2章03 『4月29日』 ①
4月29日 水曜日。
「――おはよう、弥堂くん」
「あぁ。おはよう、水無瀬」
午前10時頃。
入院中の愛苗の病室を訪問すると、彼女は嬉しそうにニッコリと笑い、そう挨拶をしてくれた。
弥堂はいつも通りの無表情で挨拶を返す。
だがその声音は、どこか以前よりも柔らかくなったように愛苗には感じられた。
「ごめんね? お休みの日なのに……」
「気にするな。俺にとってはキミとのことが本分だ。むしろそれを休んで学園に行っていたようなものだな。キミもそう思うといい。悪かったな」
「ううん。ふふ……、ヘンな弥堂くん」
弥堂はベッドの脇まで移動し、クスクスと笑う彼女の旋毛をジッと視下ろす。
眼に写る彼女の“
すると、不意に足に何かがぶつかり、弥堂は魔眼を解除した。
足元に目線を向けると、病室内にいたメロがそのネコさんボディで丸椅子をグイグイと押して、ベッドの脇まで運んできてくれたようだった。
弥堂は礼も何も言わずにそれに座った。
その態度にメロはムッとする。
人としての常識やマナーを持たぬクズ男の行動に憤り、メロはブワッと毛を膨らませる。だが、今は愛苗がたくさんお喋りをしたいだろうと慮って、黙って床にグデーっと這いつくばった。
ビニルの床シートがひんやりとした心地よさをお腹に伝えてきて、ネコさんはムニャムニャと眠くなってしまった。
「…………」
弥堂もまたメロのその様子を観察し、何かを言おうとしてからやめ、改めて愛苗に向きなおる。
「身体の方はどうだ?」
さすがの非常識男も、ここは定番の台詞から会話を始める。
愛苗はまた嬉しそうに、楽しそうにニコーっと笑った。
「うんっ。元気だよ! もう“かけっこ”とか出来そうな気がする」
「そうか。それはよかった。医者は何か言っていなかったか?」
「えっとね……、だいじょうぶだと思うけど、一応ちゃんと検査して様子見ようねーって。でも、そんなに長くはならないから安心してーって」
「そうか」
小首を傾げて宙空から記憶を取り出しつついっしょうけんめい答える愛苗ちゃんに、弥堂は定型的な返答をしつつのっぺりとした黒い瞳に彼女を写す。
「なにか不快なことはされていないか?」
「え?」
「何かあったらすぐに俺に言え。特に男性スタッフが相手な場合は」
「だいじょぶだよー。先生も女のひとだし。キレイでカッコいいひとなのっ」
「そうか。賠償金を巻き上げるチャンスだったんだが、残念だ」
「えっと……? 弥堂くん“ざんねん”になっちゃったの?」
「いや? 気のせいだ。キミが平穏無事なようで安心したよ」
「えへへー。弥堂くんのおかげだよ! ありがとうっ」
「それも気のせいだ」
微妙に噛み合っているような噛み合っていないような雰囲気の会話を繰り広げる二人の様子を、ネコさんがまったりと見ている中、話は進む。
「――今後のことなんだが」
「うん」
弥堂が話題を変えると、ほんの少し愛苗の肩に力が入ったように見えた。
「構えなくていい。今後と謂っても“将来”だとかそういう大きな括りの話じゃない。これからの一週間くらいの短期的な予定についてだ」
「あ、うん。ありがとう」
弥堂の片眉が跳ねる。
愛苗が口にした「ありがとう」
彼女は普段からよく「ありがとう」「ごめんね」という言葉を使う。
しかし、その回数が以前よりも増えているような気がした。
弥堂は表情を元のモノの固定する。
気がしただけなら気のせいだと流し、自分の話す予定だったことを喋る。
「――仮に」
「え?」
ぱちぱちとまばたきをする愛苗の顏を慎重に観察しながら、今日一番重要なことを言って聞かせる。
「これはもしも、あくまで仮にの話なんだが」
「かりに……」
「キミの入院期間がもう少し伸びることになったら。その場合の話なんだが……」
「え? 私もっと入院なの? もしかして先生なにか言ってた?」
「いや? 特に聞いていないな。言っただろ。あくまで仮に――の話だ」
「そっかぁ。仮ならしょうがないよね」
「あぁ、しょうがないんだ」
素直な“よいこ”である愛苗ちゃんは納得したが、床に寝そべる悪魔でネコなメロさんが、早速不穏な雰囲気を出し始めた不審な男へ疑惑のジト目を向けた。
「俺は明日と明後日学園に登校をしたらその翌日から連休に入るだろ?」
「うん。G.Wだよね」
「俺はその連休期間を使って、まとまった金を稼ごうと考えている」
「あるばいと……?」
「そうだ。キミは賢いな。だからもしもキミがG.Wに入っても退院できなかった場合、連休中にはこうして毎日見舞いに来ることが出来ないかもしれない」
「そっかぁ……、でもお仕事ならしょうがないよね」
「あぁ。悪いな」
シュンとする愛苗ちゃんに弥堂は謝罪を口にする。
それによって素直な彼女は困らせちゃいけないと考えるが、しかしメロはそうではない。
(コイツ……、あやしいッス……!)
