新史・源氏物語

John B. Rabitan

第1部 春

第1章 輝く日の宮

1

 何という天皇の時代のことであったろうか……

 年の初め頂から疫病の流行で、大路小路には民衆の死かばねがあふれ、平安京は異臭の都と化していた。

「光の君様、こりゃひどいもんですな」

 車の脇を馬で付き添っていた乳兄弟めのとご惟光これみつが、顔をしかめながら車の側面の物見の窓からその御簾みすの中をのぞきこんだ。しかし、車の中の光の君と呼ばれた一世の源氏にとっては、実はそれどころではなかった。

「惟光、いいから急いでくれ」

「分かってますって。でもこの死体の山じゃあ、思うようには進めませんよ。道もまだぬかってますし」

 たしかに車が進むたびに水たまりに入り、車輪は泥だらけだ。もっともつい先刻の俄か豪雨のせいで、腐乱した死体からの悪臭も幾分やわらいではいた。

 昨年はといえば、夏に大豪雨があって鴨川の堤が決壊、七条以南は車の通行も不可能なほどとなったし、洛南にいたってはほとんど海だった。

 今年はちょうどそれとは対照的で、梅雨時だというのに雨が一滴も降らない。日照り続きが疫病を蔓延させる。そしてそのための町じゅうが死体の山となり、直射日光がその腐乱にさらに拍車をかけていた。

 ところがつい先程、雷を伴った突然の豪雨が都を襲った。今、光源氏が内裏へ向けて車を進めているのも、その雷のせいだった。

 父である帝が、雷の衝撃でお倒れになったという。雷は二、三代前から帝のお常御殿となっていた清涼殿を直撃したようだ。源氏は自分の里邸の二条邸で、稲妻が西北へ走るのを見た。西北には内裏がある。

 昨年元服したばかりの弱冠十七歳の彼にとって、それだけでも衝撃であったのに、続いて父帝がお倒れになったという報に接してしまった。父は雷に打たれたに違いない。

 皇子の身である自分を親王にもせずに、源の姓を賜って臣下に降した父。しかしその処遇とは別に、父がいかに自分を慈しんで下さっていたかは、肌身に染みて彼は感じていた。

「惟光、急いでくれ!」

 もう一度叫んでから、源氏は車の中でしきりに念仏を唱えていた。父の安否への気遣いだけが、彼の心のすべてであった。

 車はようやく二条大宮の角にさしかかり、右折して大宮大路を大内真の堀沿いに上がる。もはや空は再び快晴となり、ここ数ケ月の日照り続きの天候に戻っていた。


 この日の午前中から宮中紫京殿の東、宜陽殿との間を結ぶ細長い回廊のような左近の陣では、左大臣が少納言や外記げき以上の官僚による閣議が開かれていた。……陣定じんのさだめだ。左大臣は左近衛府の大将を兼ねているので、その近衛府の帝の御座所近くの詰め所での会議ということになったのだが、朝廷のだいたいの政談はここで行われるのが普通だ。

 ここ最近この干暑により、都近辺の水田の水もほとんど干上がっていた。そのような状況下にあって洛南鳥羽の百姓ひゃくせい等より申文もうしぶみが上程されていた。神泉苑の池水の放水を賜りたいというのが、その内容であった。それを受けて、閣議が開かれたのである。

 神泉苑は大内真の南東に位置する巨大な庭園で、南北は二条から三条までの四町、東西から大宮から壬生まで二町の、八町平方にわたる。しかしただの遊苑ではなく、朝廷へ祟りをなす御霊を鎮めるための御霊会ごりょうえが行われる場所でもあった。

 その池の水を賜りたいというのは、単に物質的な水が欲しいというのではない。神泉苑の池水の放水には、祈雨の霊力の発現という意味があるのだ。

 陣定では左大臣によりまず、帝の勅旨が伝えられた。それによると、神泉苑の池水の放水がなくは民のなりわいは成り立つまいとのことであった。さっそく身分の低い者から順に、意見を述べていくことになる。もっとも帝の勅旨に、異義をはさむ者はありようもない。だが、単に神泉苑の水の放水のみならず、もっと本格的に祈雨について議すべきだという意見が大納言あたりから出た。さらには先例をくわしく調べる必要もある。

