大殿の門内へ入ると、別の車がそこにあるのを源氏は見た。先客があるらしい。しかしそれは見慣れた車だ。

 先客は頭中将であるようだ。彼は摂政左大臣の次男なのだから来ていても不思議はないのだが、源氏が今こうしてやって来たのは左大臣に指定された時刻どおりだ。頭中将の来訪はそれを知ってのことか、ただの偶然か、とにかく源氏は案内を請うた。

「お待ちかねです」

 とのことだった。どうも頭中将が同じ時にここにいるというのは、偶然ではなさそうだ。

 寝殿に通され身舎もやへ入ると、はたして頭中将は父の脇に控えていた。源氏は摂政左大臣へ礼をなし、頭中将へも一礼した。いくらなんでも彼の父の前である。いつもの気軽な態度はとれまい。頭中将も謹んで返礼する。それがどうも芝居じみていて、源氏にはおかしかった。

「よう来られた」

 摂政左大臣ははじめから相好を崩していた。今や右大臣亡きあとその席は空いていて大臣としての任がその一身にかかっているはずであったが、気苦労の様子はおくびにも出していなかった。

「ところでさっそくだが、今日は頭中将も来てもらった。二人に話があったのじゃ」

「大嘗祭のことですか?」

 中将としての職のことなら、互いに左右の近衛府に分かれているし、それならばごん職である頭中将ではなくその兄、自分の舅である宰相中将もともに召されるであろうと、源氏は頭を巡らせていた。

「いかにも」

 大嘗祭なら、自分と頭中将はその悠紀国の権守と介である。二人そろったとなれは大嘗祭悠紀国のことに他なるまい。

「実は大嘗祭の悠紀・主基節会せちえでの、悠紀国風俗舞のことじゃが」

「はあ、それが」

 源氏は構えた。それが頭痛の種だったからである。

 大嘗祭の翌日に悠紀の節会、その翌日に主基の節会、さらにその翌日には豊明節会とよあかりのせちえが行われることになっている。その悠紀と主基節会のなかでさまざまな芸能とともに悠紀・主基両国の風俗舞が舞われることになっている。その悠紀国風俗枚の舞手のやり繰りがなかなかつかずに源氏や頭中将を悩ませていたのである。

「いろいろと手を尽くしまして手配はしておりますが、何分……必要とあらば私、近江国まで赴こうかとも」

 源氏は苦し紛れに、そう言上した。

「その必要はございませんよ」

 左大臣はにこにこ笑って、息子の頭中将を見た。彼もなぜか含み笑いをしている。

「近江は国司も遥任、権守ごんのかみすけもこうして都におるのだから、うまくいきますまい。そこでじゃ、頭中将にも申しておったのだが、権守と介、お二方の若い貴公子が舞われることで、近江の風俗舞にと存じておりますわけじゃがのう」

「え、そのようなことで」

 よろしいのですかと言いかけて、源氏は口をつぐんだ。相手は左大臣であるだけでなく摂政でもあるのだ。彼の言葉はそのまま帝の詔勅となる。

「よろしうに」

 頭中将も頭を下げてきた。こうなると拒むことは完全に不可能である。舞に関してはひととおりの手ほどきは受けているので、全く辞退する理由はない。それでも大嘗祭の節会という晴れの舞台でとなると、自ら身がひきしまるのを禁じ得なかった。

「時に」

 左大臣の口調が変わった。

「わしは宮中のしきたりや先例について、宰相中将だけでなく頭中将にも教命として伝授したいと思っておりましてな、源氏の君もよくよく学ばれたらよろしかろうと存じます」

「は」

 源氏はひたすら、頭を深く下げた。下げながらも疑念があった。学ぶというのは舅の宰相中将にか、それとも頭中将にか……?


