その喪のため翌月の菊花の宴が中止になったほかは世の中にはさほど衝撃は与えなかった。政治状況にも何ら影響を及ぼさない一老人のひっそりとした死だった。ところが彼は左大将であったから、源氏にとっては直属の上司を失ったことになる。
源氏の日常はそれどころではない。いよいよ祓穂使の派遣だ。悠紀田の稲の収穫に際し宮中から近江国へ使わされるその使いの手筈も、源氏と頭中将でやらなけれはならなかった。
そんな毎日の中で、源氏はひとつひとつの行事を、丁寧に日記につけていた。将来これが役に立つかどうかはわからない。ただそういった先例と習慣、いわゆる
朝起きて出仕前に日記をつけながら、ふと源氏は考えた。もしかしたら大嘗祭が終わったら、自分は何もかもに対して一気に気がぬけてしまうのではと。
そんな思いを持つ頃に、摂政左大臣が源氏を自邸へと招いてきた。もうすっかり涼しくなった頃であった。
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