 折からの蒸し暑さに誰しも扇を用いていたし、長時間の会議に耐えられるような気候ではなかった。

 そこで昼頃に、しはらく散会ということになった。

 その間に、外記局は先例を調べる。そして休憩後の閣議は、殿上定てんじようのさだめでということになった。

 殿上定は帝の御座所と御寝所のある清涼殿の南端の、殿上の間で行われる。これはよほどのことがない限り、ます開催されることはない。

 大納言はこの場での最高齢者であったが、数々の悲惨な現状を実例として並べたて、事の重大性を強調した。そして祈雨のための殿上定ということになったのであった。


 殿上の間は東面している清涼殿の南端に当たる所で、いわは宮中の政治の執務室だ。ふだんは帝の身のまわりのお世話や、政務の取り次ぎなどをする蔵人くろうどの控え室となっている。

 その殿上の間の小机をはさみ、公卿は左右に一列に敷かれた畳の上に列座した。左大臣の背後の帝のお椅子は、この日は空席のままだった。

 神泉苑の水の放水の件はよしとして、議題はその他の具体的な祈雨に関することへと移っていった。

 簡単に祈雨といっても、それぞれの寺社の勢力も考えて配分せねばならない。そしてまた何よりも先例が重んじられる。大赦の件も議せられた。

 ひとつ提案があるたびに、また最下位の者からの意見陳述が始まる。誰もが暑さにうなっていた。左大臣は五十一、右大臣は五十八の高齢で、かなりこたえているようだった。

 その時急に、室内が夜のように暗くなった。室内だけではなく、紫宸殿と仁寿殿の屋根に挟まれた空さえ暗くなっていた。とたんに冷たい風が吹きこみ、雨が激しく屋根をうがちはじめた。

 どよめきのうちに、閣議は中止された。雷鳴が轟きはじめたのである。たちまち近衛府の舎人たちが雷鳴陣かんなりのじんをとるため紫宸殿の南庭へ駆けていく足音が、雨の響きに混ざって聞こえてきた。空の光と爆音はその間隔を縮めつつ、宮中の中を轟きわたる。

「おおっ!」

 右中弁は束帯の両袖で顔を覆い、うずくまって呪文を大声で唱えていた。

「桑原! 桑原!」

 最高齢者の大納言は、ゆっくりと立ち上がった。

「祈雨の議を開いたのみで、すでに天は感ぜられたのか」

「感ぜられすぎじゃ!」

 右大臣が座ったまま怒鳴り、さらにヒステリックに声をあげた。

「帝はご無事か。蔵人。拝見して参れ!」

 帝は壁ひとつ隔てた同じ殿中の、昼御座ひのおましにおられるはずだ。蔵人が三人ばかり、妻戸を開けて出ていった。年中行事障子が音をたてて倒れた。彼らはおかまいなしに、鳴板を踏みながら東廂の方に駆けて行った。

 大納言は逆の西廂、つまり清涼殿の裏手の、女房たちの詰める部屋が並ぶ方へと歩いた。うずくまっている右中弁の、「桑原」を唱える声がいちだんと高くなった。

 閃光と全く同時に、これまでになかった最大の轟きが響きわたった。西南の隅の柱が、それとともに爆発したように火を噴いた。火はたちまち殿上の間の西側の壁を燃やしはじめた。

