2章03 『4月29日』 ②

「――失礼しまーす。愛苗ちゃん起きてるかなー?」



 ちょっとハスキーな声とともに開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは、愛苗が目を醒ました日にも居たギャルナースさんだ。



「あ、リンカさん。おはようございますっ」


「朝ごはんの時にも会ったじゃん」


「あっ、そうでした! ご飯食べたらちょっとウトウトしちゃってました!」


「あはは、そっか。あ、そろそろ検査の準備を――」



 フレンドリーな笑顔を浮かべながらギャルナースさんが入室しようとすると、ズイっとその進路を塞ぐように身体を置く者が。



「――検査の迎えか? ご苦労」


「――ゔっ……⁉」



 弥堂である。



 ギャルナースの梨香さんは、この患者さんのお兄さんがとても苦手だったので思わず呻く。


 しかし、すぐにその表情を繕い――



「あ、お兄さん来てくれてたんですね。おはようございます」


「ご苦労」


「…………」



 業務上仕方なく愛想をくれてやったが、随分と尊大な態度で返されて口の端をヒクヒクとさせた。



 ギャルナースさんはそれ以上内心が顔に出ないよう努めながら、目の前に立つ男の顔を見る。


 こういった仕事をしていると嫌でも気付くようになってしまうのだが、生い立ちや家庭環境に問題がある者は顔を見ればなんとなくわかる。


 この男は大分問題がありそうだ。



(でも、不自然なのよね……)



 今度はチラリと、弥堂の身体の向こうの愛苗へ目線を遣る。



(妹ちゃんの方は真逆で素直すぎて心配になるくらいいい子だし……)



 同じ家庭環境で育った兄妹の人格に、こうもギャップが出来るのは今までに見たことがない。


 だけど妹の方はとても兄のことを慕っているようだし、愛想のない兄もこうして頻繁に見舞いに来ている。



(外では仲良く振舞うよう強要しているようには見えないし……)



 少なくとも兄妹仲はいいのだろう。


 するとそれ以外の家庭事情に何かがあるのだろうが、わかりやすい例として――



 兄は妹のことを『水無瀬』と呼び、妹は兄のことを『弥堂くん』と呼ぶ。


 どう考えても訳アリでないはずがない。



 だが――



(ちゃんと正規の手続きで入院してるみたいだし……)



 まさか身分を偽証していて本当は兄妹でもなんでもないなんてことはないだろう。


 個人的な好奇心でとっても気になるが、自分は精神科ではないし、患者さんもそっちに罹りに来たわけではない。


 迂闊に踏み込んだらトンデモなく火力の高い地雷を踏み抜きそうなので、気楽に詮索するのは憚られた。



(……仕事しよ)



 そう切り替えてまた愛想笑いを造った。



 この部屋に来るまでに廊下を転がしてきたワゴンを部屋の中へ入れようとする。


 すると、スッと伸びてきた大きな手がワゴンを掴み、部屋の中へ引き入れた。



「あっ、どうも……」



 ポカンと口を開けながら礼を言う。


 病室の入り口に立っていた弥堂がワゴンを受け取ってくれたのだ。



(あれ? やさしー? 意外といいヤツなのかな……?)



 なんてことを考えた矢先、ギャルナースさんの目の前で扉が閉じられようとする。



「ちょちょちょっと……! ワタシまだ入ってないんだけど⁉」



 ガッと扉を掴んで慌てて部屋の中に片足を突っこむ。



「…………」


「ゔっ……⁉」



 文句を言ってやろうと弥堂の顏を見上げたら、またのっぺりとした渇いた瞳が自分を見下ろしていた。


 気味の悪さに鳥肌をたて、思わず言葉を呑み込んでしまう。



「…………」



 弥堂は何も言わずにカラカラとワゴンの車輪を回し、扉の脇に止めた。



 ギャルナースさんはヒクヒクと頬を動かしてから、頑張って無かったことにしてワゴンに近づく。



「あ、もしかしてもう検査の時間ですか?」



 洗面器に微温湯を注いでいると、“よいこ”の妹さんから話しかけられた。


 これ幸いとギャルナースさんは答える。



「うん。まだもう少し時間あるんだけど、その前に身体拭いちゃいましょうねー」


「はーい」



 つい子供に喋りかけるような口調で話してしまったが、それに元気いっぱいなお返事が返ってくる。


 あの年頃の子だと、身体を拭かれることを嫌がる子もいるが、彼女は喜んでくれるのでナースさんとしても助かる。


 それにこれで合法的にカラミづらい男を退去させられると、そんなことを考えながら再び弥堂へ顔を向けた。



「そういうわけなんでお兄さん――」


「――あぁ、ご苦労」


「へ……?」



 少し部屋から出て行ってくれと要求するはずだったのだが、この部屋で唯一の男性はまたも尊大な返事をしながら、当たり前のようにギャルナースさんの手からタオルと洗面器を取り上げる。


