季節はゆっくりと、春から夏へと移っていく。その四月は暑くもなく寒くもないいちばんさわやかな季節だけあって、ここのところ紫の上の容態も少しはいいようであった。

 次男も元服したことだし、母親として気持ちも一段落したということだろう。姫の将来の夫も、たくましく成長している。ところが妻はさらに、源氏に願いごとがあると言い出した。

 もう、何でもかなえてやろうというのが、源氏の気持ちであった。もちろん生き長らえてほしいという願いが源氏の中ではいちばんであったが、しかし妻の願いの方もそろそろかと思いはじめていた矢先であったからだ。

「法華経千部供養をしたい」

 それが妻の願いであった。千部の法華経は、聞けば今まで妻がこつこつと写してきたものだという。いつのまにらやと源氏は思いつつも、今さらながら我が妻の求道心に感服した。そのような妻に出家を許さないというのは、もしかしたらものすごく残酷な仕打ちをしているのではないかという気にさえなってしまう。

「今のうちに仏縁を濃くしておくことには、私も賛成だよ」

 そう言って源氏は、二つ返事でそれを許した。場所はそのまま二条邸でということになったが、時に二条邸は藤の花が満開で、それらが青い房を一斉に下げて陽光と戯れていた頃だ。

 七僧の法服をはじめとする僧衣は紫の上に命じられた女房たちによって、たちどころに準備が進んでいった。むしろ源氏は何もすることがないくらいで、舞人楽人の手はずもこの屋敷の主である左兵衛佐が取り計らってくれた。

 当日が近づくにつれ、帝や中宮からも莫大な寄進が寄せられた。それぞれ源氏の弟、紫の上の妹としての私的な寄進であった。その中宮はそろそろ臨月だが順調な様子で、まだ安心して内裏の弘徽殿に住していた。

 左兵衛佐はこの日ばかりは寝殿を明け渡し、その西の塗籠の東と南の戸を開いて御簾を下ろし、そこが紫の上の座する場所となった。源氏の座は寝殿の中央で、その背後の北廂には招いていた明石の御方や女三宮の座もしつらえてあった。

 そしてことのほか上天気で雲ひとつない青空の下、故・前右大臣の遺児たち、すなわち紫の上の弟である宰相中将や権大夫、兵部大輔も駆けつけ、いよいよ千部供養の当日を迎えた。藤の花の群れが光を放ち、これぞ浄土の光景と参列者の誰もが目を細める中、僧たちが参入して清らかな声での唱和が始まった。

「法華経はいかにして得し、薪こり、菜摘み、水汲み……」

 そんな歌声が一つとなって、青く澄んだ空へと昇っていく。

 そんな光景に、これが病人の最後の名残と心得ての供養ではなくてともに夏の到来を楽しむ藤花の宴であったらどんなに心和むであろうかと、源氏はかえっていたたまれない気持ちになってしまった。妻はどのような気持ちでこれを見ているのだろうかと、ふと思いやられる。今は御簾を隔てているとはいえ、塗籠の中の妻は源氏の席から距離的にそう遠くにいるわけではない。また、開き戸も開けてあるから、御簾越しでも姿は見える。だが、妻は間もなく自分にとって果てしもなく遠い存在になってしまうかもしれない……今の妻の目は自分とは違う心でこの光景を見ているのかもしれない……そんなことを思うと、一抹の寂しさを禁じ得ない源氏であった。

 供養の読経や僧の講も終わっていよいよ楽人が参入し、舞楽が始まった。ことに陵王がひときわ映え、笛の音と小鳥のさえずりとが重なって庭に響いた。

 そんな時に、源氏のそばにはいつの間にか薫が来ていた。もう五歳の薫が大人にとっては優雅な世界だからといってじっとしていられるはずもなく、腕白盛りにあちこちを走り回ってきたようだ。

「薫。父の膝の上へおいで」

 にっこり笑って薫は源氏の束帯にしがみつき、そのまま膝にあがった。相変わらずいい香りのする子である。どんなに工夫して合わせた香でもそんな人工の香りは、この子供の自然の香りにはかなわないであろうとさえ思われた。ふと見ると、薫は手にふみを持っている。