絶対に謝らないクズが求められてもいないのに謝罪をする時は嘘を吐いているに違いないと疑惑を深める。
それに、『連休中には、こうして毎日来れないかも』などと言っているが、この男は既に昨日バックレている。元々毎日来てなどいないのに何をいけしゃあしゃあと――と、メロはネコさんアイをギラリとさせた。
これは気の弱い女の子に罪悪感を抱かせてからそれにつけ込み、そして食いものにする――そんなクズ男お得意の手法に違いないと確信を持ち、床をバリバリして爪を研ぎ始める。
「あっ、メロちゃん“めっ”!」
「あ、こりゃすまんッス。ついやってしまったッス」
「えへへ、いいよー」
しかし愛苗ちゃんにすかさず“めっ”をされてしまった。
「あ、ゴメンね弥堂くん。えっと、なんだっけ……?」
「毎日見舞いに来れないからすまんなという話だ」
「ううん。だって、弥堂くんがアルバイトいっぱいがんばらなきゃなのは、私のせいだし……。さみしいけど、私もがんばるね?」
「そうだな。一所懸命がんばれ」
さりげなく『来れないかも』が『来れない』に変わり、メロは呆れた目になる。
(ていうか――)
半ば冗談混じりに疑ってかかってみたが、
(なんかもう完全に“そういう”絵面にしか見えねえッス……!)
気の弱いネコさんは勝手に疑心暗鬼になって、グリングリンと身を捩って背中を床にこすりつけた。
ひんやりとして気持ちよくなんだか眠たくなったが、「くぁっ」とアクビをして脳に酸素を送り、とりあえず二人の会話に乗ることにする。
「いや、そこは『そんなことないよ』って言えよッス。思ってなくてもいいから!」
すると二人の視線がメロに向く。
愛苗ちゃんはふにゃっと眉を下げた。
「ダメだよメロちゃん。お金って大変なんだし。本当なら私たちが自分で何とかしなきゃいけないことなんだよ? ちゃんと弥堂くんに『ありがとう』しなきゃ……」
「その通りだ、下等動物め。しっかりと感謝をしろ」
「そうッスけど! そうなんッスけど! なんかコイツが相手だと、何故か素直にそう思えねえっつーか、なんか騙されてんじゃねーかとか……!」
「メロちゃん“めっ”!」
「そんな……⁉」
大好きな家族の愛苗ちゃんにまたも“めっ”をされてしまい、メロはガーンっとショックを受ける。
確かに愛苗の言うことが一般的には正論だが、事相手がこの男になる場合に限ってはそうではないと感じるのだ。
世の中の理不尽さに遣る瀬無さを感じたネコさんは、床をバリバリしてそのストレスを発散する。
「あっ……、メロちゃん“めっ”!」
「そんな……⁉」
「…………」
しかし、すかさずその“おいた”を叱られてしまった。
そんなポンコツコンビの様子に醒めた眼を向けながら、弥堂は持参してきた袋を愛苗に渡した。
「土産だ。やる」
「わわわっ……」
渡すと言っても、ベッドで身体を起こして座る彼女の膝元にポイっと放ったので、愛苗ちゃんは“たいへん”になった。
「オマエ、ちゃんと手渡せよッス」
「うるさい」
弥堂がネコさんに人としての常識について注意を受ける中、愛苗は袋の中に目線を入れる。
「あ、お菓子」
「あぁ。食え」
「ありがとうっ。えっと……、でもね?」
「どうした?」
一瞬笑顔を輝かせたが、すぐにどこか浮かない顔になった彼女に、弥堂は怪訝な顔をする。
「今日はね、これから検査があるの……。その前に勝手に色々食べちゃったらダメかなって……」
「あぁ、そうか。それなら終わったら食べるといい」
「うん、ごめんね? あとで一緒に食べようね」
「いや。俺はそんなものは食わない。菓子は嫌いなんだ」
「あ、あんな? 少年な? 自分が食いたくないって言ってる物を渡されたら、その人微妙な気持ちになっちゃうだろ? 無理して食えとは言わねえッスけど、もう少しこう、なんというか……」
