呟病とは、いわゆる流行性感冒である。しかしこれが蔓延すると充分に命とりにもなるので、油断はできない。ともかくも源氏は、父のもとへと参内さんだいすることにした。源氏は自分の直衣のうしを脱がせ、薄緋うすきあけの束帯に着替えさせるよう女房に命じた。彼は両腕を広げて立っているだけで、着衣はどんどんと替わっていった。

 その間彼の頭の中には、昨夜のことが蘇っていた。舅の右中将との会話からはじまり、一の君のことまで記憶はたぐり寄せられた。

 源氏は突然、前を向いたまま叫んだ。

「もうよい。元の直衣にしてくれ」

 女房は驚いて、源氏の顔を見上げた。まるで硬直したように、その手の動きも止まった。

「直衣にですか?」

「ああ。気が変わった。参内は中止だ」

 女房ははじめとまどっていたが、すぐに源氏に言われたとおりにした。

 源氏は今の自分の立場を思った。左大臣家の女婿そして父の皇子、しかし臣下の源氏である。心の整理がつくまでは父の顔を見ることができないと、彼は思ったのである。たとえ父が不予であったとしても……。

 今、彼は泥沼の中にいる自分を実感していた。つき落としたのは誰? そしてなぜ? 疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。

 束帯を脱ぎ、小袖の上に下袴まで着せられたところで、源氏は女房の手を止めた。

「もうこれでよい」

 そう言ってから彼は、塗篭ぬりごめの中の帳台へと入った。昨夜は明け方に少しうとうととしただけで、ほとんど眠っていなかった。しとねの上に疲れたからだを横たえながら、自分に今できるすべての煩わしさからの逃避は眠ることだけだと、源氏は考えていた。そのあとすぐに、彼は深い眠りに落ちていった。

 病は帝おひとりのことではなかった。流行病はやりやまいに、帝もおかかりあそはしたのだ。世間ではしきりに加持祈祷が、随所で行われるようになった。

 帝のおわします常寧殿にも、天台阿舎利あじゃり五人が招かれて五壇修法が修された。帝の外祖父である右大臣などは帝の御ため、比叡山で金剛般若経百巻を読ませるなどもしていた。しかし帝の御病がこ回復に向かわれているという話は、源氏の耳には一向に入っては来なかった。

 そのようなある日、小野宮邸の右中将から来訪を促す使者が来た。言上はあくまで娘の一の君のところにということだった。重い腰を上げた源氏が、それでも訪ねたのは舅のいる寝殿だった。

 夜になればもうすっかり、秋風が頬をなでる頃となっている。虫の声がやかましい。渡殿わたどのからは月がないので庭は見えないが、女房の灯した紙燭の仄かな光に、前栽せんざいの萩がぼうっと浮かび上がったりもしていた。

 ところが寝殿に着いてみると、右中将はすこぶる機嫌が悪かった。

弘徽殿こきでんの中宮様が、常寧殿にお遷りになった」

 杯を口に運びながら、右中将はまずそう言った。

「はあ」

 今、帝は常寧殿を御常おつね御殿としておられる。そこへ中宮が遷ったということは、中宮と帝が同殿することになる。

 これまで中宮は東宮とともに弘徽殿に住んでいたことは、源氏とて知っていた。今回は中宮のみの遷御で、東宮は宣耀殿に遷ったという。

「源氏の君様はまた、お分かりになってはおられないな」

 確かに分からない。そのことと右中将の不機嫌と、何の関係があるのか……。

「父、左大臣の考えられたことが、すべて水の泡だ」

 源氏はますます、右中将の言っていることが分からなくなった。父帝を後宮の常寧殿にお遷し申し上げたのは、左大臣だったはすだ。父帝の後宮にはあまつさえ女御・更衣があまた仕えている。その頂上にいるのが中宮という存在で、いわは父の正妻だ。

 源氏は今までそのような存在に関心を持ったことはなかったが、その中宮が常寧殿で帝と同殿することが、左大臣や右中将にとって何の不都合があるというのだろう。だいいち弘徽殿中宮は左大臣の妹、つまり右中将にとっては叔母ではないか……。

 源氏のそんな疑問をよそに、右中将はひとつため息をついた。

「源氏の君様に申し上げても、致し方のないことでござったな」

 苦笑とともに右中将は、源氏に杯を勧めた。それを飲み干しているうちに、右中将は言った。

「早く娘のところへ、行ってやってたもう」

 一礼して源氏は、席を立つしかなかった。西ノ対屋までの渡廊が、とてつもなく長く感じられた。

 もはや妻はその夫を迎え入れるのに、何ら抵抗はしなかった。しかしよそよそしい態度、口数少ない応対は以前のままだった。

 その同じ時刻に、病床の帝のもとには中宮がいるはずだった。しかしそこで帝と中宮との間でどのような会話がなされているのかなどは、若い夫婦には知るよしもない。

 源氏の腕の中には今、妻がいる。それだけがすべてだった。その幼い体はまだ開発されておらす、妻は苦痛に顔をゆがめていた。そしてこの日もまた諦観の相を、彼女は見せたのだ。

 源氏は不意に、胸がしめつけられる思いになった。自分はこの女ゆえに、左大臣家の後見を受けることができる。そしてこの女はその全人生を自分に委ねるしかない。そう思えは、今はまだ人形を抱いているようだが、心のどこかで愛おしいという感情が芽生えてきたりもした。