「これは?」

「母上が、お父上にって」

 源氏は一瞬眉を動かし、紫の上からというその文を取った。幼い子は御簾の内外も自由に出入りできるから、恰好の文使いだ。

 源氏が開いてみると、歌が書かれてあった。


  藤の花 唄へや 唄へ舞人よ

    散るも仏果ほとけの 御法みのりとなりて


 源氏は愕然とした。もはや妻は「散る」ことを覚悟している。自分が散ることに仏という果の「稔り」――これに御法みのりを掛け、仏法の御法を念じている。妻の目に映っている舞人は、もはや他者以外の何ものでもないようだ。この世に残るべき、行く末を持つものの象徴……源氏は思わず熱くなった目頭を押さえた。


 久しぶりにまる一日起きていたからか、翌日には紫の上は一日中寝込んでしまった。源氏としてはもはや一刻もそばを離れたくない、四六時中ずっと枕もとについていたいと思うのだが、官人としての彼の立場がそれを許さない。

 それだけでなく、宮中を退出して二条邸の西ノ対に戻った源氏を追いかけるように、中宮職の大進が二条邸に駆け込んできた。

 中宮が病に陥ったというのである。ただでさえ臨月の中宮であるのに、それに病が重なったとなっては一大事である。中宮大夫の源氏は取って返し、まずは職御曹司に入った。そこへ権大夫も駆けつけて来たので、とりあえず修法などのことを指示して源氏は内裏に入り、弘徽殿へと向かった。

 すでに帝もお渡りになっていているが、源氏はこの場所では御簾の外に控えているしかなかった。宰相中将やその弟たちで昇殿を許されているものたちも、すぐにその場にやってきた。

 中宮は熱を発しているらしく、うなり声が源氏たちのいるところまで聞こえてくる。たちまちに僧が集められたが、加持祈祷が始まったのは夜中になってからであった。

 それからというもの妻が気がかりではあっても、源氏は退出はできなくなった。宿直とのいの連続である。帝はもはやお気持ちが動転され、普通のご様子ではなかった。さもあろうと、源氏はそのお心を察していた。源氏にとってその妻のことはある程度覚悟ができていたことだが、帝にとっての中宮の場合は青天の霹靂以外の何ものでもなかったはずだからだ。

 七壇の修法、長日御修法と始まり、弘徽殿を中心に内裏の中は読経の声で満ちた。修法は内裏のみならず、中宮の里邸である一条邸の方でも盛んに行われているようだ。こうなると公卿たちも国政どころではなく、ましてや源氏にとっての妻の病気などという私事は、それにかかわることなど許される状況ではなかった。

 二、三日して、中宮も小康を取り戻した。今はお産も近いことであるし、中宮はしきりに退出を願っていたようだが、帝はそれをお許しになるのに忍びないご様子だ。

「おお、おお、そうか」

 帝はうわごとのように、中宮大夫の源氏による中宮の言葉の取り次ぎに、そのようにばかり仰せになっていた。

 だが、帝の私情は私情として、重い病で出産も近い中宮をこのまま宮中に留めおくことは慣習が許さない。ようやく宮中を退出した中宮だが、職御曹司も一条邸も、権大夫の堀川邸も方角が悪いということで、大内裏の北辺近くの主殿寮に中宮は遷った。

 今度は源氏は、その主殿寮詰めだ。宮中からは、帝の安否を問う使いがひっきりなしにやってくる。その主殿寮へは、四宮も遷ってきた。母のそばにいたいという思いは、誰にも止められなかった。ただ、五宮はなにぶん幼く、それゆえに物の怪に対する危惧感もあって帝はお許しにならなかった。

 源氏は妻のことも気がかりであったが、今日明日という中宮を放っておいて中宮大夫の自分が妻に付き添っていることはできない。だから源氏はつらかった。中宮も源氏の妻も源氏の亡き親友にとっては同じ娘であるが、その二人が同時に死に瀕している。だから源氏は御仏と同時に亡き友にも、君の娘を救ってくれと切実な祈りをささげていた。

 そんな源氏の祈りや不断のみ読経のかいあってか、中宮の容態はだいぶ快方に向かった。

 心身ともに疲れ果てていた源氏は、あとのことは中宮の兄でもある権大夫に任せて二条邸に下がることにした。今は左兵衛佐もここに詰めているので、何かあったらすぐにでも知らせるようにと指示をしてのことであった。