 燃えたのはそれだけではなく、大納言の束帯も火に包まれていた。火だるまとなった老大納言は転げまわり、その火がうずくまっていた右中弁の冠にも移った。

 もう一度、紫宸殿の方に落雷があった。右中弁は火で顔を焼かれながらも、まだ「桑原」を唱えていた。左大臣のみ少しも騒がず、元の位置に座っていた。

「ここは桑原荘ではないわい」

 左大臣の唇が、微かに動いた。何かを予感し、また何かを期待しているかのような微笑すら、その口元にはあった。


 源氏が宮中に到着したのは、もうだいぶ落ち着いてからだったが、折しも死んだ老大納言と右中弁の遺体が半蔀はじとみに乗せられ、陽明門から運び出される時だった。遺体を見たら触穢になるので源氏は車を停めて、その中で行列が行き過ぎるのを待っていた。

 父帝は幸い雷に直投打たれたわけではなかった。しかし落雷以来夜御殿よんのおとどにお籠もりになり、全くお出ましにならないという。源氏は目通りもかなわず、しかたなく母のいる淑景北舎へ行って逗留することにした。

 淑景舎しげいさは内裏の北東の隅にあり、源氏が幼少の頃を過ごした所でもある。母は父帝の更衣の一人で、実家の身分もそう高くはなかった。母の祖父は何代か前の帝の皇親源氏で四条大納言と称されたが、母の父は右大弁で終わった。それももう、この世の人ではない。

 母ははじめはこの淑景舎の一室を賜っていたのみで桐壷の更衣と呼ばれていたが、帝の皇子を生んで御息所みやすんどころとなって以来ようやく淑景舎のうち北舎二棟を賜った。帝の寵愛ゆえに何人かの子を授かり、それでやっと日の目を見たのである。

 淑景舎には今、源氏の同母姉の内親王女四宮と、わすか三歳の同母弟の十八宮が住んでいる。もうひとりの同母の次姉は内親王ではなく光源氏と同じく賜姓源氏なので、二条邸の方にいた。

 源氏が淑景北舎で何日か過ごすうち、めっきり白髪の増えた母が彼にひとつの情報をもたらした。

 帝が常寧殿にお遷りになるという。

 清涼殿ではこの間の落雷で、二人も人が死んでいる。つまりは穢れた場所となったので、そのままそこに帝にお住まいになっていただくわけにはいかないというのは常識だ。清涼殿の床板をすべて新しくする必要がある。また、一部焼けた部分の修繕もある。

 母はそのことを息子に告げてから、ひとつため息をついた。対座していた源氏は、桐壷と呼はれている中庭を見ていた視線を母へと戻した。

 母は静かに話し続けた。

「人々の間で、噂があるのですよ」

「噂?」

「お勧めしたのは、左大臣殿とか」

 帝の寵愛を受けていた母だから、左大臣のことはあまりよくはいうまい。しかし源氏にとっては、少々顔を曇らせなければならないことだったので、彼は反論した。

「しかし常寧殿ですよ」

 常寧殿といえは後宮である。左大臣が帝を政務から遠ざけ申し上げようとしていると母は言いたいらしい。源氏はすぐに察したが、あえて黙っていた。

「帝はもちろん、はじめは渋っておいでだったそうですが、左大臣殿はそのお耳元でひとこと言われたとか。火雷天神って」

「母上!」

 源氏は母の言葉をさえぎり、立ち上がると桐壷の庭の方へからだを向け、後ろ姿で言った。

「噂は噂です」

 しかし左大臣なら言いそうなことであるということは、源氏にも分かる。

 火雷天神……帝でなくても誰しもが震えあがる名だ。だが今や源氏は、左大臣家の一員なのであった。左大臣の長男の右中将は源氏の舅だ。右中将の娘、すなわち右左大臣の孫娘こそが、今の源氏の妻なのである。

 それでも噂は、情報源が母はかりでなく他方面からも入ってきたということもあって、源氏にとっても気になるものであった。

 

 彼は思い立って左大臣の長男、右中将の屋敷である小野宮おののみや邸へと赴いた。しかしそれは正確な描写ではない。そこは妻の家。彼はそこでは女房たちから「お帰りなさいまし」と言って迎えられる存在なのだ。

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