 その時源氏は、ふと思い至ったことがあった。この女のお蔭で左大臣家の庇護が受けられる……そう仕組んだのは帝である父……。

 源氏は妻のからだの上で、その動きを止めた。

「父上……」

 微かな声で、彼はつぶやいた。もはや夜半も過ぎていた。下弦の月がようやく昇り、その光が半蔀はじとみの透き間から差し込んでいた。


 都じゅうに衝撃が走った。帝が御譲位あそばされたという。

 源氏は小野宮邸から早朝に二条邸に戻り、ひと眠りしてからその報に接した。ただちに参内のしたくを始めた源氏だったが、そのしたくが終わらぬうちに宣耀殿にて剣璽等承継の儀があり、源氏にとっては異母弟にあたる東宮が即位したという報も飛び込んで来た。

 宮中はごったがえしていて、とても父には会えそうもなかった。なにしろあまりにも突然の御譲位で、内裏じゅうが仰天していたのである。

 仕方なく源氏は二条邸に戻り、紅葉にはまだ間がある庭の木立を見つめ、ぼんやりしているうちに日も暮れた。

 翌朝、右中将より知らせが届いた。即位された新帝は宣耀殿から元の弘徽殿に遷られ、新帝の母の中宮もともに弘徽殿へ戻ったという……つまり、今や弘徽殿が新帝の御座所となったわけだ。

 またしても右中将の不機嫌な様子が、その文の行間からもにじみ出ているように感じられた。しかもその帝の遷御の先導役を右中将は役職上務めなければならなかったので、右中将は今たいへん荒れていると文使いの家人は言っていた。

 禄を授けて使いを帰したのと入れ違いに、淑景舎にいた母御息所が、二条邸へと下がってきた。まさしく追い出されたかたちだ。

 時代が変わったと、淑景舎付きだった女官がどんどん二条邸へ来るのを見て源氏は実感していた。淑景舎には源氏の同母の姉と弟のみが残ることになる。二人とも内親王・親王なので、宮中を出る必要はない。だが、母の場合は違う。すでに当代の帝の更衣でも御息所ではなくなったのだから、宮中にはいられない。そこで里邸であるこの二条邸に下がってきたのだ。もともとこの屋敷は母がその父、故右大弁から伝領したものであった。

 母は北ノ対屋に入った。西ノ対屋には源氏のもうひとりの同母の姉で、源の姓を賜っている姉がいた。噂ではすでに姉には懸想文けそうぶみをしきりに届けている男がいるようだが、まだ通ってきてはいないらしい。

 いすれにせよ、母が下がってきた……このことで源氏は、ふと思い当たることがあった。母が下がってきたのなら、自分にとって第二の母も……。そして今の自分の心の中のわだかまりをぶつけ得る人も、あの人しかいないと源氏は思い立った。

 二条邸の東南角にその西北角を接して、かの人の三条邸はある。対角線上に隣接しているその屋敷を、源氏は昼過ぎに訪ねた。午前中は宮中にいたからだ。

 源氏は寝殿の御簾の前に座った。中にはこの屋敷の女主おんなああるじがいる。

「おう、加冠以来はじめてお見うけ致しますけれど、まあ一段とご立派な君達きんだちになられたこと」

 御簾の中から聞こえてきたのは母と同世代の、四十歳は過ぎていよう女性の声だった。室内で明かりをともしている夜は御簾の中から外はよく見えず、逆に外から中の方がよく見えたりする。しかし昼はその逆で、中から外はよく見えるが外から中は見えない。

 今はこの御簾が、上げられることもなくなってしまった。淑景舎での幼少の頃、この宮のいる飛香舎へ源氏はよく遊びに行った。第二の母も子がないだけに、幼い源氏を慈しんでくれた。その年のはじめての花、はじめて見る紅葉も、若宮であった源氏はまっ先に手折ってこの宮へと差し上げたものであった。飛香舎へはいつも地下じげを通って通っていたが、それも彼が元服するまでのことだった。元服の後は宮中で会うことは不可能となり、宮が里邸に下がってきた今ようやく久しぶりの、そして御簾越しの対面となったわけである。

「宮様、私は気が狂いそうです」

 いきなり源氏は、訴えるように言った。本当の母には言えないことも、この母になら言える。どちらも同じ父の妻。しかし母は更衣から御息所となったが、目の前の宮は先帝の女四宮おんなしのみやで、という皇族の女だけがなれる身分だった。先帝とは父から教えて二代前の帝、源氏の父の帝にとっては祖父にあたる。その皇女なのだからこの宮は、父から見れは叔母になる。つまり源氏には大叔母なのだが、年齢は父より下であるようだ。

「いったい何があったのです?」

 源氏にはその宮の声に、自分の心の中のすべてを真剣に受け入れようという準備があるように感じられた。だから源氏は左大臣と父との間に位置する自分の立場や、大人の世界への疑惑をすべて投げ出した。宮は少し笑っているようだった。

「誰でもいちどは通る道に、光の君様もさしかかられたのですね」

「しかし私は……」

 特別だと源氏は言いたかった。しかし言えずにうつむいた。

「父と左大臣殿は、どのような間柄なのですか。それに、なぜ私は親王になれずに源の姓を賜って臣下に降らなければならなかったのですか」

 細々とつぶやくような源氏の言葉が終わってから、しばらくの間があった。

「それは今は申し上げられませぬ。帝、いえ、もはや院とお呼び申し上げましょう、その院のおわします限りは」

 源氏はまたもやいらだちを覚えた。自分の知らない世界がある。自分は情報網の外でとり残されている。

「宮様ッ!」

 思わす源氏は叫んだ。

「光の君様にもいずれ、お分かりになる時が参りましょう」

 宮の答えはそれだけだった。

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