「お帰りなさいませ」

 源氏の顔を見るなりそう言った妻の頬からは、涙が一筋流れた。源氏は思わずうっとうなって、目を押さえてしまった。しばらく見ないうちに、病はこうも人の人相を変えてしまうものなのか……。そこには痩せ細った妻が、それでも美貌を失うことなく横になっていた。

「いい。そのままでいい」

 妻が無理して起き上がろうとするので、源氏は慌ててそれを制した。それでも紫の上は上半身を起こした。

「中宮様は、いかがですか」

 と、妻は言っただけで、ひと言も源氏を責めなかった。妻も中宮のことを気遣っている。母が違うとはいえ、やはり姉妹の情は深いのであろう。

「大丈夫だ。それより、長く留守してすまなかったな」

「いいえ。何をおっしゃいますの? あたりまえのことではありませんか。中宮様がご重態なら……」

 今さらながら最高の妻だと、源氏はつくづく思う。自分には過ぎた、こんなすばらしい妻を持った――その妻の命が、今や風前にある。源氏は叫んで転がりまわり、暴れたくなる衝動を必死で抑えた。妻の秘めた心は、先ほどの涙がすべてを物語っている。

 源氏は翌日も参内は休み、一度西宮邸に戻って同じ車に姫と元服したばかりの次郎君、そして薫を同乗させて再び二条邸に向かった。姫や薫にとっては実母ではないにせよ、この子供たちに母の生きている姿を見せておきたかったのである。

「おお、加冠も済ませたら急に大人になって、凛々しくなったこと」

 紫の上は実の子の次郎君については、頬を両手で覆って慈しんだ。

「はい。私も従五位下を賜りました」

「それはよかったですね」

「お母様!」

 自分の番が待ちきれず、姫が身を乗り出した。

「あなたの裳着を見ることは、この母にはできないかも」

「何をおっしゃるのです」

 気強くそう言いながらも、姫は目を赤くしてこすっている。まだ裳着前の童女とはいっても、もうどこかの北の方になっていてもおかしくはない年齢に姫は達している。

「あなた方の将来を見たいなんて思うのは、わが身を惜しむ煩悩でしょうね」

 気弱く紫の上は笑う。源氏は子供たちの背後で、また涙がこぼれそうになるのをこらえて黙って座っている。妻はとうにこの世のことをあきらめているようだ。源氏としては当然妻に病を乗り越えて、生き長らえてほしい。しかし、心の中ではあきらめもついている。

「姫や。あなたは裳着はまだですけれど、もう十分大人だと思いますからお願いしますよ」

「何をですか、お母様」

「私に仕えてきた女房たちの中には、ほかに行く所がないものもいるのです。私がいなくなったらその方たちが身の振り方に困らないように、あなたがしてあげて下さいね」

「お母さま……そんな不吉なことは、おっしゃらないで」

 後は嗚咽となって、姫は言葉も出せずにいた。薫もさすがに何か雰囲気が違うと思ってか、今日はおとなしくしている。

「薫。こちらへ」

 自分の名前が呼ばれてはじめて薫は母のそばに行き、ちょこんと座った。紫の上はその頭をなでた。

「早く大きくなって、お父さまやお兄さま方をお助けしてくださいね」

「はい」

 やけに甲高い、大きな声での返事であった。

「薫は大きくなっても、この母を忘れずに思い出してくれますか」

「母上のこと、大好きです」

 まだ幼い子には、紫の上の言葉の意味がよく分からないらしい。

「母はもうすぐいなくなるのですよ」

「え? どうして? どこへお行きになるの?」

 紫の上は、ただ笑っていた。しかしその目には涙が潤んでいた。

「大きくなったら、あなたはこのお屋敷に住んで、西ノ対の前の紅梅と桜を心をこめて愛して下さい。そしてそれを、時には仏壇にも手向けてくださいね」

 気配を察してか、分からないまでも薫は泣きはじめた。ついに紫の上は上半身を倒して、その場に泣き伏せた。

「お母様!」

 姫がそれを抱きかかえるように包み、その姫もまた泣きじゃくっていた。

「私、西宮には戻りません。すっとここにいます!」

 そんな姫の言葉についに源氏はいたたまれなくなり、立ち上がって足早に簀子の方へと出ていった。

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