 それからしばらくの後、同じ邸内の別室で源氏は頭中将と対座していた。女房たちが世話に来る以外は、二人の他に誰もいなかった。

 菓子を前にやっと緊張から解放された源氏は、朋友に向かって心からのくつろぎの笑顔を見せた。

「いやあ、まいったなあ。節会でとは」

「しかしこれで、風俗舞の手配もしなくてすむじゃないか。我われがやってしまった方が手っ取り早い。せいぜい感謝したまえ」

「まったくだ」

 二人の大笑いの声が庭にまで一響いた。

「時に、何を舞う?」

「おめでたい席だ。青海波せいがいはに決まっているじゃないか」

 頭中将は即答し、庭へ目を移した。源氏も同じ方角を見てみる。庭の木立は楓が多く、今はまだ青々としているが秋の終わりにはさぞやと思われるような庭だった。

「青海波でいいのかい? 近江の風俗とは関係ないようだが」

「いいんだよ。舞は何であれ近江介の私と、近江権守の君が舞うんだ。充分な近江の風俗だ」

 少々乱暴な意見だが、摂政がそれを認めているのだからいいのだろう。

「それよりも、これからは稽古もせねばならぬぞ」

「ああ」

 源氏は頭をかかえた。せっかく楽になったと思ったのも束の間、ただでさえ多忙なこの折にまた時間を喰う案件が涌いて出た。

「これでしばらく、女人の元へも通えないな。あ、君はいい。最愛の人を自邸内に据えているのだからな」

「皮肉かね」

 源氏も笑って言い返す。

「君はうらやましいのだろう。君こそせいぜい、これからの無沙汰を詫びに忙しくまわった方がいいんじゃないか」

「口のへらないやつ」

 また二人の笑い声が響きわたる。源氏は西ノ対の姫をその父親から「最愛の人」と言われ、こそばゆくもうしろめたくもあった。しかしそのとおりだと、今は自信を持って思うことのできる源氏だった。

 やがて雑色人たちが近江国より、神穀用の稲粟を携えて上洛してきた。抜穂使もしきたり通りそれに同道しており、彼らは無事に北野に設けられた悠紀斎場へと神穀を納めた。万事順調にことは運んでいた。

 

 そして十月に入って、突然また摂政左大臣からの通達があった。

 十日過ぎに紫宸殿前で試楽を行うという。つまり節会の予行演習だ。節会は女人は参列できないので、その女人たちに節会の内容を見せるという趣旨もある。場所も節会本番の豊楽院ではなく、紫宸殿の前庭で行うという。

 源氏たちはとにかく激務を割いて時間を作り、稽古はその日までには完成に近ついていった。

 そして秋晴れの当日、自分たちの番になった二人の貴公子は意気揚々と舞台にあがった。

 雅楽の音が、秋光に響きわたる。

 「青海波」がゆっくりと流れる。

 時に紅葉の真っ盛りであった。紫宸殿前の庭は植物といえは橘があるだけで楓はなかったが、北や東の山々が真紅になっているのは充分に見わたせられた。

 源氏も頭中将も、冠にありったけの紅葉をさしての登場だった。

 まずは笛の鋭い旋律が空を刺す。そこへ鼓の音が最初はゆっくり、すぐに速くなって合わされ、一気に管楽器の音が重なってのしかかる。鼓の音はその間も絶えることなく続いている。

 そんな中への美しい若者二人の登場だ。誰もが息をのんでいたようだった。

 ちょうど夕暮れで西日が白砂利を真紅に染めていたから、紫宸殿前の空間はまさに異次元だった。

 二人の呼吸はぴたりと合っていた。同じところで足を上げ、同じところで面を右に向ける。

 源氏は舞いながらも、紫宸殿の御簾の中を意識していた。そこには幼い帝がおられる。摂政左大臣も宰相中将もいるだろう。特別に招かれた源氏の母も、藤壷の宮も自分を見ているに違いない。そして弘徽殿大后もいるはずだ。それを思った時、源氏は舞いの途中ではあっても、思わず身震いをしてしまった。

 あとは無我夢中だった。西の空は校書殿の屋根越しに、ますます真赤に燃えあがっていた。

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