 思わず放心している内に、その男はベッドの横まで移動した。



「おい、脱げ」

「え? うん」


「は? え……? えっ……?」



 大学生か社会人ほどの見た目の兄が命じ、中学生ほどの見た目の高校生の妹が承諾する。



 ギャルナースさんは動揺した。


 自分自身に男兄弟はいないが――



(――こ、これって、どう考えても……)



――普通のことだとは思えなかった。



 兄の背中越しに妹の脱衣の仕草が垣間見える。


 何やらルンルンしながらパジャマのボタンを外す彼女に、強要をされて嫌がっているような雰囲気は全くない。


 混乱している間に、事は進んでいく。



「おブラが邪魔だな。どうせ背中も拭くし、お前これ外せ」

「うん。ちょっと待ってね」


「えっ……⁉」



 前を開いたパジャマを着ながら愛苗ちゃんが背中に両手を回す――ような仕草が弥堂の背中越しに窺えた。


 ギャルナースさんはさらに動揺した。



「うんしょ……、うんしょ……っ」

「お前これ自分で外せないのか?」


「えっとね、私へたっぴで。ななみちゃんはパチンッて上手にするんだけど……」

「じゃあどうやって着けたんだ?」


「それはメロちゃんがやってくれたの。だからね、どうしても上手く出来ない時はグルって前に持ってきて……」

「よくわからんが、もういい。俺がやる。外すぞ」


「あ、うん。ありがとう」


「なんでお礼っ⁉」



 常人には理解し難い兄と妹のコミュニケーションがなに憚ることなく続いていく。



「……外しても邪魔だな」

「うん、ごめんね? おっきくて」


「別に悪くはないだろ。背が小さいのも乳がデカイのも、別に自分でそうしているわけじゃないだろ」

「そうだけど……、でもでもっ、弥堂くんはちっちゃい方が好きなのかなって」


「大きさに拘ったことなどないが、何故そう思った?」

「だってね? 弥堂くんはななみちゃんのことが大好きじゃない? だからね、ななみちゃんみたいに、ちっちゃくてキレイでかわいー方が好きかなーって」


「何度も言っているがそのような事実はない。もう一度言うぞ。俺はあの女が好きじゃない。むしろ今のでちっさい胸が嫌いになった」

「えぇっ⁉ どどどどどうして……⁉」


「いいか、よく聞け。俺は爆乳好きだ。だから安心しろ」

「あ、うん……、それはよかったけど。でもねでもね?」


「希咲の話なら後でゆっくり聞いてやる。今重要なのはデカイ乳は悪くないということだ」

「そっかぁ……。でもね? おっきぃと“たいへん”になっちゃうこともあってね?」


「何故だ? なんでもそうだが、大は小を兼ねるだろ?」

「そうなのかなぁ? だけど私ね? いっつもお胸の下に汗かいちゃって……」


「あ? じゃあそこも拭いた方がいいのか? お前ちょっとこれ持ち上げてろ」

「あ、うん。ごめんね?」



 かなり自由度の高い会話が流れ、ギャルナースさんがハッとする。



「ちょ、ちょっとちょっと……!」



 流石にマズイのではと止めに入った。



「なんだ?」


「ゔっ……⁉」



 すると、まるで物を見るかのような無機質な瞳が振り返ってくる。


 しかし怯むわけにはいかないので、グッと奥歯を噛み締めてからギャルナースさんは口を開いた。



「え、えぇっと……、それはワタシがやりますから……」


「何故だ?」


「えっ⁉」



 すると想定外の質問が返ってきて、またも彼女は動揺する。



「えー……、何故って言われても……、その、なんていうか……」


「そうか。では、それには及ばない。事足りている」


「そ、そう言われても、お姉さん困っちゃうかなー、なんて……」



 半裸の妹の前から頑なに動こうとしない男に内心苛立ちながら彼女は辛抱強く食い下がった。


 しかし、このままでは埒が空かなそうなので、ギャルナースさんはもうぶっちゃけることにした。