「うるさい。ネコごときが生意気なクチをきくな」
「い、いやな? ジブンなんか一周まわって少年のコミュ障具合が心配になってきたっていうか……」
「ふふ……」
大好きなお友達同士が仲良くおしゃべりしているのを見て、愛苗はクスクスと笑う。愛苗ちゃんアイにはそう写っている。
しかし、ふと、彼女はまた浮かない顔になった。
「どうした?」
それに気付いた弥堂が窺うと、愛苗はまた眉をふにゃっとさせる。
そしてどこか言いづらそうに口を開いた。
「うん……、あのね?」
「……?」
「せっかく来てくれたのになって……」
「どういうことだ?」
「ほら、この後もう検査だから。愛苗はもっとオマエとお喋りしたかったんッスよ」
「あぁ、そういうことか」
「うん。“ざんねん”だなって……」
メロに捕捉されてようやく弥堂は得心する。
だが、その上で眉を寄せた。
「話があるなら検査が終わった後で聞いてやる。それで問題ないだろ」
「少年、少年。『話がある』んじゃなくって『話をする』んッスよ」
「わからないな。優先順位は検査の方が上だろ」
「そうなんだけど……」
弥堂が不可解そうにしていると、愛苗ちゃんが何やらもじもじとした。
どうやら彼女には心配事があるようだ。
「あのね? 私が検査に行くと弥堂くんお暇になっちゃうじゃない?」
「うん? まぁ、そうかもな」
「それでね? 弥堂くんってすることなくっちゃうと、すぐどこか行っちゃうじゃない? しゅーって」
「“しゅー”としたことは一度もないが、まぁ、そうかもな。俺はそういう行動をしがちだ」
何もしない時間が出来たのなら、それを他のことをする時間に充てる。
その方が効率がいい。
それが弥堂の
「だからね? 検査で待たせちゃうと、弥堂くんがまんできなくなって、どこか行っちゃわないかなって……」
「…………」
まるでこちらが分別のない幼児であるかのような言い草に弥堂はカチンときたが、溜息で吐き出して彼女を安心させることにした。
「安心しろ」
「え?」
その眼つきは決して他人に安心を促せる類いのものではなかったが、“よいこ”の愛苗ちゃんは人を疑ったりしない。
だが――
「検査が終わるまでちゃんと俺も病院に居る」
「ホントに?」
「あぁ」
「お暇で“や”にならない?」
弥堂はスッと眼を細める。
その顔から増々安心感が失せた。
しかし、愛苗の様子が少々気にかかったのだ。
普段よりも食い下がってくるような気がする。
だが、それは疑われているからというわけでもなさそうだ。
彼女は小学校の途中から高校に入る少し前までの長い期間をずっと病院で過ごしてきた。
もしかしたら、また入院をすることになってしまったので、そのことで何か強いストレスを抱えているのかもしれない。
過去の入院時代は彼女にとってあまりいい思い出ではないだろうし、病室に閉じ込められていれば嫌でもその時のことを思い出すことだろう。
それと、この10日間で起こった出来事によって、他にも何か精神的な問題が発生した可能性もある。
見た目の上では彼女は元気で健康だが、まだ楽観は出来ない。
医者にも魔術師にも見えない部分に、問題があるかもしれないのだ。
弥堂はそう考えつつ、しかし、この場ではとりあえず彼女を言い包めることにした。
「――確かに暇だが、それは俺が自分で消化するべき問題だ。だが、そうだな……」
今何かを思いついたフリをしながら、部屋の隅に置かれた紙袋に眼を遣り立ち上がる。
「弥堂くん?」
「ただ馬鹿のように口を開けながらここで待っているのは時間の無駄――それも事実だ。だからその時間を使って俺は出来ることをしておく。洗濯物はこの袋の中だな?」
「え? うん。そうだけど……」
「お前が検査を受けている間にこれを片付けておくよ」
「でも、悪いよぅ……」
「気にするな。これがないと俺はすることがなくて何処かへ行ってしまうかもしれないぞ。それでもいいのか?」
「あわわ……っ、たいへんだぁ……っ」
弥堂が得意の脅迫を繰り出すと愛苗ちゃんはたいへんになってしまった。
「――ということで、俺の暇つぶしの為に、この俺を憐れだと思って、どうかこんな俺に仕事を与えてくれないか?」
「くすくす、いいよー。ふふ、弥堂くんヘンなの」
「よく言われるよ。だが、安心しろ。やるとなったら俺は必ずやる。何があろうと俺は洗濯をやり遂げてみせる。その為の手段は選ばない」
「いや、選べよッス。ちゃんと1階のランドリーに持ってって、最適なコースを選べよッス」
ジト目になったメロが放った呆れ声に弥堂が反論をしようとした時――
コンコンと――
病室の扉がノックされた。
弥堂の眼が細まり、警戒レベルは一瞬で最大値まで上がる。
「おっと、誰か来たみたいッスね」
言いながらメロはコロコロと転がってベッドの下に隠れる。
我が物顔で床に寝そべっているが当然この病室もペット厳禁である。
メロの様子を見届けてから、弥堂はスッと扉に眼を戻す。
コンコンと――
もう一度ノックの音。
「あ、ジブン隠れたからもう開けてもいいッスよ」
「…………」
そう声を掛けてくるメロへもう一度眼を遣った。
ベッドの下で寝そべり、長い尻尾を器用に使って太々しく鼻を穿っている。
今考えることではないが、このメロに関しても愛苗同様にその心情を探るつもりでいた。
つい先日、割とキツめに追い込みをかけたので、精神状態が弱ったままでいないかと気にしていたのだ。
当然、「悪いことしちゃったなー」とか、「言いすぎちゃったなー」などと、弥堂がそのように気を遣っているわけがない。
ずっと弱ったままでいられたら使い物にならないし、逆に全く効いていなければ追加で追い込む必要もある。
悪魔という種族は精神的な不調がダイレクトに生死に関わるので、経過を観察しようと考えていたのだ。
弥堂の手応えとしては、少々弱らせ過ぎたと感じていた。だが、昨日の電話の時、そして今日の様子を視るに、どうやらケロっとしているように視える。
弥堂の見立てが間違っていたのかというと、おそらくそういうわけでもない。
悪魔など所詮こんなものでもある。
隙あらばすぐにふざける。
ヤツらはそういう生き物だ。
だが、メンタルの不調で滅びる可能性があるのなら、そうならないように嫌なことはすぐに忘れる――そうなることは生物としては非常に正しいとも謂える。
今日様子を視てみて、必要そうなら定期的にシメるかと決めた。
彼がそんなことを考えているとは露知らず。
来客が来ているのに、弥堂が無言のまま動こうとしないので、メロは訝しんだ。
「オイ、少年?」
「…………」
「なにしてんッスか。オマエしか出る人いねえだろッス」
「…………」
「オイってばよ」
「すぐに飛び出せるよう準備をしとけ」
「は?」
ようやく喋ったと思ったらまた意味のわからないことを言われ、メロは素っ頓狂な声をあげた。
「俺が出る。部屋に引き摺りこんだら素早く扉を閉めろ」
「なに言ってんッスか、オマエ」
「刺客かもしれない。もしもそうだったら先制攻撃をしかけて尋問する」
「んなわけあるかーッス! きっと病院の人ッスよ!」
「それはまだ未確認だ」
「オマエマジで一個一個全部疑ってんッスか⁉ そのメンヘラここで診てもらえよッス!」
「うるさい黙れ」
そう言いあっている内に先に病室のドアが開かれてしまった。
弥堂の身体は反射的に動き出す。
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