「あの、いやもうハッキリ言うけど。いくら兄妹でもその年でそれは“ナシ”でしょ」



 すると、弥堂の瞳の温度もさらに下がった。



「大きなお世話だ。我が家のことに口を出さないでもらおうか」


「い、いや、こっちもそういうわけにもいかないってゆーか……」


「やれやれ……、はっきり言わないと理解出来ないのか? 彼女に触るなと言っているんだ。この薄汚いアバズレめ」


「んなっ……⁉」

「びびびび弥堂くんっ⁉」



 最低限を取り繕うことすらやめた男の暴言に愛苗ちゃんとギャルナースさんはびっくり仰天した。



「こ、この……っ! 誰がアバズレよ⁉ 黙って聞いてれば……っ!」


「ふん。簡単に敵意を顕したな。素人め」


「誰が素人よ! こっちはプロよ! プロのナースさん!」



 あまりの言い草にナースさんも流石に怒りを露わにする。



「あ、あのね? 弥堂くん。悪口言われちゃったら誰でも怒っちゃうと思うの」


「お前は黙ってろ。さぁ、この酢こんぶを食え」


「むにゅぅっ⁉」



 オロオロした愛苗ちゃんが止めに入るが、そのお口に酢こんぶを捻じ込まれて敢え無く無力化されてしまう。



「ワタシだって仕事でやってるんだから! 好き勝手は許せないっつーの!」


「そうか。そこまで言うのなら――」



 眦を上げるギャルナースさんの言い分に頷きながら、弥堂は徐に席を立ち彼女の前に立つ。



「――おい、脱げ」


「はぁっ……⁉」



 ジロリと視下ろしながらそう命じると、びっくりしたギャルナースさんのナースキャップがポンっと跳ねた。



「誰もワタシを拭けなんて言ってないでしょ⁉ この変態野郎!」


「…………」



 爆乳ギャルナースさんは両腕で胸を守りながら怒りを露わにする。


 天井付近まで上がってから彼女の髪の上に戻ってきたナースキャップをジッと視てから、弥堂は自息過剰な女に答えてやる。



「勘違いをするな。ボディチェックだ」


「は、はぁ……? ボディチェック……?」


「武器の類を隠し持っていないか確かめる。それが貴様の要求を呑む最低条件だ」


「なに言ってんの⁉ そんなのあるわけないでしょ!」


「本当にそうかな」



 ギラリと弥堂の眼が蒼銀に輝いた。



「お前のその爪――」



 ギャルナースさんの手を指差す。



「――爪……? これがなに? 付け爪もしてないし、ベツに伸ばしてもないし。妹さんに傷なんかつけないわよ」


「ふん、白々しい」


「はぁ?」



 鼻で嘲笑う男の言うことがまるで理解出来ず、ギャルナースさんは盛大に顔を顰めた。



「お前は看護師だろ。ここは病院だ。なのにそんな風に爪をギラギラと彩る必要などないはずだ。この場に全く相応しくない」


「えっ……?」



 しかし、老害ジジイのようなイチャモンをつけ始めた若者に絶句してしまう。



「えへへ、キラキラでかわいーよね」


「いや、不自然な色をしている。それに毒でも塗っているに違いない」


「えー? そうかなー? あ、あのね? そういえばななみちゃんのお爪もね――」


「――お前は黙ってろ。さぁ、この麩菓子を食え」


「もがぁっ⁉」



 こんぶをむぐむぐゴックンし終えた愛苗ちゃんは今度は真っ黒な麩菓子を無理矢理お口に捻じ込まれ、またも無力化されてしまった。



「な、なんなのコイツ……ッ⁉」


「それはこちらの台詞だ。誰に頼まれた。言え」


「だ、誰って……、婦長……?」


「ほう、まだ惚けるか。だが、俺は騙されない。ボディチェックを受けるまではこいつに指一本触らせんぞ」


「い、いや、だからこっちは仕事なんだって!」


「だったらさっさと脱げ。それとも、こいつの前でボディチェックを受けると何か不都合なことでもあるのか? どうなんだ?」


「知らない男に脱げとか言われて不都合じゃない女子なんかいるかっ!」



 もはや客だの患者さんのご家族だのと言っていられない状況になり、激しい言い争いに発展する。



 その時、ベッドの下でメロがハッとした。



 自身が隠れ潜む場所のすぐ上で、大切なパートナーである愛苗が野蛮な男に肌を晒しているという状況に興奮して正気を失っていたのだ。



 しかし我に却ってしまうと今度は顔をサァーっと青褪める。



 あの男が先日愛苗に同居を迫った時に言った言葉を思い出す。


――お前は俺に迷惑をかけることを気にしているみたいだが、俺の方がもっとお前に迷惑をかける。


 確かそんなようなことを口走っていた。



(こ、こういうことッスか……⁉)



 これからの生活、まさかこんなことが毎日起こるのではと戦慄する。


 しかしその一方で、真逆の期待感も胸の中に膨らんだ。



「――もういい。勝手にやらせてもらいます。このままじゃ検査に遅れちゃう」


「あ、貴様――」



 本来ここに居てはいけないネコさんがワナワナとしていると、痺れを切らしたギャルナースさんが強硬手段に出る。


 弥堂からタオルを奪い取ろうと彼に近寄る様子がメロの目にも映った。



「勝手は許さんぞ」


「いいからどいて」



 進路を塞ごうとする弥堂と、押し入ろうとするギャルナース。



 それを見た瞬間、嫌な予感がブワっとメロの毛皮を膨らませた。



 女性ナースの指がタオルを持つ弥堂の右手に触れようとする直前、さりげなく弥堂の左手が自身の腰の後ろに――



――メロは反射的に飛び出した。



「――や、やめろぉーッ!」



 メロは弥堂の左手に飛びついた。



「む、貴様。どういうつもりだ」


「オマエがどういうつもりッスか⁉」



 案の定、メロがネコさんボディで取り押さえた弥堂の手には黒いナイフが。



「俺の邪魔をする気か? 裏切者め」


「当たり前だろォッ! それはマジでシャレにならんだろうが……ッ! つーか、すでにもうシャレに――」


「――当然だ。冗談でもなければ遊びでもない。いいから邪魔をするな」


「だからジャマしてんッスよ! クソッ……! ナ、ナースのお姉さん! 今の内に逃げてくれッス……!」



 自分ではこの男を押さえることは出来ない。


 そう判断したメロは一般ギャルに避難を呼び掛ける。



 だが――



「――は? え……っ⁉ 猫がしゃべってる……?」


「あ。こりゃニャベーッス」



 助けたはずのニンゲンの目が驚きと恐怖に見開かれるのを見て、メロは自分がとんでもない失敗をしたことを悟った。



「ねねねねねねこがしゃべ……、えっ⁉ なにこれ……⁉ キ、キモ……」


「ダレがキモイんじゃ⁉ このヤリマンがァァッス!」


「ひっ――」


「あ、しまったッス」



 ついか弱いニンゲンさんを怒鳴りつけてしまうと、余計に恐がらせてしまった。



「どどどどどどどうしよう……ッ⁉」



 メロがキョドキョドと目を泳がせていると、悲鳴をあげるためか、ギャルナースさんのお口が大きく開かれる。



「――ネネネコさんフラーッシュッ!」


「きゃぁーっ⁉」



 テンパったメロは、ピョンコとジャンプして両の前足と後ろ足を広げてネコさん魔法を繰り出した。


 昼前の3階の病室の窓からぺかーっと光が外へ漏れる。



「……はぅっ」



 光が止んでほんの1秒、茫洋とした瞳で立ち尽くしたナースさんは息を漏らして崩れ落ちる。


 気を失ったようだ。



「ふぅ……っ、間一髪ッス……」



 ペロリと舐めた前足でおでこを擦りながら、ネコ妖精は安堵の息を吐いた。


 そんな彼女を弥堂は胡乱な瞳で見下す。



「完全にアウトだろうが。お前、いきなりやらかしてくれたな」


「性犯罪者に言われたくねーんッスよ! オマエのせいだろ⁉」



 事態がよくわかっていない愛苗ちゃんがぽけーっとする中、少しの間二人はお互いに醜く責任を擦り付け合った。

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